『宮田より愛をこめて』(2)
解剖室に戻る前に、ここだけ見ておいて下さい。
そう頼まれて、森田とともに実験室に入る。
「へえ…」
シャーレに液を落としながら、森田は感嘆したような声を上げた。
「出会ったのが高二、ですか。そんな頃から、やっぱり小説家になる奴なんていうのは、どこか違うんですかね。…滝って言うのは、もうその頃から文章が上手かったんですか?」
「いや、上手いってことは……ああ、けれど…」
同じシャーレを覗き込みながら、宮田はことばを継いだ。
高三の頃だった。
ちょうど進路指導も山場で、指導室ではあっちにもこっちにも教師と生徒という、あまり楽しそうでもない組み合わせができていた。
宮田は要領は良かったので指導もすぐに済んだ。何と言うことなしに教師の方もぼんやりと口を噤んで資料を眺め、宮田も周囲をゆっくり見回していた時のことだった。
「やっぱり…啓仁か」
困り切ったような教師の声が響いて、宮田はそちらへ目をやった。
どうやら同じ大学を受ける人間がいるらしい、一体誰だと気になった。向こうの隅の1組、片割れが他ならぬ滝だと気づいて、ますます興味を惹かれた。
滝の相手をしている教師の声が大きくて、会話は否応無く耳に入ってくる。
「そりゃ、ここは奨学金制度もあるが……今の成績じゃどうも、な」
「けれど、出来れば、大学へ行きたいんです、俺」
滝は生真面目に答えている。
「園じゃ高校までしか出してくれないし……今のままじゃ、大した仕事にもつけないし…」
「ああ、お前んとこは身内がいないんだっけな」
言い澱んで調書を見下ろす教師に、滝が孤児らしいと知って意外な気がした。滝にはそんな影など微塵も感じられなかったからだ。
「…どうして大学へ行きたいんだ?」
教師は溜息混じりに尋ねる。
「それに、文学部じゃ出ても出なくても似たようなもんだろ……就職に有利になるなら他の学部の方が」
「俺、数字弱いし、理論ってのも無理だし、体育の方もイマイチだし」
「ああ、まあな」
「でも、出来れば大学へ行きたいんですよね」
「だから、どうして」
「…笑われそうだ」
滝はわずかに唇を上げた。普段の表情からは想像もつかない、大人びた微笑になる。ふっと何か、目に見えない深いものが瞳の奥から滲んだ、そんな気がして、宮田は思わず瞬きした。
「笑わんよ」
「…俺って、動く人間みたいなんです。落ち着いているところがないって言うか。父母がいないのもそうだし。その動く先って何となくわかっているみたいで、それがどうしてかわかんないけど、今度は大学へ行った方がいいって気がするんです。……俺…人って言うの、気になるんです。気になるって言うのも変だけど……何か、人が生きてんの見るの、好きなんですよ。飯食って、糞出して、それで動いてる体、とかじゃなくて、何か、ほら、あるでしょう、他に生きてる状態っていうのが。それが何なのか、見たいって……えと…俺、何か妙なこと、言いましたか」
「…え…あ…いや」
問われて、教師は我に返ったようだった。
教師の戸惑いが宮田にはよくわかった。誰だって、たかが高三の『子ども』が、ここまで『人生』と言うものに対して姿勢を確立させているとは思わないだろう。世間の複雑さに叩かれていないからこそ、視点は明確で単純で、逆にどれほどの意味を集約できているかわからない。
「そうか……お前、去年、『隣人』の課題文で校内編集に載ってたなぁ…」
「ああ…『じーさん』て奴」
宮田も思い出していた。
毎年高二の生徒に課題を与えて書かせる作文コンクールがあり、その中の優秀作品10編を集めた作品集が全校配布される。昨年の課題が『隣人』で、優秀作品の中に滝の『じーさん』が入っていた。隣人への礼儀やトラブルの解決法、社会道義のあり方などを書いた文の中で、『じーさん』と若者の交流を中心にした作品は異色として目立ったばかりではなく、筆者の深く暖かい視点が隅々まで届いている好短編として評判だった。
「やっぱりね」
実験器具を片付けながら、森田は納得したように頷いた。
「何かをやる人って言うのは違うんですよ。あーあ、俺なんか、いつまで下っ端やればいいんだか……いけね」
「構わんさ」
宮田も苦笑しながら手伝い、言い過ぎたと舌を出した森田に笑みを深めた。
「じゃあ、解剖室の方へ戻るから」
「はい…あ、宮田先生」
「うん?」
「先生は随分滝志郎のことを知ってるんですね。かなり親しい友人だったんですか?」
「…かも知れんな」
森田のことばにぎくりとしたのを煙に巻いて、実験室を出た。
薄曇りの冴えない空の下、白衣に手を突っ込みぶらぶら歩きながら考える。
宮田は随分、滝志郎のことを知っている。
なぜか、と尋ねられたような気がした。
なぜだろう。
あのお人好しな、どこと言って取り柄のない、冴えない男のどこが気になったのだろう。そして、なぜだろう、こうして今でも滝のことを気にし続けているのは。
親しい友人、と森田は言った。
そうかも知れない、と宮田は応じた。
けれども、そう応じる裏でもう一つの声が嘲るように吐き捨てた、そうとも、親しい友人、ぐらいでしかない。
あれはどう言う意味なのだろう。
滝の電話が待ち遠しかったのはなぜだろう。
見送りに行かなかったのはなぜだろう。
滝が順調にやっていけているのがどうして淋しいのだろう。
高二の時、あのボールを素直に返しに行ったのはなぜだろう。
高三の時、滝の進む先が啓仁と知って胸が騒いだのはなぜだろう。
滝が二年も大学に来なかった時の苛立ちはなぜだろう。
こうして、一つ一つ、数え上げられるほど、滝のことを覚えているのはなぜだろう。
解剖室へ戻ってみると田畑の姿は消えていた。白い布をかけた遺体の側にレポート用紙一枚、癖のある跳ねた字で伝言がある。
『今日はとても続けられん。悪い。先に帰る。 追伸、ドアホ!!』
「今夜はうなされるな……飯、食えんかも知れん」
呟いて、何か買って行ってやろうかと考えている自分に苦笑した。妙なところで、滝のお人好し病が移っている。
レポート用紙をゴミ箱に放り込むとくしゃみが出た。冷え込んできたから、風邪を引き直してしまったかも知れない。薬でもひっさらってこようか、と思いかけて止めにした。
滝が薬を送ってくれている。着くのを待っていよう。もっとも、その頃には風邪が治ってしまっているかも知れないが。
「…大体、肝心なところに気づいてないんだ、あいつは」
風邪薬なんかどこにでも売っている。おまけに宮田は医者だ。勝てて加えて、2日も3日も風邪が長引くなら、大抵の者は医者にかかる。わざわざ滝が薬を送ってくれても、それは何の役にも立たない可能性の方が、どう考えたって高い。
「いつも、肝心なところに気づいてない」
未練がましく呟いた宮田は、もう一つ派手なくしゃみをして、急ぎ足に解剖室を出た。
終わり




