『香港小夜曲』4.闇の中の野花儿(イェーファール)(3)
大学を出て、由宇子は近くの喫茶店に向かった。今朝家を出る前に、唐突に厚木から電話があって話したいと言って来たのだ。
「いらっしゃいませ」
ウェイトレスの声に迎えられて中に入る。昼近くなった陽射しから逃げるように背中を向けた後ろ姿を見つけ、近寄っていく。
「叔父さん」
「お」
「ごめんなさい、遅くなって」
「いや、構わんさ、用事は済んだのか?」
警察では強面で通っているが、由宇子の前ではただの穏やかな叔父、厚木警部はどこか眩そうな目をして由宇子を見上げた。後ろから回り込んで向かい側に座るのを目で追って、思い出したようにぽんぽんと背広のポケットをあちらこちら叩き出す。
「煙草…内ポケットじゃないですか?」
「ああ…うん」
由宇子の声と前後して、厚木は内ポケットを叩き、ようやくハイライトを取り出した。
「でも…」
今の店はほとんど禁煙だ。吸うなら喫煙室のあるところへ場所を変えようかと言いかけたが、
「いやいいんだ」
未練がましく眺めた煙草を厚木は内ポケットに戻した。ちらりと由宇子を見遣り、小さく溜め息をつく。
「もうそんなことに気が回る歳になったんだよなあ……大きくなったなあ」
「嫌だわ、何を急に」
「何かな、ふと思い出したよ。日本へ来た時がえらく昔に思える。俺も歳を取ったんだな」
はは、と低く笑った。
「もう4年前になるんだから…」
「……」
言われて由宇子も思い出していた。
八木喬の父親が香港で行方不明になったと言う報道が伝わって数日後、『寿星老』は配下を通じて由宇子の存在を日本へ知らせた。
打てば響くように厚木から彼女を引き取りたい旨の申し入れがあり、由宇子は香港を発ち日本へ向かった。表向きは不幸な事故で異国に放り出された哀れな娘として、その実は日本での『寿星老』の一端を担うべく。
空港で迎えた厚木は、近寄って来ると無言で由宇子の肩に手を置き、そっと優しく守るように外へと導いた。タクシーに乗り厚木の家に着くまで、厚木は由宇子の両親についてあれこれいろんな話をしてくれた。父母が大学のテニス同好会で知り合ったこと、父親は有能な商社マンで母親は利発な女性、家でアートフラワーの趣味を充実させて生徒にも教えていたこと、夫婦仲は良く、一人娘の由宇子はそれはそれは可愛がられていたこと、平凡な、けれど幸せな家であったこと。
子どものいない厚木は兄のことを思い出したのだろう、微かに目元に涙を滲ませていた。その、温かく潤った声を、由宇子はタクシーから見える街並みを必死に見ている様子で背中で聞いた。
初めて見た日本は異国の匂いがした。中国で一人で居た時と同じような、いやそれよりももっと深い孤立感が由宇子を捉えていた。
自分はただひたすら、人に受け入れられぬまま、どこにも安住の地を見出せず生きていかなくてはならないのかも知れない。
そう思ってようやく滲んだ涙を、厚木は勘違いした。可哀想に、そう呟いて由宇子の頭を引き寄せ、小さな子どもにするように頭を撫でた。
可哀想に。
それは『寿星老』の声に似て、厚木の手の温もりが痛いほど切なかった。
(そうして一人、人の間にも、時の隙間からさえも零れて…)
「…由宇子?」
「あ…ごめんなさい。何て…?」
呼び掛けられて由宇子は我に返った。すっぽりと自分をくるんでいた暗い夜が、現実の明るさに吸い込まれて消える。
問い直されて厚木は、居心地悪そうにもぞもぞと体を動かした。どうやら一番言いにくいことを問い掛けた後でホッとしていたらしく、複雑な表情で言い直す。
「だから……その……母校のことを悪く言われるのは腹が立つだろうが……噂か何か、聞いていないか?」
「噂? 何の?」
「…その……テスト問題の前渡しが行われている…とか…」
「前渡し?」
「…つまり…妙な投書が続いてるんだ。啓仁大学の中で『テスト闇市』と言うものが行われていて、金さえ出せばどこの部の誰のテスト問題でも事前に手に入る、と。大学側はこれを取り締まらないばかりか、中にはグループに加わって分け前に与っている教師もいる、と」
由宇子の脳裏を経済学の平田の顔が過った。そう言えば、数ヶ月前まで即金で外車を手に入れるなど、かなり派手な金遣いをしていた。今はとんと噂を聞かないが。それに数学の片山、事務局長……今回の滝の停学に絡んだ男達は、よく考えてみれば数ヶ月前は羽振りが良く、今は一転して噂を聞かなくなった連中ばかりではないか。
「叔父さん」
「うん?」
「投書はもう少し詳しかったんじゃないですか?」
「え」
厚木は由宇子のことばにぎくりとした表情になった。
「と言うと、やっぱりそんな噂があるのか?」
「と言うと、やっぱりもう少し詳しかったんですね」
「…」
にっこり笑った由宇子に、厚木は困ったようにコーヒーカップを持ち上げた。やがて、
「これは部外者に話すとまずいんだがね」
前置きして話し出した。
その投稿は無署名で書かれていた。投函は大学近郊。内容は今言った情報に加えて『テスト闇市』に連座していた教師名が書かれており(勿論平田と片山の名前もあった)、そればかりか名前の上がった教師達は不当に私腹を肥やすことに奔走しているばかりか、バレそうになると関係のない一般生徒を追い込み『テスト闇市』グループとして処分しているとあった。
「一度八木の息子の喬君が、現場を押さえられたと疑われて騒ぎになったらしい。それに、滝とか言う男は、グループの一員として停学処分を受けたそうだね」
「それも書かれてあったんですか?」」
「ああ」
(ご丁寧なこと)
だが、これで少しは事の真相が見えて来た。
八木が『盗ったもの』を必要としたのではなく、『盗ること』が必要だったわけもわかる。
あの事件は、八木を被害者に仕立てるためのものだったのだ。滝が巻き込まれた一件は、グループから追及する教師の眼を外らせる駒として使われたのだろう。『繋ぎ』の何のと言う話が出たらしいから、グループは一味の教師が直接関わらずに、間にいつも違う人間が入っていたとも考えられる。
が、疑問が全て片付いたわけではない。
一つには、なぜもう不要になったと思われるテスト用紙を八木が取り戻したがっているのかと言うこと。もう一つは、それまでうまく行っていたグループと教師の連携を潰したものは何だったのかと言うこと。
「…何か、知ってるかね?」
「ごめんなさい。噂しか知らないわ」
「…だろうな、一般の生徒は知らなくって当然だ」
厚木は首を振って立ち上がった。レシートを掴んで戸口へ歩き出しながら、由宇子の奇妙な表情に気づいた様子もなかったが、肩越しに振り返ってことばを続けた。
「ああ、ついさっきこちらに連絡があった」
「?」
「育ての親の体調が思わしくないらしい。最後に会いたい、と航空券を送って寄越した。行ってあげなさい、由宇子」




