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『猫たちの時間』番外編 〜猫たちの時間9〜  作者: segakiyui


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『香港小夜曲』5.香港小夜曲(2)

「ほ…ほほ…」

 話を聞き終わった『寿星老ショウチンラオ』は微かに笑った。

「そのタキ、とか言う男……なかなかどうして……大した男じゃないか…」

「でしょう? 何か……呆けてしまって…」

「由宇子…」

「え?」

「よかったね、帰る所が……できて…」

「!」

 ぎくりとした由宇子になおも優しくことばを続ける。

「これでもう、『野花儿イェーファール』と…呼ばれなくてもすむね…」

 労わる口調に、由宇子はゆっくり唾を呑んだ。

「『寿星老ショウチンラオ』…知って…」

「……知らない……と思っていたのかい…? 馬鹿だね……私が知らないはずがないじゃないか…私は『寿星老ショウチンラオ』…だよ…」

 由宇子の視界をぼやぼやとして熱いものが滲ませた。そっと顔を伏せる、その耳に『寿星老ショウチンラオ』の声が柔らかく響いた。

「もう…生きていけるね…? 佐野…由宇子として…生きていけるね…?」

「妈妈……」

 本当は…佐野由宇子はもうこの世にはいない。

 両親が殺されていたその横で、血染めのハンカチを手にして佐野由宇子も事切れていたのだ。

 由宇子…いや、この名前さえ既に自分を示すものではない。

 彼女は、香港の片隅で生まれた。どうして生きてきたのかよく覚えていない。母親が日本人であったことは覚えている、が、それだけだ。

 あの時、現場を通りかかった彼女は、ふと『由宇子』にすり替わることを思いついたのだ。日本人夫婦の身なりから中流以上の暮らしをしていることは察しがついた。『由宇子』の体を引きずり、毛布でくるんで近くの路地へ、代わりに自分が座り込んだ。服を着替え、血染めのハンカチで手足を擦り、髪を振り乱して呆然としていれば事足りた。『由宇子』の顔が自分に似ていたのも幸いした。

「由宇子…」

「はい」

「『寿星老ショウチンラオ』を任せたよ…」

 それが最後のことばとなった。


 香港の夜の海に一艘の船が漂っている。やや小ぶりな客船、それでも船内にダンスホール、プール、カジノを備え、ちょっとした船旅を楽しめるようになっている。

 そのデッキに一人佇んで、由宇子は不夜城の名にふさわしく灯の消えない街を見つめていた。

 風が耳を撫でていく。手にしたグラスにはシャンパン、今宵の密かな勝利の祝い酒だ。

 今頃、ありとあらゆる情報機関のネットワークで、朝倉財閥に関する情報が目まぐるしく放出されているはずだ。『寿星老ショウチンラオ』の総力を結集したその情報群には、10に1つの偽りを含んでいる。気まぐれに混ぜられた偽りと真実を区別し、情報を整理し、系統立てて気づくのは、それらの情報が実は巧みに織られた網で、答えは一つ、ケネス・カーターの開発したプログラムが朝倉家に吸収されたという結論だ。

 それが複雑に隠されていたからこそ、人々は信じるだろう、プログラムは朝倉家にあり、と。そして、それが世界的な規模で朝倉家への攻勢を募ることになるのは明らか、言わば、今まさに没しようとする『寿星老ショウチンラオ』という太陽が、巨大な紅蓮の炎となって燃え盛り、燃え尽きていくフィナーレにふさわしい幕切れとも言えた。

 ふ、と側に人の気配が動いた。差し出されたメディアとともに、

「お電話です」

 低い声が告げる。受け取って微笑む。

「もしもし?」

『鮮やかなお手並みでしたね』

 淡々とした、けれども幼い少年の声が応じた。

 朝倉周一郎。

 名乗らなくとも直感で悟る。

「ありがとう」

 答えると、しばらく間を置いて通話が切れた。

 由宇子がここにいることをどうやって探り出したのか、そもそも今回の一件に由宇子が背後にいることをどうして知ったのか、そんなことはもうどうでもよかった。ただ、周一郎と自分は、これからも度々敵対していくことになるだろう。その予感が心に張りを与えた。

 思いついて、番号をプッシュする。何度目かの呼び出し音の後、

『はい、滝です』

 懐かしい声がした。

「志郎?」

 離れてそれほど経っているわけでもない。なのに、耳に届く声は『寿星老ショウチンラオ』より遠く聞こえる。

『お由宇! 今どこにいるんだ?』

「香港にいるの」

『香港!』

 滝は感嘆の声を上げた。

『香港ってのは、あの、ほら、外国だよな?』

 外国ではない香港なんて、一体どこにあると言うのか。相変わらずの調子に小さく笑う。

『いいねー、香港旅行かー。こっちは凄いことになってるぜ、経済の平田とか数学の片山とか、急に軒並み免職になってごった返してるよ。なんでも例の「テスト闇市」の件らしい。どう言う関係かよくわからんが、俺の停学は取り消しになって、八木がなぜか退学になった』

「そう…」

 香港へ来る前に、由宇子は事件の書類を一括して、厚木の元に匿名で送りつけておいた。もちろんそこには平田や片山の金遣いについての調書もあり、主だった人間はほとんど処分されているはずだ。

「よかったわね」

『ああ、よくわからんけど、ま、良かったよ! お由宇にも随分迷惑かけたし』

「いいのよ、そんな」

 他人行儀に気遣われて少し切なくなった由宇子の想いを読んだように、

『まあ早く帰ってこいよ。実は部屋にそろそろ足の踏み場がなくなってきて』

「失礼ねえ。私は掃除機じゃないわよ」

『あ、それに飯代が……実はバイトをまた首になって』

「コックでも炊飯器でも、お財布でもありません」

 言い返しながら、滝の照れを感じ取る。心の中に甘くて暖かいものが広がる。「もう…生きていけるね…? 佐野…由宇子として…生きていけるね…?」『寿星老ショウチンラオ』の声が重なる。

(佐野…由宇子として…)

『お由宇? おい…ごめん…すまん……悪かったよ』

 由宇子の沈黙を勘違いして、電話の向こうで滝がひたすら謝った。

『悪気はないんだ…ほんと…いや…帰ってきてくれれば嬉しいと言いたかったわけで……だから…別にお由宇を掃除機やコックや炊飯器や財布だと思ってるわけじゃ……』

 延々と続く滝の弁解を、いつまでも聞いていたいような気がした。首を傾け、目を閉じる。初めて涙が頬を伝い、後から後から零れ続けた。

(帰るわ)

 心の中で呟く。

 声にならない分、何度も何度も繰り返す。

(帰るわ……あなたの所へ……きっと帰るわ……)

 夜の波が優しく音を立てて、由宇子の周りでたゆたっていた。


終わり

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