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『猫たちの時間』番外編 〜猫たちの時間9〜  作者: segakiyui


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31/48

『降る雨の中、傘もささずに~百合香小景~』(3)

「あの犬…」

 きっと今頃濡れそぼっている。

 気づいて百合香は空を見上げた。小降りになってきている。今なら走って行けるはずだ。

 レインコートを頭から被り、走り出す。下腹の鈍い痛みは少しましになっている。

 濡れたアスファルトに頭上の灰色の雲が反射している。通りのアーケードに飛び込み一息ついて、肩の雨粒を払い、商店街を抜け、アパートの前まで来た時、視界に黒い反射が飛び込み、体が強張った。足が竦む。見えているものが幻でないことを信じられず、何度も何度も百合香に目を擦らせ、首を振らせた。が、それは消えない、ばかりか、より鮮やかな像となって、百合香の脳髄をその形に切り取った。

 黒い傘。

 あの日と同じ、雨の中に、ダンボールの子犬に、黒い傘。

 走り寄っていた。

 何もかも忘れて走り寄っていた。

 飛びつくように傘を拾い上げ、柄を見る。まるで予定されていた1シーンのように、そこに文字が彫り込まれていた。『T.S.』ー滝 志郎。

「あ…」

 ぷつり、と心の中で何かが切れた。耐えていたもの全て、諦めていたもの全てが心の中に溢れ返り、それは幻影、あるはずがないこと、そう囁く理性の声を粉々に砕いた。

「滝くん!!」

 百合香は叫んだ。

「滝くんでしょ?! どこ?! どこにいるの?!!」

 レインコートを振り落としたせいで身体中が濡れそぼる。怯えた子犬が小さな悲鳴を上げる。

「滝くん!」

「キャウ!」

「ねえ、どこ?!」

「キャウ!」

「どこよ!!」

「キャン!」

「どこに行ったの?!」

「キャン!」

 あの日、一人で病院を出た。

 目を覚ませば赤ん坊はいなかった。物言わぬ骸となっていた。その屍が、自分と滝を結んでいた唯一つの糸を切ったような気がした。自分がどれほど汚れているのか、その隅々まで滝に晒してしまったような気がした。自分と滝がどれほど離れてしまっているのか、自分が滝にどれほど不必要なのか、そして、2人が居た季節がどれほど遠い昔なのか……それら全てに気づいた。

 気づいた以上、もう、そこにはいられなかった。

 けれど……、

 けれど。

 百合香には滝が必要だったのだ。何にも代え難いほど、信じ切れぬと言いでもしなければ、他の誰かを不幸にしてでも百合香は滝を奪いかねなかった。

 けれど…。

 けれど。

 滝はいない。これは幻影。全ては夢。百合香はもうどこにも帰れない。


「滝…くん……」

「クゥ…?」

 座り込んでしまった百合香におどおどと子犬が近づいてきて、そっと体を寄せた。

「ふ…」

 温もりに、自分が凍えてしまって居るのに気づく。こちらを見上げている人懐っこい黒い瞳に抱き上げると、変わらず濡れた温かな舌が頬を舐めた。

 けれど…。

 けれど。

「あの…」

「っ!」

 ふいに声をかけられて、百合香はぎょっとして目を上げた。路地の隅に濡れそぼって座り込んで居る自分を覗き込む人影に目を見開く。

「城本さん…でしたよね?」

「…」

 百合香はゆっくり首を頷かせた。相手の男はポケットを探り、魔法のように銀のロケットを取り出し、鎖を摘んでそっと差し出した。

「これ…あなたのですよね」

「…」

 百合香は再びこわばる首を頷かせた。無意識に伸ばした手に銀の聖水となってロケットが零れ落ちてくる。幻影というにはあまりにも鮮やかなその光景に、百合香は目を奪われ、男の次の言葉も耳に入らなかった。

