『香港小夜曲』3.十字路口(シーチールーコウ)(1)
告示が出たのは、それから1週間も立たない日のことだった。
『滝 志郎
右、一ヶ月の停学処分とする』
「あら…」
「へえ…」
「どうしたんだろうねえ…」
「あいつのことだから、女ってこともないだろう」
「いやわからねえぜ、間抜けほどモテるってこともあるし」
「…そんな…」
最後の声が自分の口から零れたとわかるのに数秒かかった。物珍しげな野次馬のざわめきの中で、あからさまに心配そうなその声に、訝しく振り返る数人の目を避け、急ぎ足に由宇子は滝の下宿を訪ねた。
「…」
ためらってからドアを叩く。
「留守だからな」
ふてた声が応じた。答えているのに留守もないものだが、滝自身もパニックになっているのかも知れない。
「滝君?」
「留守だってば」
「私、佐野由宇子です」
「え?!」
素っ頓狂な声がしたと思うと、ドタンバタンガシャンガチャン、とどめにグワッシャン、と何かを派手に壊した音がした。待つこと数分、そろそろと扉が開き、あいも変わらずのボサボサ頭の下、目一杯見開いた目とぽかんと開いた口が由宇子を迎えた。
「佐野さん…」
「大学の告示を見てきたの。入っていい?」
「え、あ、その」
「入るわよ」
どもる滝を無視して一歩、踏み込んで由宇子は呆然とした。
一体、この中のどこに滝はいたのだろう。
床一面、布団に座布団、雑誌に小説、レポート用紙に茶碗、丼、ティッシュボックスにレジ袋、脱ぎ捨てたシャツに寝間着、ズボンにタオルと言った、ありとあらゆる日常物品で埋まっている。洋服ダンスの上にコップが数個、窓のカーテンレールにバスタオル、小さな机の上はほとんど物置とゴミ捨て場と化している。
「あ、あの…あの…」
隣で滝が慌ててセーターを被りながら口を挟もうとする。由宇子は無意識に手に持っていたバッグを戸口に降ろした。スーツの上着を脱ぎ、その上に置く。
「え、あの」
「箒」
「は?」
「チリトリ、掃除機」
「え」
「バケツ、雑巾、ハタキ、モップ!」
由宇子は自分でも呆れるほどの勢いで滝を振り向いた。
「掃除用具、一式ちょうだい!」
「え、あ、はいはい」
気迫に押されてか、うろたえて部屋を飛び出し廊下を走っていく滝の背中に、もう一声叫ぶ。
「それと、超特大ゴミ袋!」
「わかった!」
応えがあったのに部屋に入り、ゴミなのかどうか悩むような物ものの隙間を通り、ようやく窓を開けかけると、遠くの方でドンガラガッシャン、ドスンと派手な音がした。
「…こけたわね、確実に」
由宇子は静かに溜息をついた。
数時間後。
既に陽は西に傾きつつあった。
ようやく在るべき所へ在るべき物が収まった部屋を、滝は感心したように見回した。
「へええ、結構広かったんだな、この部屋も」
「あのね…」
数時間の格闘で、すっかり馴染みになってしまった部屋の中、手早くお茶を淹れながら由宇子はまた溜息をついた。
「そんな呑気なことを言ってる場合じゃないでしょ」
「え?」
振り向く滝をまじまじと見る。ひょっとしたらこれは人類と言う部類に入らない種族だったのか、と一抹の不安が由宇子の胸を過ぎった。実は、それは極めて的確な不安で、この後由宇子は何度もそう言う想いに悩まされることになるのだが、さすがの彼女にもこの時点ではそこまでは見通せなかった。ただ、『ちょっと』とんでもない人間と関わってしまったらしいと思っただけだ。
「一体、どう言うわけなの?」
小机を挟んで各々の前にお茶を置いて座り、滝の顔を覗き込む。ようやく滝の顔に深刻さが戻ってくるのに少し安心して、机の上に肘を突く。
「それが」
滝は少し首を傾げた。
「まったくわかんないんだ」
「全く、わからない?」
繰り返した由宇子に、滝は頷いて話し出した。
事の起こりは、滝が由宇子に昼飯を奢ってもらった翌日に遡る。
その日の昼、滝は馘になったばかりのバイトのことを考えながら、ぼんやり歩いていた。バイト暮らしの苦学生と言えば聞こえはいいが、次のバイトが見つかるまでの数日間は確実に『おまんま』の食い上げになってしまう。それどころか、この前のように1ヶ月近く次のバイトが見つからないとなると、大学に留まることさえ難しくなる。折しも時期は学期末、次の新学期に必要な金額を考えるだけで頭が痛い。
「大体心が狭いんだよな、雇い主たるもの、従業員の些細な失敗ぐらい激怒しなくっても良さそうなもんだ。そりゃ確かに、皿を割ったのは俺が悪いよ? そりゃ……まあ……1日に20枚と言うのは割りすぎだとは思うが…」
ぶつぶつ言いながら歩いているところへ、
「おーい!」
背後から声がかかった。最初は自分だとは思っていなかったが、
「おーい! 待てよ! 待てってば!」
「へ?」
繰り返し呼ばれるのにひょいと振り返った滝の方へ、1人の男が走ってくる。瞬間、滝の目に入ったのは鮮やかなライムグリーンのポロシャツだけ、きょとんとしている間に男は手にしていた紙をぐい、と滝に押し付けた。
「これ、な」
「え?」
「渡したぜ!」
軽く息を切らせながらにやりと笑い、滝が思わずそれを掴むや否や、身を翻して駆け去っていく。
「なんだ…?」
ぽかんと男の後ろ姿を見送った滝が我に返ったのは数分後、首を捻りながら受け取ってしまったものを広げにかかった途端、
「あ、あそこに!」
「何っ?!」
「おい、君っ!!」
ばらばらと駆け寄ってきた数人の男に囲まれてぎょっとする。みれば事務局長に講師連中と言った見覚えのある顔ばかり、各々こわばった青白い顔に暗い怒りの表情を浮かべている。
その中の1人が呆気に取られている滝の手から紙切れを奪い取り、素早く一瞥した後、
「これだ」
重々しく周囲を見回した。ほっとしたような空気が流れたのも束の間、次には滝を囲む輪が一段と狭くなる。
「君、これをどうしたんだね?」
紙切れをひらひらさせながら、経済学の講師、平田が言った。
「え…?」
「どうしたのか、と訊いてるんだ!」
青白い顔をした事務局長が繰り返した。
「どうしたって……今……走ってきた男に」
「君がやらせたのかね?」
言いかけたことばを遮るように平田が畳み掛ける。
「やらせた? ちょっと待ってくれ…俺には何が何だか」
「そう言えば!」
被せるように事務局長が叫ぶ。
「この前の時も、お前がいたな」
「何っ」
「この前って……片山先生の時ですか?!」
「そうすると…!」
「しっ」
ざわめいた他の人間を平田が制した。
「こんな場所で公にしたくない。ちょっと来たまえ、名前は? 学部は?」
「え、あの、滝、です、文学部、2年滝志郎…」
「取り敢えず、来たまえ、滝、君」
あーもうーもなかった。両腕をがっしり抱えられ、滝は事務室へ連れていかれた。そこでなおわけのわからない質問責めの後、自宅謹慎を命じられ……そうして今日に至る、と言うわけだ。




