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『猫たちの時間』番外編 〜猫たちの時間9〜  作者: segakiyui


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『高野25時』(1)

 高野は5時30分に起きる。

 かけておいた目覚ましは大抵5分前に止め、ベッドから起き上がって着替えを済ませ、まだ火の入っていない食堂で自分で淹れた紅茶とビスケット数枚の朝食を終えると、郵便物が少し遅れて起きた岩淵の手で届けられる。

「おはようございます、高野さん」

「ああ、おはよう。少し寒い方かな、今日は」

「いえ…それほどには思いませんが…」

「そうか…」

 歳のせいか、と苦笑しながら、郵便物に目を通す。必要と思われるもの、注意を要すると思われるものは取り分け、他は岩淵に焼却を命じた。大悟に仕えていた頃からの習慣で、周一郎の代になっても変わらない。

「坊っちゃまはよくお寝みのようか?」

「起きておられるようです……庭の巡視の者が灯を見たと言っておりました」

「そうか…」

 高野は小さく溜息を吐いて、郵便物を片手に立ち上がった。岩淵がカップや皿を片付けにかかるのを軽く手で制して、主の居る二階へ向かう。起きているとはわかっていても、朝の報告と指示の受け取りは定められたことだ。

 階段を上がりながら、高野の心は心配に曇る。

 主、朝倉周一郎はまだ二十歳、容貌はさらに幼く、時によると十八、九歳にも見える。もっともそれは、或る特定の友人と居る時に限られた。滝志郎と言う、類稀なドジでお人好しの男。彼のみが、他人を寄せ付けず、自分の命も顧みなかった周一郎の心を守っている。

 その滝は、一昨日、昨日と帰ってきていなかった。一昨日の夜、友人に誘われたとの連絡があったきり、音沙汰が無い。

 一昨日はそれでも、そのうち帰る、と応じていた周一郎は、昨日になると目に見えて元気がなくなった。ただでさえ口数が少ないところへ、問いかけにも頷くか首を振るのみ、自らのことばは短い指示しか出さない。食事が入りにくくなり……やがて飲み食いをやめてしまい、恐らくは昨日の夜から一睡もしていない。

 大悟を失った時もそうだった。拠り所を失くすと、周一郎は食べることも眠ることも拒否してしまう。そうして、ひたすら自分を追い詰めていってしまう。

 高野は周一郎の部屋のドアに前に立ち、ゆっくりと密やかなノックをした。返答がないのは予想していたから、

「おはようございます。高野です」

 低くはっきりした声で告げて、ドアを開けた。

「…」

 くるり、と窓際に立っていた周一郎が振り返った。醒めた冷ややかな表情、服装には一点の乱れもない。黒い瞳が高野を捉え、物問いたげに凝視した。

「いえ…まだご連絡はありません」

 相手の瞳の奥に周一郎らしくない怯えたような色を見て取って、高野は目を伏せた。視界の端で周一郎の肩が僅かに落ちる。目を上げると、俯いて唇を嚙む、幼い周一郎の顔があった。

 見開いた瞳はどこも見つめていない。自分の中にある暗闇を吐き出そうとでもするようにことさら開いた目に浮かんだものを高野は知っている。滝が何者かに拉致されたのではないか、と言う不安だ。

 朝倉周一郎、『氷の貴公子』。

 その名前には味方も多いが敵も多い。周一郎さえ殺せればと悲壮な決意を固めて来る者も少なくない。朝倉家に、いや周一郎に関わることは、多少ならずとも命を失くす危険があると言うことだ。近ければ近いほど……周一郎が大切に想えば想うほど、その危険は跳ね上がっていく。

