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『猫たちの時間』番外編 〜猫たちの時間9〜  作者: segakiyui


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『香港小夜曲』1.片眼の『寿星老(ショウチンラオ)』

「小朋友,你好!」

 香港の下街、道幅の狭い裏道でそう呼びかけられて少女はゆっくり振り向いた。

 肩を少し越すおかっぱ頭、黒い瞳が澄んで見張られ、相手を捉える。通った鼻筋、ふっくらとした朱い唇、路地裏に置くには惜しいような美少女、歳の頃は14、5歳と見えた。揺れた拍子に唇にかかった髪の毛を細い指先で払いながら立ち上がる。質素な衣服から伸びた手足が抜けるように白い。

 声をかけた男は、少女と辺りの街のそぐわなさにしばらく呆気にとられていたが、柔らかそうな唇から歳のわりには落ち着いた声が紡がれるのに我に返った。

「你好」

 唇が少し開き、ちらりと微笑む。あどけないとも言い切れぬ、不思議に艶やかな少女の笑みから、男は神経質に少女の座り込んでいた戸口の家へ目を外らせた。

 どこと言って変わったところのない、確かに作りはしっかりしているが、もう4、5年すれば廃墟になりそうな家、本当にここなのかと訝る表情で、男は家に眼を据えたまま尋ねた。

「请问,你妈妈在家吗?」

「你是哪一位?」

 母親の所在確認に、打てば響くように所属を尋ねられ、男は詰まった。そのまま眉をしかめ、口の中でもごもごとことばを探す。じっと見守っていた少女は、近くを通り過ぎた物売りが去ると、唐突ににこりと笑った。同時にはっきりした口調で、

「日本語でどうぞ、八木さん」

「え……君は…」

「お待ちしていました。どうぞこちらへ」

「あ…あ…うん」

 八木と呼ばれた男は、少女に従ってゆっくり家の中へ入って行った。


「妈妈!」

 戸口を入ると、少女は打って変わった高い声を張り上げて、八木より一足先にバタバタと奥へ駆け込んで行った。何だやっぱりまだ子どもじゃないかとほっとした八木は、そうしている自分に苦笑した。

 何を警戒しているんだ、俺は。いくら任務が任務だからと言って、あんな少女が何をすると言うのか。

(それにしても)

 八木は再びゆっくりと家の中を見回した。薄暗い部屋、開かれた窓から光は入るが同時に埃も入ってくる。うっすらと煙ったような古びた家具、どことなく湿っぽい空気。

「……」「…………」

 奥でよく聞き取れない早口のやり取りの後、ごそりと人が動く気配に視線を戻した。

 眼を凝らすと、奥の部屋とここを結ぶ戸口のあたりに動くものがある。その影は、コツ、コツと固い杖の音を響かせながら、次第にこちらへ近づきつつあった。

「…おお、今日は埃っぽいね。…由宇子、窓を閉めておくれ」

「はい」

 まぎれもない日本語のしわがれた呟きが影から漏れた。影の傍らで体を支えていた少女が応じて窓へ走り寄り、一つ、また一つと閉めていく。たちまち辺りはより薄暗い澱みに変わり、八木は眉を寄せた。

「灯りを…それに八木さんにお茶を…」

「はい」

 ぼう…っと仄かに灯りが点り、八木はどきりとして相手を見た。

「八木さん……だね? 日本警察が何の御用かな」

 覗き込む顔の右眼は白く濁っている。白髪や顔の皺と同様、老齢によるものだろう。左半身が不自由なのか、右手についた杖をのろのろと移動させながらテーブルに付き、八木にも座るように手で命じた。

「前任の平方刑事より、あなたと連絡を取るように命じられました……失礼ですが…日本語が…?」

 八木は強張った体を椅子に腰を下ろし、静かに問いかけた。老女はにこりと邪気のない笑みを見せ、

「日本語も英語も、フランス、スペイン、ドイツ……なんでも構わないよ。こう言う商売はね、色々と知識がいるものさ」

 少し頭を反らせて、八木を上から下まで眺めると頷いた。

「なるほど、若そうな渡り鳥だね……で、今日は何が欲しいの」

 尋ねる声は、近所の駄菓子屋の人の良いおばあさんと言った様子だ。

「…」

 八木は老女の問いにしばし沈黙した。疑いが心の中に渦を巻いている。これが本当にあの『寿星老ショウチンラオ』なのか? 確かに片眼、であるが……。

 片眼の『寿星老ショウチンラオ』。

 それは入り組んだ香港の最も奥深くを通っていると言われている、香港最大の情報網、『寿星老ショウチンラオ』を統べる長の名前だ。香港に潜伏する犯罪者の中でこの網を通らないものはないし、抜け出せるものもない。香港に蠢く99%の企みはこの網を通じて行われ、回収され、隠され、消えて行く。

 日本警察だけではない、各国の警察組織は非公式にではあるが、この情報網とコンタクトを取り、表の情報網であるICPO(インターポールと裏の情報網である『寿星老ショウチンラオ』を駆使して国際犯罪にあたっていた。ICPO(インターポールと『寿星老ショウチンラオ』の違いは、情報網から得られる利益の還元の仕方にあるだけだった。前者は世界平和の名の元に動き、後者は組織の存続の為に動く。この情報化社会では、『寿星老ショウチンラオ』のような組織の存在も、必要悪と見なさなくてはならないほど、錯綜した情報が飛び交っている。

