『宮田より愛をこめて』(1)
解剖室には静けさが漂っている。
今しも目の前で、同期の田畑が遺体の右脇にメスを入れている。
人の腰ぐらいの高さの台に横たえられた遺体はホルマリン漬けになっていて、あまり人間らしい色味をしていない。黄味がかった体は硬直していて、『まだ』両手両足揃っているので、右脇から腰へ向かって切れ目を入れようとするには、硬くなった右手を無理に外側へ引っ張っていなければならなかった。
「まだかー」
「もう少し…」
宮田は答えに息を吐いた。両手を掛けて手前に引いている腕にもう少し力を入れて引っ張り、相手が動きやすいようにしてやる。床にしゃがんで、首だけ体と腕の間へ突き出し、メスを入れている田畑も大変だろうが、いい加減宮田も鼻がもげそうだ。
「宮田先生!」
「んー?」
不意に名前を呼ばれて、宮田は振り向かずに生返事を返した。
「電話ー!」
「誰からー? ってか、今忙しいって言って…」
「滝…とか何とか…」
「え?!」
はっとして宮田は振り返った。同時に、引っ張っていた腕が指先から滑った。
「うわあああああーっ!!」
次の瞬間、遺体の右腕に力強く引き寄せられ、メスを持った手ごと抱きかかえられて右脇に接吻し掛けた田畑の悲鳴が空を裂いた。
「もしもし? もしもし?」
『もしもし……あ、宮田?』
「ああ!」
電話の向こうから紛れもなく懐かしい滝の声がした。
『久しぶりだな』
「ああ、この前の電話以来だから……もう半年…になる」
『そんなになるのか? 忙しくてわからなかったよ』
そうだろうな、と独りごちる。そういう奴だ、お前ってのは。
『会ったのがこっちへ来る前だったろ』
「違う。あの時、俺は行かなかったんだ、見送りには…」
『ああ、研究で忙しかったって…』
「…ああ」
もう一度、違う、と言い掛けて、危うく自制した。
本当は、あの時これっぽっちも忙しくなかった。
研究は一段落付いていたところだったし、指導者も出張中、その間の予定のノルマも仕上げていたし、特に急ぎの用もなかった、公的にも、私的にも。
けれどあの日、宮田は滝を見送りに行きたくなかった。滝がこの街から離れるのを納得したくなかった。そのくせいつも思っていた、滝はいつかこの街を出ていくだろう、と。それも一人で、さらりと何もかも、衣を脱ぎ捨てるようにあっさりと置き去りにして。
そういう時の決心を、滝はいつも一人でやってのける。
あの朝倉家に住み込むことに決めたときも、周一郎とか言う得体の知れない美少年の手当を頼んで来た時も、今度のようにこの街を離れていく時も。
滝以外の人間に、それがどれほどの意味を持つかなんて、いつも全く考えていない。滝の心のどこかに居るものが「しなきゃならない」と囁いたが最後、どんなしがらみも滝を止められない。
あの茫洋とした性格のどこにそれほどの潔さがあるのか、宮田は未だに不思議でならない。
「それで…何だ? 急に電話してきて……借金か?」
尋ねて宮田は、それを期待している自分に気づいている。借金なり悩みなり、何か滝が向こうで困っていると聞かせて欲しい。そうすればこっちへ帰ってくるかも………考えかけて、慌てて首を振る。
何を考えてるんだ、俺は。
『違うよ』
電話の向こうの滝は、宮田の淡い期待をあっさり砕いた。
『本が出来たんで送った、って伝えとこうと思って。最近、郵便事故、多いだろ。一応伝えとくから。5日経って届かなかったら知らせてくれ。…ああ、電話も付いたし、連絡は電話でいい。……番号は…』
「待てよ、メモする」
答えながら宮田は寂しい。滝の本が好評で店頭に並ぶや否や、売り切れるのを知っているだけに余計に淋しい。
『それから…』
「ん?」
『風邪薬も送った。お前、風邪引いてるんだろ、お由宇が言ってた』
「あのな…」
思わず真顔になった。
「俺は医者だぞ?」
『…あ…そうか』
「…今の今まで忘れてたな?」
『いやー…その……はははっ…』
引きつり笑いを返す滝に、思わずくすりと笑った。それで宮田が気分を害していないと察したのだろう、滝はそれから他愛ないやり取りの後、電話を切った。
つい、名残惜しく受話器を戻しかねていた宮田に、背後から声がかかって、慌てて受話器を置いて振り返る。さっき電話を取り次いでくれた森田だった。
「今の、ひょっとした『猫たちの時間』の滝志郎、ですか?」
「ああ」
「凄い人と知り合いなんですねえ、宮田先生」
「昔は凄い人、じゃなかったしな。ところで、例の細菌、どうなった?」
そうだ、昔はまさか、滝が小説家になるとは思わなかった、と宮田は再び思い出す。
滝と初めて出会ったのは高校の頃だった。
「大体てめえは目立ちすぎんだよ」
「医者の後継だかどうだか知らねえが、きんきら飾り立てやがって」
「ちょっと頭があるからって、人をバカにしていいってことはねえだろ」
高二、夏休み前。
宮田は昼休みの校庭の隅で、校内でも名の知れた不良に絡まれていた。
別にどうと言うことはない、煙草は体に良くないと忠告したつもりだったのだが、不良達は自分達の存亡に関わる一大事ととったらしい、ねちこく宮田に絡み出した。
もっとも、宮田の頭の中では、夏休み前の校内巡視が強化されていて、その中でもうるさ方の教師のコースになっていることがわかっていたし、大人しくさえしていれば5~6分で解放されることは計算済みだったから、相手がいくら凄んでも無駄な努力にしか過ぎない。
「よう! 黙ってねえで何とか…」
コオン!
