『降る雨の中、傘もささずに~百合香小景~』(2)
雨は降り続いていた。下腹の重みが次第に鈍い痛みを伴ったしこりに変わっていくのに、百合香は気づいていた。
(どこへ行こう…)
問いの答えはわかっていた。滝の所へ…滝を探さなくてはいけない、周一郎が危ないのだ。
(滝…)
名前の甘さ切なさは、百合香の胸に痛いほどだった。
その名前には昔愛していた全てのものがあった。輝くばかりの生命の持つ喜びと太陽の暖かさと、望み得るだけの平安と幸福と愛情と…何もかもが。
滝。滝志郎。百合香のお芝居にまんまと乗せられた男。芝居に乗せられたまま、百合香に求婚してくれた男。百合香の一番綺麗だった時代も、一番みすぼらしく汚れた時代も、両方をこよなく愛してくれた人。それだけの人を陥れた自分に、なおも滝は優しかった。
だからこそ、その想いに報いるために今、百合香は雨の中を彷徨っている。
手足の先まで凍え切って、ようやく滝を見つけ、必死に想いを伝えて受け止めてもらえた、その直後、下腹部に激痛が走り……救急車で病院に運ばれて行きながら、百合香は自分の側に滝が居ることが哀しいほど疎ましく、灼けつくほどに嬉しかった。
汚れている自分、汚れていくしかなかった自分、生き方に一片の後悔もしない、そう誓ったはずだった。タジック社の特別機構の一員として働き、人の心の裏を暴き、くすぐり操り引きずり出し、人間なんて飾れるのは見かけだけ、その証拠に見るがいい、どんな人の心もここまで暗い、そう私と同じに! そう嘲笑していた自分、だからこそ熱意を持って任務に没頭していた自分を穢れているとは思わなかったのに、百合香は滝に会ってしまった。
人混みの中でも、すぐに滝を見つけられた。まるで標のようだった。ほんの一瞬の迷いさえ打ち砕くほどの衝撃で、滝の姿は百合香の視界に飛び込んできた。
声をかける、振り返る、その視線に、百合香の過去は瞬時に空白になった。中学校を卒業してから今日までの時間、過去にはほんの少しの汚れもなかったように、ただ白い平原が広がっていた。
作戦とは言え、滝と付き合うのは楽しかった。
バイトに忙しい滝に弁当を作る。好きなおかずを聞き、おにぎりの形を好みに変える。食べる横顔を見る。滝には苦手な食べ物と言うのは何もなさそうだった。どんなおかずも喜んで食べてくれた。最後の一粒まで残さずに食べて、嬉々として食後のコーヒーとポットに手を伸ばす滝を見ながら、弁当箱を片付ける。指についたソースを舐め、あまりの辛さにぎょっとして見ると、滝はやたらとコーヒーを飲み続けている。辛かったんだとわかっって赤くなった百合香に、滝は照れ臭そうに笑ったままコーヒーをお代わりし、そのうち慣れるから、と言った。
『そのうち、慣れるから。大丈夫、美味しいよ」
百合香が吹き出した理由を、滝はわかっていなかったに違いない。そのうち慣れるからと言うからには、辛かったか不味かったか、だろうに。付け加えたのは『大丈夫、美味しいよ』。
任務を忘れそうになる百合香をタジック社は放っておきはしなかった。あれやこれやの手出し、その度に百合香は甘い夢から引き戻される。記憶の白い平原に、深々と紅の刻印を押し付けられる。
雨の中、タジック社を裏切って滝に周一郎の危機を知らせに行こうと彷徨いながら、百合香の心の中では幸せな記憶ばかりが繰り返されていた。
捜し当ててすがりついて倒れ込み、救急車で運ばれていく。お腹の鼓動は次第に小さくなっていく。いかないで、私の赤ちゃん。いかないで。私、あなたのために芝居を続けてきたのに。
懇願した瞬間に気づいた。
……ううん、違う。
私は私のためのお芝居をしてきた。滝くん、あなたに今の私、見られたくなかった。あの時、中学の頃の百合香でいたかった。そのままの百合香で愛して欲しかった。そのままの百合香で愛したかった……。
