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『猫たちの時間』番外編 〜猫たちの時間9〜  作者: segakiyui


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『香港小夜曲』3.十字路口(シーチールーコウ)(2)

「質問って、どんな質問?」

「よく覚えていないんだが…」

 滝は子どもっぽい悩みの表情を浮かべて見せた。

「テストの闇市…だとか……『つなぎ』がどうとか」

「ふ…うん…」

 由宇子はゆっくりと冷めた茶を口に運んだ。唇をそっとコップに当て、少し飲み込む。

「とにかく……何が何だかわからんよ、俺は!」

 溜め息交じりにぼやいて、滝もカップを持ち上げた。

「二、三、訊きたいんだけど」

「うん?」

 湯気の向こうから眩しそうに由宇子を見る。その目にじっと見入りながら、

「その、走ってきて紙切れを押し付けた男、あなたの知らない人?」

「うん」

「紙切れの中身、見た?」

「いや……あ、でも、講師連中が用心のために修正を加える…とか何とか言ってたな」

「テストの闇市、っていうのは?」

「噂だけ、だけど」

 前置きして、滝は続けた。

「最近、テストの問題を前もって流してくれる連中がいるって話を聞いたことがある。ただ、かなりの金がかかるらしくって、俺には話が回って来なかった」

「そう…」

 由宇子はもう一口、茶を含んだ。どうやら、これは結構根が深そうだ。ただ、どんな可能性があるにせよ、情報が足りない。もう少し必要な情報を、それなりの事情通から集める必要がある。

 まずは、滝の身に何が降りかかったのか、それを確かめなくてはならない。

「あら…こんな時間」

 ちょいと時計に目をやって由宇子は呟いた。言われてようやく、周囲の薄暗さに気づいたのだろう、慌てて立ち上がった滝は明かりを点けながら、

「本当だ…すまん、遅くまで引き留めて」

「いいのよ。私が勝手に来たんだし」

 にっこり笑って由宇子は応じた。同じように立ち上がって上着を羽織り、ハンドバッグを肩からかけて三和土へ降りながら、

「それに……友達でしょ、私達」

 絶妙のタイミングとニュアンス、と計算したのだが、振り返って見た滝の顔が、照れるどころかひどく生真面目なものになっているのにどきりとした。

「それが余計にわからないんだ」

 ぽつりと呟かれて、身動き出来なくなる。

「自分が『厄介事吸引器』だってのは知ってる。けれど、今までお宅みたいな美人が絡んだことがないんだ。何で俺に構う?」

 滝の目の奥に珍しく厳しい光があった、と見えたのは気のせいだろうか。

「だって…」

 由宇子は唇の両端を上げた。

「この間の昼ご飯代、貸したままでしょ。このまま大学やめられると困るもの」

「あ…そっか」

 へらっと滝は笑った。

「そうだな、うん……そりゃ、そうだ」

 へらへらと笑いながら、由宇子と一緒に三和土に降りてくる。

「?」

「送るよ、暗いし」

「いいわよ、自宅謹慎中、でしょ?」

「いいんだ。どうせバイト、行くから」

「バイト…」

「うん。八木が見つけてくれてさ……働かんと今度は寝るところも無くなるし…」

(また、八木……)

 呑気に話す滝の横顔を見ながら、由宇子の心にちくりと引っかかるものがあった。


 軽い夕食の後、ソファに身をもたせかけ、由宇子は滝のポケットから掠め取った紙を広げた。

 間違いない。数学科の追試用テスト試案。

 逃げて来た八木、滝に移したテスト試案、追って来た片山と事務局長の様子から見ると、白昼堂々盗まれたのだろう。

 だが、どうにもわからないことがある。

 確かに、あの日から3日後に追試があった。例のテスト闇市なるグループが仕組んだこと、八木はその一味、とすれば、辻褄が合わないことはない。だが、問題は、あれほど派手にテスト問題泥棒なぞをやって見せ、かてて加えて、その盗品が未だに由宇子の元にある、ということにある。

 それは即ち追試のテスト内容の変更が行われることを指し、そうなることはテスト闇市グループにとっては客を裏切る形となって、不利な評判を立てるだけだっただろう、ということだ。

 白昼、盗まなくても良かったはずだ。

 ましてや、盗み出さなくとも、少し離れた事務室で他のノートに紛れ込ませてコピーしてしまえば良かったはずだ。

 万が一、盗み出さなくてはならなかったのなら、八木が単に滝のポケットを探るだけではなく(しかもそこにはなかったのだから)、もっと探し回る動きが出てもいいはずだ。

 なのに、現実には白昼の大騒ぎを起こし、素人の滝を巻き込んだ挙句、八木の滝への接触があったのは1回きり。

 滝がそういう『もの』の所在を訊かれた風もないし、また尋ねるわけもないだろう。

 とすると、それらの事が示すものはひどく奇妙な結論だけだ。

 八木、あるいは八木の属するグループは、『盗み出すこと』は必要としていたが、『盗んだもの』は必要ではなかった。

 一体なぜだろう? 