「その犬、拾うんですか?」

「……え?」

 慌てて銀のロケットを握り締め、男を見上げる。

「…その犬、拾うんですか?」

「え…ええ」

 同じ問いを繰り返す男に答える。

「そうですか…」

 百合香の答えに、男は少なからずがっかりしたようだった。

「やっぱり、傘ぐらいじゃ所有権を示した事にならないのかな」

「傘…?」

「さっき通りかかってね、雨が降りかけてたから傘を置いといたんです。おかげでこっちはびしょ濡れだった」

 屈託無く笑う男の右手に黒い傘が畳まれていた。いつの間に止んだのか、それでも曇った空の下、柄に書かれた文字が百合香の目を射る。『T.S.』……そう読み取った百合香の唇は勝手にことばを紡いでいた。

「ええ…拾うんです……拾いたいんです…」

 あの中学の時、傘を差しかけて雨の中を走って消えた滝と、家の中からそれを見送った百合香、あの時既に道は分かれていたのかも知れない。運命という名の気まぐれな紡ぎ手が、二人の糸を互いに交わらぬ端々へ編み込んでいきつつあったのかも知れない。

「拾って……でも、私、アパートなんです……犬、飼っちゃいけないんです」

 また、失ってしまう。せっかく見つけた滝への糸を再び百合香は失ってしまう。

「でも……拾いたいんです……愛したいんです……私……愛したいんです……」

 帰れない、あの時。戻れない、滝の居る場所。百合香は自分で出てきてしまったのだから。どんなに焦がれても、もう百合香には、どこにも還る場所がない。

「愛し…たいんです…」

「城本さん」

 泣き出してしまった百合香に男は困惑したような声を投げた。

「何か理由がありそうですね。よかったら、少し話しませんか? その前に着替えた方がいい」

「…」

「あなたがアパートで飼うのが駄目なら、僕が飼いましょう」

「でも…」

「それで、あなたが時々僕を訪ねてくれるなら、四方うまくいきませんか? ああ、すみません、自己紹介が遅れた。僕、志賀高と言います」

「志賀…高…」

 繰り返して、百合香は心の中でその名を反芻した。志賀 高。T……S。

「キャウ…」

 子犬が甘えた声を出して、志賀の指先にじゃれつく。T.S.…志賀高。T.S.…滝、志郎。…いや、ローマ字のサインは、氏名が逆、滝志郎、は、S.T.……。

「私は…」

「城本…百合香」

「?」

「知らなかったでしょう? 僕があなたに一目惚れだったってこと。加えてここ数週間、あの喫茶店に通い詰めてた理由も?」

 志賀は照れ臭そうに笑って、座り込んでいた百合香を抱き起こし、くすりと笑った。

「けど、妙なもんだな」

 不審そうに見つめる百合香の視線に応えて、

「この傘、本当は僕のじゃないんですよ。ずっと小さい頃にね、やっぱりダンボール箱の子犬に差しかけてあったやつで、子犬を拾った時、ついでに持ってきてしまったんですが…」

「どこ…で?」

 尋ねる声が震えたのがわかった。

「ああ、ほら、牧島町の公園の近く…」

『城本!』

 頭の中に突然滝の声が響いた。牧島町にあった自分の家、その前に捨てられていたダンボールはこの子犬達、差しかけられた黒い傘、不器用な優しさを示した『T.S.』の頭文字。

『また、会えるよ』

「あなたが拾ってくださったんですか…」

 頭の中で、幻の滝の声を聞きながら、百合香は自分の唇がゆっくり綻んでいくのがわかった。

「絵…」

「あの前の家、私の家だったんです。子犬、拾いたかったけど結局拾えなくて…」

「そうですかあ…」

 志賀がにっこり笑う、その笑みに滝の声が重なる。

『また、きっと会えるさ、城本』

 そうね…滝くん…。

 いつか、きっと、どこかの街角で。ひょっとしたらお互いに気づかないかも知れないけど。それでも、いつか、きっと、どこかの街角で。

「いかん、また降ってきた。城本さん…」

「あ、私のアパート、すぐ近くなんです。雨宿りに寄っていって下さい」

「え…いいんですか?」

「どうぞ!」

 走り出しながら、百合香は初めて雨が優しいと感じていた。



                     終わり


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