なおも絡みかけた不良も宮田も、一瞬何が起こったのかわからなかった。舌を噛みそうな勢いで後頭部に一撃を食らった相手が、きょろきょろ辺りを見回す。と、遅ればせながら、不良の頭に当たって跳ね上がったらしい野球のボールが上から落ちてきて、コンコン、コロコロと宮田と不良達の間に転がっていった。
それだけでも、信じられないほどのタイミングの良さだったのに、そこへもう一つ、信じられない状況が重なった。何となく気を削がれて向かい合って立っていた宮田と不良の間に、ばたばたと一人の男子生徒が走り込んで来たのだ。
「こっちだってえ? んなもん、あるかよ!」
目一杯不服そうな声を上げ、地面のあちらこちらを見回して中腰になりながらボールを探す。草の陰に隠れていたのを見つけ出すまでに数分、やがて宮田と不良が呆然と自分を見ているのに全く気づかず、その生徒は体を起こした。
「おー! あったぞー! ……え」「あ」
宮田の制止はわずかに遅かった。
ボールを見つけた相手は、体を起こすや否や仲間の方に投げ返す姿勢を取り、投球フォームに入ったところで周囲に気づいた。そこで止まれるのなら問題はなかった。ぎくりとした彼の気持ちとは無関係にボールは手を離れ、運悪くとしか言いようがない見事さで、無視されたのに苛立った不良の一人が前を遮ろうとした、その顔面を直撃した。
ばきゃ。
「ぎゃう!」「うわ」
どすん、と正面の男がひっくり返る。周囲の不良が我に返る。
「てめえ!」「こいつ!」「やっちまえ!」
「うわわっ」
標的は完全に宮田から逸れてしまった。思いがけない伏兵に、不良達が色めき立って飛びかかる。慌てたらしい生徒は、不良に胸倉を掴まれるのと同時に、思わずと言った様子で相手の肩を掴んだ。
そこへ。
「おいっ! 貴様らっ!!」
厳しい声が場を圧した。鬼熊と別名のある教師の巡視だ。はっとした不良が手を離す。一歩遅れて飛び込んできた生徒も我に返る。だが、その時の彼の両手は、だらんと垂らした不良の両腕を引き上げるように掴んだままだ。
「何をしてるっ! 滝っ! また、お前か!」
「え…いや…あの…その…」
「その手は何だ、その手はっ!」
「え、手? 手って……そりゃ、この手は俺の手に決まって…あわ」
「貴様! 教師を侮辱しとるのか! 喧嘩の上で、教師を侮辱するのか!」
「あ…あのっ…」
「言い訳をするなっ! こっちへ来いっ!」
烈火の如く怒った鬼熊は、滝と呼ばれた生徒の首を掴んだ。そのまま吊り下げるようにずるずると職員室の方へ引きずって行く。
「へ…へへっ」
「滝の阿呆が…」
不良達のくすくす笑いを背に立つ宮田の目に、滝が拾ったボールが映る。それを何と言うことなしに拾い上げた宮田の耳に、
「おーい…」
声が届いた。顔を上げると、引きずられて行く滝が何か叫んでいる。
「?」
「あのなー…そのボール……向こうの奴らのだから……返しといてくれよ…」
声は途切れ途切れにそう聞こえた。
とすると、滝は遊んでいた仲間のボールをたまたま拾いに来て、この騒ぎに巻き込まれたと見える。それを迷惑と思っている様子もなく、巻き込んだ当の相手にボールを返しておいてくれ、と頼んでいる。
「妙な奴…」
宮田が滝志郎と会った、それが最初の印象だった。




