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『猫たちの時間』番外編 〜猫たちの時間9〜  作者: segakiyui


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『香港小夜曲』5.香港小夜曲(1)

5.香港小夜曲


 飛行機は今、再び由宇子を香港へ、あの夜の都へ運びつつあった。痛みに似た優しさとひとりぼっちの心細さが交互に由宇子の心を揺らせる。


 あの2日後、由宇子は陵から資料を受け取った。

 わかってしまえば、事件の構成は極めて簡単だった。

 もともと啓仁大学には『テスト闇市』と称する裏のグループがいて、テストの原案を盗み出し、密かに売り払うことを生業としていた。初期の頃は人数も範囲も小規模だったし、そう目立つこともなかったが、次第に巨大化するにあたって制御しきれぬ末端分子の出現を見た。

 それが今回は八木喬を筆頭とするグループで、彼らは教師を抱き込むことでより大きな市場と安全を獲得することを考えた。分け前の問題で揉め出すのは想定内だったが、八木はテスト原案売り込みのもう一方で、テスト原案を手放した教師を脅迫することを思いついた。脅迫することで分け前の不足をぼやく教師を制しようとしたらしい。

 だが、それは逆効果だった。反感を持った教師達は権限を駆使して八木達を押さえつけにかかろうとし、かくしてグループと教師の間は冷戦状態となった。

 八木がわざと現場を押さえられるような真似をして、駆けつけた教師に衆人環視の中で身体検査を受け、己の無実と教師の横暴さをアピールするように仕向けたのも、じわじわと八木を退学へ追い込もうとする教師の動きに対しての牽制だった。

 巻き込まれた滝が不運、としか言いようがない。

 もっとも、その種明かしにおいても、なぜ八木があの原案を取り戻そうとし続けているのかは解明しない。『テスト闇市』としても用の無いものだったし、次の案が出たこともあって、八木の盗った原案を、教師側が知らぬ存ぜぬで通してしまえばどうしようもなかったはずなのだ。

 『現実には』八木はテスト原案を『盗んでいなかった』ことになっているのだから。


 空港に着くと迎えの車が来ていた。住み慣れた通りへと近づく由宇子の胸には、生きて来た二十数年間が渦巻いている。

 ここ数年でますます老朽の度を加えていた家に着き、遣いの男に招じ入れられた由宇子は、埃の匂いの漂う中を奥の間へ向かった。

 薄い畳敷きに粗末な布団を掛け、香港最大の情報網を誇った『寿星老ショウチンラオ』の長は横になっていた。

「由宇子…」

「妈妈…」

「…おかあさん、とお呼び、由宇子。お前は日本人なんだから…」

 掠れた声で応じた『寿星老ショウチンラオ』は淡く笑い、側の男に人払いを命じ、以後『寿星老ショウチンラオ』は由宇子の支配下に置く、と言い渡した。男が頷き、姿を消すのに、再び由宇子に目を向ける。

「………大きくなったね……きれいになったね…由宇子」

「おかあさん…」

 膝を突く。覗き込む目に皺の寄った顔が鋭い表情になった。

「…ケネス・カーターのマイクロフィルム……妙なことになったんだって?」

「ええ」

 由宇子は頷き、話し出した。


 結局、八木の意図はどうにもわからない。

 由宇子は直接会って話すことにした。夜、滝の下宿を掃除するという名目で入り込み、滝の帰宅を待って家に帰る。

 張り込みの2日目に、八木は捕まった。

 暗闇の中で待つ由宇子の耳に微かな音が響く。ドアノブがゆっくり回り、そろそろとドアが開いて行く。黒い人影が音もなく入り込みドアを閉める。

 こちらに向き直った瞬間、由宇子は照明を点けた。

「いらっしゃい、八木さん」

「!!」

 ぎょっとしたように体を硬直させた八木は、相手が由宇子1人とわかるとふてぶてしい笑みを浮かべた。

「あんたか……なんだ、滝と寝に来たのかい?」

「あなたこそ一体何の御用かしら」

 下卑たからかいを聞き流して答える。頭の中に不思議にリアルな既視感デジャ・ヴュが通り過ぎた。何年も前になる、八木の父親と相対したのは。そうして今、息子と再び相対している。

「探し物?」

「…何を知ってる」

 由宇子の問いに八木は目を光らせた。

「何も。ただ、数学のテスト原案なら私の家にあるわよ」

「はぁん……あんただったのか、あの妙な小細工は」

 八木は小馬鹿にしたように鼻で嗤った。

「あれはもう要らないんだ」

「どういうこと?」

「……どうせあんたも真っ当な人間じゃ無いんだろう。警察を呼んで困るのはお互い様…ってな。ま……いい。あんたみたいなチンピラには思いもつかない仕事だからな」

「大仕事?」

 『チンピラ』と呼ばれたことに苦笑しながら、由宇子は尋ねた。笑みにかちんと来たのだろう、斜に構えて八木は凄んで見せた。

「他言無用だぜ。もっとも行ったところでどうなる代物でもない……あんたもゲームソフトぐらい知ってるだろう」

「ええ」

「…もう5年ぐらい前になる。親父が香港に出る前に、独り言みたいに呟いてた。5年もすればコンピューターのプログラムはなお飛躍的な発達を遂げる。戦略プログラムも、企業内の人事管理も、ゲームみたいに扱われるだろうってな」

(まさか)

 由宇子の胸に怪しい胸騒ぎが広がる。

「親父はそのまま香港で行方知れず、お袋は他の男と家を出て行きやがった。俺は1人で生きてくるのに、どれほど苦労したかわからねえ。あんたも知ってる通り、何やかやのグループで金を得て何とか生き延びて来たさ。ここでも例の『テスト闇市』に入ってうまくやってたが、ある日、香港に旅行に行ってた仲間が、俺にゲームソフトを渡して行方不明になっちまった。タイトルは『ケネス・カーター』、何でも朝倉財閥ってところに売りつければ、一生遊んで暮らせる金になるらしい」