 おそらくそこには、『盗み出すこと』で得られるメリットがあった、としか考えられない。

 リッ…リリリリ…。

 不意に電話が鳴って、由宇子は体を起こした。用紙を手にしたまま、受話器を取り上げる。

「はい、佐野ですが」

嬋娟チャンユエン

「…九龍クォロン…」

 深い男の声が応じて、由宇子は低く答えを返した。小さく吐息する。危険な、けれど懐かしい匂い。

『元気そうだね』

「今回はあなたが『繋ぎ』?」

『依頼があるんだ。それと引き換えに「寿星老ショウチンラオ」からの伝言を送る』

「受けるわ。何?」

『朝倉大悟を知ってるな?』

「…ええ」

 その名前も良く知った男のものだった。

『朝倉大悟が引き取った息子がいる。名前を周一郎という』

「『氷の貴公子』ね。聞いたことはあるけど」

『彼について調べて欲しい。「寿星老ショウチンラオ」は伝言にも関わっているので由宇子は断らないと言って寄越した』

「わかったわ。で、伝言は?」

『八木喬は父親似だが直接会ってはいない。大学生だろう。アメリカのゲームを楽しむために少年がやってきた。ゲームの発案者を負かす腕前で、3日前保養地に来て一戦行い、3対0で少年が勝利を得た。「寿星老ショウチンラオ」は発案者を休ませた』

「そう。ありがとう。『寿星老ショウチンラオ』は元気そうだった?」

『ああ。何でも友達が来て忙しい、と言っていた』

「…そう」

 由宇子は喉に詰まったものを必死に飲み下した。相手に気づかれないようにことばを継ぐ。

「私の方もあれこれ忙しくなってきたから、しばらく帰れそうにない、と伝えてくれる?」

『ああ、わかった。じゃ』

「ありがとう、九龍クォロン

 チン、と耳元で小さな音がした。一瞬の間を置いて、ツー、ツー、ツー、という人の神経を苛つかせる音に変わる。それでもしばらく受話器を耳に当てていた由宇子は、時計の針がカチッと動く音にようよう耳から受話器を離した。のろのろと鈍い動作で受話器を置き、ソファに戻る。

『八木喬は父親似だが直接会ってはいない。大学生だろう』

 八木喬は、昔香港で出逢った八木の実子か、との問いへの答えはYESだった。

 だが、父親がダブルスパイをしていたことは知らない。同じ組織に属してはいない。何かをしているとしても、それは学内のこと、要するにチンピラ、ということだ。

 由宇子にショックを与えたのは、その次の伝言だった。

『アメリカのゲームを楽しむために少年がやってきた』

 アメリカのゲームとは、以前、香港に潜伏したケネス・カーターのコンピューターのソフト・プログラムを指す。少年とは朝倉周一郎、その彼が来た、と言う。

『3日前保養地に来て一戦行い、3対0で少年が勝利を得た』

 3日前、保養地、即ち『寿星老ショウチンラオ』本拠近くに攻め込み、ソフト・プログラムの争奪戦を行った後、3対0ー3は裏切った組織の存在、0は連絡網の切断を意味するーという状況で周一郎が勝利を得た。つまりソフト・プログラムを持ち去られた。

『「寿星老ショウチンラオ」は発案者を休ませた』ーケネス・カーター、死亡。

 加えて、『「寿星老ショウチンラオ」は、友達が来て忙しい』。

 それは由宇子が日本へ来るときに教えられた暗号で、「『寿星老ショウチンラオ』は情報網を失いつつある」という意味を持つ。

「信じられない…」

 由宇子は自分が低く呟いているのに気づいた。

「『寿星老ショウチンラオ』が崩壊する…なんて…」

 朝倉周一郎。

 不意に、その名前が脳裏に蘇った。

(一体…何者なんだろう…)

 由宇子は立ち上がり、受話器を取り上げた。番号を押す、相手が出る。

「こちら『嬋娟チャンユエン』伝言、『寿星老ショウチンラオ』の現在の情報網、離反組織の共通項確認、朝倉財閥の組織図及び基本構成員と役割、朝倉周一郎の個人データチェック」

 久しぶりの指示に、自分の中の何かが動き出すのを感じていた。

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