『降る雨の中、傘もささずに~百合香小景~』(1)
ガタッ!がシャン!!
「おいっ!!」
「わっ…」
降り出した雨に追い立てられるように客の増えた喫茶店の中、派手な物音が響いた。不意にふらついたウェイトレス、その周囲に座っていた客が慌てて立ち上がる。足下にガラスコップが砕け散り、色鮮やかなソーダが流れた。
「城本さん!」
「ひでぇなぁ…」
「どうしてくれんだよ! 一張羅だぜ!」
「申し訳ありません! 城本さん、謝って!」
先輩格らしいウェイトレスが飛んできて、座り込んでしまったウェイトレスを叱りつけ、客に頭を下げる。ぐったりしていたウェイトレスが揺さぶられて、ようやく微かに身動きし、呟くように言った。
「すみ…ません…」
「どういう教育してんだ?!」
「ったく…クリーニング代、弁償しろよな!」
「誠に相済みません!! 」
「すみませんですみゃ、警察なんてな…」
「もうよせよ、吉野、川田」
連れらしい穏やかな声が宥める。
「どこへ行くってわけでもないし……それに、大丈夫かな」
「ちぇっ、お人好しな奴だよ、お前って奴は」
「お人好し結構、性分でね。大丈夫?」
「はい…どうも…」
見上げたウェイトレスが一瞬、蒼白な顔に瞳を見開いた。
「た…き…」
「たき…?」
「城本さん! いつまで座り込んでいるの!」
「は…はい!」
座り込んだウェイトレスが慌てて立ち上がり、よろめくように店の奥へ消えて行く。他のウェイトレスがおしぼりを持って駆けつけ、不満たらたらでスラックスを拭き始める友人の側に立ち、心配そうに眉根を寄せて店の奥へ行く姿を見送っていた男は、ふと足下に銀色に光るものを見つけて拾い上げた。
「? なんだ? 志賀?」
「さぁ…今の娘のかな…」
古い形の銀のロケットは留め金を外すと小さな音を立てて開いた。その中に写真、中学生くらいの詰襟の少年、人懐っこい瞳がまばゆいほどだ。
「弟かな…」
「うん…」
友人の興味深そうな声に、志賀と呼ばれた男は、ロケットを閉じ、ポケットに滑り込ませた。
「困るのよね、こう度々休まれちゃ」
「…」
「まあ、体が大切だから休むなとも言えないけど…早く治してね」
「……」
ようやく出た許可に頭を下げる。向きを変え、ドアを閉めると、その向こうで、抑えはしているものの低いひそひそ声が響いてくるのがわかった。
「一体何の病気かしら…」
「今日倒れた時、顔色、真っ青だったわね」
「店長、あのちょっと小耳に挟んだんですけど…」
「流産?!」
「ええ、それも不倫、だったみたいで…」
「大人しそうな顔をして…ねえ」
(…また)
ゆっくり重い足を引きずって遠ざかりながら、百合香の心は重い雲に覆われて来ている。
噂というものは、どうしてこう付き纏うのだろう。職を変え、街を移り、故郷から遠く離れて行っても、まるで影法師のようにまとわりついて離れない。
流産後、十分な医療を受けずに病院を抜け出してしまっていたので、後遺症的な極度の貧血が度々百合香を襲っていた。この街なら少し落ち着けそうだと思って医者にも通い始めたが、あの様子では遅かれ早かれ、また、有る事無い事まことしやかに話が作られていって、居たたまれなくなるに違いない。
(今度はどこへ行こう…?)
従業員用の通用口を出ると、外は相変わらず雨が降っていた。重苦しく濁った灰色の空から、冷たく容赦ない雨が落ちてくる。
(あの時もそうだった…)
百合香の脳裏にはいつかの夜が蘇っている。




