『香港小夜曲』2.一人ぼっちの小姑娘(シャオクーニャン)(2)
あの時。
滝が階段を転げ落ちた時、並の人間なら気づかなかっただろうが、あの八木、と言う男がとっさに紙を滝のポケットに滑り込ませるのを、由宇子は見ていた。
街中、電車などで掏摸がよくやる手口で、掏った獲物を近くの仲間に渡し、万が一詰め寄られても自分は知らぬ存ぜぬで白を切り通す方法、そうして見ると八木はただの学生ではないのだろう。後から追いかけてきた講師と事務局長の慌て方を考え合わせれば、広げて見なくても想像がつかないことはない。あの時に滝の身体検査などされていたら、良くて停学、悪くて退学と言った代物だろう。
もっとも目の前のお人好しは、自分がそう言った状況になっているとは気づいてもいない様子だが。
(厄介事に巻き込まれるはずだわね)
由宇子は溜息混じりに尋ねた。
「美味しかった?」
「うん!」
明るく大きく頷かれて、思わずまた笑った。邪気がない。人並みにさえ、ない。小さな子どものようだ。母親に問いかけられてにっこり笑ってこちらを見上げる、あの人懐こさと同種のものだ。
(そのせいかも知れない)
滝の周囲には誰かがいる。本人があれほど『厄介事』とドジで迷惑をかけて回っていると言うのに、友人と称してそばにいる者が絶えない。それはひょっとすると、この性格や雰囲気のせいかも知れない。自分が生きて居ることを無条件に承認し受け入れてくれるおおらかさ、何の気負いもなく自分の存在を許してくれる、生易しくはない、けれど温かな豊かさ。
(まさかね。それじゃ、まるで天使だわ)
イメージと目の前の男のそぐわなさにくすくす笑った。
滝は、由宇子がなぜ笑い出したかわかっていないのだろう、キョトンとしている。
「…御免なさい、悪気はないのよ」
なおも笑みを押さえきれないまま謝ると、滝は考え込んだ顔で頷き、
「うん、たぶんそうだろうと思う。まだ1回『しか』こけてないし」
きまじめに答えて、なお由宇子の笑いを誘った。
「そんなにこけるの?」
「一所懸命歩いてはいるんだが……なにせ、俺の足は左右交互に出ないらしくて……おまけに左足は時々右足の進路妨害をするだろ? 電柱は擦り寄ってくるし、ドブ板はなぜか踏んだ瞬間に外れるし……わ」
「?」
唐突にことばを切って、滝が由宇子を見つめた。
「しまった」
「?」
「コインランドリーに服、突っ込んだままだ」
「じゃ、取りに行かなきゃ」
「ああそうだな」
「いつ入れたの?」
「確か一昨日…」
「無事であるよう祈るのね」
吹き出しかけて立ち上がりかけた由宇子は、左側に人の気配を感じて動きを止めた。
「よう」
「ん?」
声をかけられて、ようやく滝が振り向く。にやりと笑いかけた八木はふてぶてしい顔で、
「本代、返せよ」
「あれ…月末までいいって言ってたろ?」
普通に応じたところを見ると、滝は知らぬ顔ではないらしい。訝しげに眉をしかめる。
「え? そうだっけ?」
「そうだよ。それに今、俺には一銭もない」
「にしては、派手に食ったな」
会話をしながら、八木の手が素早く動いた。滝のジーパンのポケットに軽く触れるや否や手を引き、不思議そうに目を丸くする。その表情を、滝は並んだ食器の山を見て驚いたと思ったらしい、照れ臭そうに言い訳しかける。
「実はそれが」
「ま、いいや」
八木はさっさと断ち切った。
「月末には返せよな」
「わかった」
頷く滝に、ようやくちらりと由宇子を見たが、急ぎの用でも思い出したように、すぐに大股で歩みさる。
(面白い)
由宇子は薄笑みを浮かべた。
自惚れではないが、十分に男性を魅了する容姿はしている。周囲の男達も訝っている、滝に用があったとは言え、由宇子に話しかける絶好の機会だ、使わないはずがない。なのに、八木は滝のポケットにだけ興味があったようだ。
「知り合い?」
訳がわかっていないらしい滝に尋ねる。
「ああ。こっちへ入ってから知り合って……そう付き合いはないんだけど」
「そう」
『そう付き合いはない』のに本代を貸している。滝と繋ぎを作っておこうとした気配が濃厚だ。ますます面白い。
由宇子は人混みに紛れていく八木の後ろ姿をしばらく見送っていたが、滝を振り向き、促した。
「早く行きましょ。コインランドリーの洗濯物、引き上げなくちゃ」
「あ、うん。…あ。ごちそうさまでした」
「どういたしまして」
にっこり笑って付け加える。
「請求書は月末でいい?」
「あ、やっぱり?」
引き攣った滝はそれでも怒らない。足りるかな、と視線を空にあげて計算し始める顔に微笑む。
貸しを作るのはいい手順だ、確かにすぐに繋ぎが作れる。
「ううん、今回はいいわ。『次の』からつけることにする」
笑いながら首を振った。
「次の?」
「そう。友達になりたいの。あなた、とても素敵よ」
「へ…は…ははっ…」
引き攣ったのか笑ったのかわからない滝を、上目遣いに見やる。
「いや?」
「いや、だなんてとんでもない!」
大声で否定して、滝は頭がもげそうなぐらい勢いよく首を振った。が、ふと、真面目な顔になって、由宇子を覗き込む。
「ところで」
「え?」
(あら、意外に鋭いのかしら)
こちらの意図を読み取ったかと思った懸念はすぐに払拭された。
「俺、お宅の名前、聞いたっけ?」
「ぷ…ふーっっ!」
もう限界だった。
「え…あれ? あれ? 何か俺おかしいこと言った……?」
吹き出した由宇子を、滝は瞬きを繰り返しながら、不思議そうに見つめていた。