「本日の郵便です。内閣の鈴木様から至急ご連絡を頂きたいとのことでした。井上財団の方は了承の返答を致しました」

 周一郎は微かに頷いた。

「他に御用は?」

「…」

 首を振る。

「それでは朝食のご用意を」

「高野」

 ポツンと乾いた声がした。

「いらないから」

「…坊っちゃま…」

「ありがとう。けれど、要らないんだ」

 机の上へ落としていた視線が高野を捉えた。

 正面から受け止めてぞくりとする。

 それは瞳ではないような気がした。ぽっかりと開いた二つの穴……滝以外には誰も埋められない、深く暗い絶望の穴。

「…承知致しました。御用の時はお呼び下さいますように」

 周一郎の首が縦に揺れた。

 それが高野への答えだった。


 どうしたものか。

 高野は溜息をつきつき、階段を下りて来た。

 滝の居場所はわからない、周一郎は眠らない、食事を取らない、休まない。

 遠からず、大悟を失った時のように倒れてしまうに決まっている。

 それよりも気になるのは、今はまだいい、滝はいずれは…恐らくは…帰って来る。

 だが、いつか遠い先、滝がこの家を出て行く時、周一郎は果たして一人で生きていけるのだろうかと言うことだ。

「あ、高野さん…。周一郎様のお食事…」

「召し上がらないそうだ」

「え…」

 階段の下で会った岩淵も、高野の表情を写したように眉をひそめた。

「また…ですか…? 昨夜も召し上がっていらっしゃいませんよ?」

「……後でコーヒーでもお持ちしよう。ああ、滝様はもう起きていらっしゃ…」

「え…?」

 岩淵はますます怪訝そうな顔になった。

「滝様…お帰りになっていたんですか?」

「いや……すまない……」

「はあ…」

 奇妙な顔になる岩淵に、苦笑混じりに応じる。

「耄碌、したかな…。朝のミーティングは8時30分だね?」

「はい、広間の方に集まります……早めましょうか?」

「いや、いいよ。それまで休んでいてくれ」

「はい」

 まだ訝しげな岩淵の声に背中を向け、食堂に向かった。

 火の気のない部屋、空のカップが残る席へ腰を下ろす。

 いつもなら、周一郎の食事の支度を整え、給仕をし、コーヒーまでセッティングした後に周一郎の許しを得て、滝を起こしに行く時間だ。

 若者の常でなかなか起きない滝を、始めはノックで、次に声をかけ、それでも返答がないようなら、ドアを開けて入っていく。

 とは言え、ベッドに近付くまでが一苦労まで、あの秩序正しい部屋がどうすればここまで乱れるのか理解に苦しむ乱雑さで、床に転がっているペンケースにコーヒーカップ、ソファに積み上げられたレポートや他の本を踏まないように崩さないように近づかねばならない。挙げ句の果てにベッドからなぜか転がり落ちていた滝の手を踏みつけることも度々ある。

 そうやって苦心して滝を起こして食堂に来させ(その途中寝惚けた滝が壁にぶつかったり、階段を転げ落ちるなどは数え立てるのも疲れるほどの日常茶飯事)食事を摂らせ、ようよう滝を送り出す。

 そうまでしても、このとことん抜けている滝と言う男は、結局提出用のレポートなぞを忘れていて慌てて取りに戻って来、急いだあまりに玄関で両足の靴を一度に脱ごうとして転び、階段を駆け上がろうとして転び、ドアを開け損ねて転び、部屋の中で転び、ついでに再び階段を転げ落ちて来たりもする。

 加えて、その大奮闘の後には、破れた一点物のカーテンだの、壊れた年代物の壺だの、丁寧に紡がれ時代を超えて来たペルシャ絨毯のずぶ濡れの染みだの、とありとあらゆる破壊物を残していくのだから、高野にとっても朝は戦争なのだ。

 だが、この、今朝の静けさ。

 高野は、ぼんやりと初めて朝倉家へやって来た時のことを思い出していた。


「ここが朝倉家だよ」

「ここが、そうですか、とうさん」

「立派なお屋敷だろう。さあ、お入り。あそこにおられるのが御主人様と、そのお坊っちゃま、大悟様だ」

「大悟…様」

「そうだよ、義直。お前がお仕えするのが、あの大悟様なのだよ」

 やはり朝倉家の執事をしていた父が、高野を初めて朝倉家に連れて来たのは、高野が十八歳の時、晩秋だった。

 広間の中、カイゼル髭を跳ね上げた厳しい顔の男が一人。その横に年の頃九つか十、黒の短いズボンに同色のチョッキ、胸元に生意気に白いポケットチーフを覗かせた少年がいた。

 大悟、と言う声が聞こえたのだろう、少年は物怖じしない様子でこちらへ歩いて来ると、くい、と小さな顎を上げて言った。

「名前は?」

 どきん、とした。

 自分より遥かに小さいこの男の子が、既に他者を寄せ付けぬ一人の王者としての自分を知っているかのような、威圧的な声音だったのだ。

「え…あ……高野…義直…です」

「よし…なお。……気に入らないな。高野、と呼ぼう。いいな」

「え…は…はい…」

「よし」

 少年はにっと、そこだけは幼い笑みで高野を見上げた。


「…野さん……高野さん…!」

「!」

 岩淵の声に我に返る。

「集まりました。お願いします」

「わかった」

 立ち上がって広間へ向かった。


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