「!」
雨音が激しくなって、百合香は我に返った。
本降りになってきたようだ。先ほどぐらいの降りなら、レインコートで何とかなると思っていたが、これではちょっと無理そうだ。
指先で無意識に胸元を探って、ロケットがないことを改めて思い知った。
きっとさっき店で転んだ時に鎖が切れたのだろう。店の中にはなかったし、他のウェイトレスも知らないと言う。ちょっと洒落たアンティークなロケットだったから、物好きな誰かが持って帰ってしまったのかも知れない。
それならそれでいい、けれど中の写真だけでも返して欲しかった。
あれはたった一枚の滝の写真だった。もう届かない人だけど、だからこそ自分一人の胸に抱いていようと思ったのに。
(そう言えば)
今日は本当にびっくりした。
あの男、何という名前だっただろう。座り込んでいた百合香を覗き込んだ顔が滝そっくりに見えた。幻と現実が交錯した一瞬、ひどく幸せだった…。
「…」
百合香はくすっと笑って淋しく首を振った。こんなに滝のことばかり気になるのは、雨のせいばかりではないだろう。
出掛ける時に見たダンボールの箱、一人暮らしのアパートの前、道路の隅に、ぽつりと置かれていた。中には茶色の子犬一匹、百合香が覗き込むと小さく鳴いて尻尾を振った。
「ごめんね…うち、アパートだから…」
伸ばした百合香の指先に温かな濡れた舌を擦り付けてくるむくむくした子犬の頭に中学校の頃の思い出が重なる。
百合香の家の前に、ある日子犬が捨てられていた。
百合香も級友も、抱いては温め可愛がり、ある者は連れ帰り、ある者は餌をやり……けれど結局どの子もそこへ置き去りにしていくしか出来なかった中。滝だけは子犬に触ろうともせず、じっと見つめていた。
夜になり、夕食を終えた百合香が自室に戻り、窓の外を見ると、まだ滝はそこに居た。
守るかのように立ち尽くす姿に、その時の百合香は苛立たしさしか感じなかった。
見ているだけなら誰でも出来る。なぜ連れ帰ってやらないのか。抱き上げてやらないのか。
降り出す雨になお苛つく百合香の目の前で、滝はおもむろに傘を広げ、それを子犬達の入っているダンボール箱の上にさしかけた。ちょっと迷うように下がって全体を見、やがて少し得意そうに笑ってくるりと身を翻し、駆け去る。
濡れるのに……思った百合香の足はたちまち階段を駆け降りていた。傘を一本余分に持って、玄関から飛び出す。滝の姿はとっくになかった。
きつくなる雨の中、一目散に走っていくだろう滝の姿を、百合香は想うことが出来た。びしょ濡れになりながら、けれどきっと、子犬達が冷たく寒い思いをしなかったことに……たったそれだけのことに十分満足して、口許に笑みを浮かべながら走っていくに違いない、時折、濡れたアスファルトで滑って転びかけながら。
その夜はただ、妙に胸が熱くなっただけ、けれどそれは、今から思えば、確かに滝への想いが高まる予告だった。
百合香が滝が養護施設に居たことを知ったのは後からだった。施設で暮らす滝には子犬を連れ帰ることは出来ないだろう。抱き上げても、撫でても、それは一時の温もりにしかならない。気まぐれに優しくして振り返りもしない百合香や他の級友に比べ、傘一本にせよ、子犬達のために残していった滝の方がどれほど優しいことか。
百合香は家に戻り、パンとミルクを器に入れて持ってきた。ダンボールの中へ差し入れる。お腹を空かせた子犬が小さな足音を立てて駆け寄り、頭を突っ込む。それをくすくす笑いながら見ていた百合香の笑い声は、あるものに気づいてより楽しげに響いた。
傘の柄、イニシャルがある。『T.S.』
そう言えば、校内写生大会のサインもT.S.と入っていた。滝のことだ、きっとローマ字のサインだと氏名を入れ替えるのを知らないに違いない………。