「…良くない了見だよ、八木さん」

 黙っている八木に、依然にこやかに笑いながら、『寿星老ショウチンラオ』は続けた。

「お互いに信じ合わなきゃね。今回の依頼が朝倉財閥のだからって、今更ためらうのはね」

「え…何ですって」

「隠しても駄目だと言うことだよ。この間から、朝倉から何度か接触してきているが、こちらの欲しいものを渡してくれないんで突っぱねている。それで警察に圧力をかけたんだろうさね、あの大悟とか言う男が」

「…」

「『寿星老ショウチンラオ』には『両眼』が揃っている……余計な隠し立てはやめてもらおう」

 八木はついうっかりと老女のことばを聞き損ねていた。もし、ここで注意していれば、あるいは後に起こる事態を予想出来たかもし知れない。が、八木は、朝倉財閥の圧力で『寿星老ショウチンラオ』に接触したことを見抜かれて既に狼狽しきっており、自分の未来を予測することはできなかった。

「実は」

「お茶を…」

 話し出したところへ、先ほどの少女が茶を運んできた。そのまま、ちょこん、と老女の隣に腰を下ろし、無邪気そうに2人の顔を見比べている。気を削がれて、八木は少女と老女を交互に見た。老女はわずかに笑みを深めて、少女を見やり、優しく促した。

「あっちへ行っておいで」

「はい」

 少女は素直に従い、奥の間へ姿を消した。その可憐な後ろ姿を見送りながら、八木は、

「ひょっとして……先に由宇子と呼ばれたが……あの少女ですか、身元を捜されているのは」

「そうだ。今回の情報と引き換えにそちらに要求しているが……」

 老女は少し目を伏せた。

「可哀想な子だよ。もう5、6年前になるか、この近くの街で夫婦者の殺害があった。日本から仕事で出張して来ていた家族で、あの子一人が助かった……私の孫も生きていればあのぐらいだろう……手放せなくて側に置いているが、いずれは日本で暮らした方がいい」

「名前は佐野…由宇子でしたね?」

「持っていたハンカチにそう書かれていたよ。両親の血で真っ赤に染まっていて……拭おうとしたらしい。私の所へ来た時にも離さなかった」

 八木は老女の話を聞きながら、奥の間を再び見遣った。あの美少女にそんな凄惨な過去があるとは思えなかった。

「で、身元はわかったのかね」

「それが……身元はわかったんですが、親類と名の付く者がほとんどいませんでした。遠縁の叔父が一人……灯台下暗しで、警視庁の厚木警部とおっしゃる方が唯一の身内、と言うことになります」

「ほう…」

 老女の眼の奥にチカリと何かが光った。

「で、その方は由宇子のことを…」

「いえ、まだ確認してから……ということでお知らせしていません。それより、お頼みしたいのは…」

 八木は早急に自分の仕事の方へ話題を変えた。

「先ごろ、米国防総省ペンタゴンからマークされながら国外逃亡を果たしたケネス·カーターを捜して頂きたいのです」

「ケネス·カーター……ふん、確か新開発のソフトプログラムがどうとか言う…」

「その通りです」

 八木は大きく頷いた。

「コンピュータープログラムは日々進化しつつあります。10年、いや5年後にはさらなる爆発的な飛躍を遂げるでしょう。今回のケネス·カーターの開発したものは企業生産力を一気に数千倍に引き上げるばかりか、戦略ソフトとしてもかなり優秀なソフトで、一介の技術屋だった彼が米国防総省ペンタゴンのマークを受けたのはそのせいです。本人は身の回りの変化に逸早く気づいて対応、早々に国外逃亡を図り、見事成功させました。そのまま行方が知れません……ただ、この香港へ潜んだらしい、と言うこと以外には」

「そのケネス·カーターをCIAより先に捜し出して、朝倉財閥に抱え込もうと言う訳だね。ああ、理由は訊かなくてもわかるよ、朝倉大悟の考えそうなことだね」

「では」

「多少値は張るよ」

「いかほどでも、と命を受けております」

「よかろう。引き受けた」

 老女の答えに、八木は目に見えて緊張を解いた。

「では、私はすぐに日本に帰り、報告することにします…長居をしました」

 立ち上がる八木を、老女は目を細めて見上げた。

「せっかちだね。ホテルへ戻るのかい?」

「いえ、すぐこのまま空港へ向かいます」

「そうかい。……この脚だ、見送れないが…」

「どうぞそのまま……それでは…」

 慌ただしく戸口を出て行く八木をじっと見送っていた老女は、相手の足音が遠ざかるのにしばらく耳を傾けていたが、やがて低い声で呟いた。

「由宇子」

「はい?」

 応じて奥の間から姿を現した少女に、

「聞いていたかね」

「おおよそは」

「では、八木さんを『見送って』おいで。ケネス·カーターは朝倉財閥にもCIAにも渡せないよ」

「はい」

 軽く頷いて戸口を出て行こうとする少女に、老女は加えて命じた。

「『寿星老ショウチンラオ』の『右眼』として、『丁重に』、ね」

「好、妈妈」

 振り返って少女はにこりと笑って答え、つい忘れていた、と言いたげに言い直した。

「わかりました、おかあさん」

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