(そうだったの…)

 プログラムはマイクロフィルムの形ではなく、ゲームソフトに組まれて持ち出されたのだ。

「俺は早々に朝倉ってのに連絡しようとしたんだが、矢先に例のテスト騒ぎだろう。他に得体の知れない奴にも尾行されてたし、下宿も一度家探しされたみたいだから、安全無害な奴に渡しておこうと思って、すれ違いざまに滝の上着のポケットに放り込んだってわけだ。渡されたと知らなきゃ、嘘もつきようがねえからな」

「それで、真夜中の家探しってわけ?」

「ああ。この間、その上着のポケットを探ったんだがなかったし、あいつはそうポイポイ物を捨てる奴でもないからな。下宿にあるだろうと踏んだんだが」

「どんな上着?」

「青のジャケット」

「それ、この間、コインランドリー行きになってたわよ」

「………」

 一瞬、八木の顔が呆けた。

「嘘…だろ……あいつが1週間やそこらで洗濯なんてするはずがねえ!」

「してしまった…ってこと、偶然」

「嘘をつくな!」

「嘘をついてどうするの? 私に何のメリットがあるの?」

「う…」

「けれど、それだったらランドリーの中にあるはずよね…けれど、そんな物はなかったし…」

 不安そうな危なっかしいものを見るような顔の八木に頷く。

「ええ。私も一緒に取りに行ったのよ」

「大丈夫なのか…?」

 それは滝と関わって商売がトラブらないのか、と言うニュアンスだったが、由宇子は無視した。

「……てえと…どうなるんだ?」

 気持ちを持ち直したらしい八木が唸る。

「部屋の掃除をした時もなかったわね…」

「………そうか……なら……」

 いろいろと突っ込みたそうだった八木は、一旦問題を棚上げすることにしたらしい。2人で突っ立ったまま考え込んでいるところへ、不意にドアが開いた。

「あ…れ…?」

 開いた滝が頓狂な声を出す。八木はうろたえて時計を振り返ったが、時計は2時20分、とすると、今夜も早く仕事が終わった口だろう。

「どうしたんだ? 八木…? お由宇?」

「えーと…その…」

 八木がどもったところへ、由宇子はにっこり笑ってことばを被せた。

「おかえりなさい。あのね、八木さん、急に訪ねてこられたの」

「へー…」

 夜中の2時にあからさまにおかしい言い訳、それでも滝は頓着した様子がなかった。靴を脱いで上がってくると、由宇子と八木を交互に見ながら、

「で、何だって?」

「あ、あのな…その」

「あのね、八木さん、誰かに大切なゲームソフト、貸したままになってるんですって。そりゃもう、凄く大切で、眠れなくなるほどだったのに、誰に貸したか思い出せなくて」

「うわ」

 今度は滝の顔が引きつった。

「うわ…って知ってるの?」「知ってるのか?!」

 異口同音に問いかける2人に、妙におどおどとした視線になった滝が、ぼそぼそ答える。

「そうか……あれって……八木の…だったのか……」

「あれって!」

「あれ…だろ、黄色の地にに星型のマークが入ってて、ケネス・カーターとか言うタイトルの」

「それだ!」

 八木が息を呑む。

「あの…あれ…な……えーと……壊れ…っちまった」

「何?」

「だから…壊れた」

「こわ…れた…」

 コインランドリーに突っ込まれたかも知れないと言うあたりで予想はしていただろうが、決定打を浴びせられて八木が暗くなる。しかも、まだ滝の話は続いた。

「いつ借りたのか思い出せないんだが……とにかくジャケットのポケットに入ってたんだよな。…で、あの日、俺、ドブに落ちたんだ」

「ドブ…」

「両足突っ込んじまって、ちょっと泥だけでも落とそうと思って、ポケットからハンカチ出そうとして、一緒に転がって落ちたんだ。で、何かわからなくて、まあ後で確かめてみようと思って、横に置いたまま泥払ってて、で、それに熱中して忘れたんだ」

「忘れた…」

「立ち上がった時にうっかり踏んじまって、バキッて音がしたんで慌てて足上げようとして滑って、それでバランス崩して、もう1回ドブに落ちて……で、ソフトの方は滑った拍子に蹴り飛ばして、道路の真ん中へ飛んでって……えーと…車が……その…」

「飛んでった…」

「つまり、車が来たんだよなっ、うん。で、ぐしゃっと潰れた」

「ぐしゃ……ぐしゃ……ソフト……ぐしゃ……ぐしゃ…」

 八木は完全に死んでしまっている。由宇子もあまりと言えばあまりな事の成り行きに半ばぼうっとしながら、

「それで…?」

 促した。

「うん。で、潰れちまったし、誰のかわかんなかったし、幸いに近くに生ゴミ入れてる袋が置いてあったんで、悪かったけど、その中へ捨てた。

(捨てた、ですって?)

 世界最大の情報網『寿星老ショウチンラオ』と朝倉財閥が取り合った、使い方さえ上手ければ世界を動かす情報の塊を。あらゆる国が喉から手が出るほど欲しがり、それを得る為ならば地位も名誉も望みのままになっただろうものを。捨てた、生ゴミと一緒に袋の中に突っ込んで。

 これほどぞんざいな扱いを受けた『機密事項』もないだろう。

「ふっ…」「くっ」

「?」

「くっ…くっ…」

「ふふふっ…」

 同時に笑い出した八木と由宇子を、滝は呆気に取られて眺めていた……。

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