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『猫たちの時間』番外編 〜猫たちの時間9〜  作者: segakiyui


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29/48

『降る雨の中、傘もささずに~百合香小景~』(1)

 ガタッ!がシャン!!

「おいっ!!」

「わっ…」

 降り出した雨に追い立てられるように客の増えた喫茶店の中、派手な物音が響いた。不意にふらついたウェイトレス、その周囲に座っていた客が慌てて立ち上がる。足下にガラスコップが砕け散り、色鮮やかなソーダが流れた。

「城本さん!」

「ひでぇなぁ…」

「どうしてくれんだよ! 一張羅だぜ!」

「申し訳ありません! 城本さん、謝って!」

 先輩格らしいウェイトレスが飛んできて、座り込んでしまったウェイトレスを叱りつけ、客に頭を下げる。ぐったりしていたウェイトレスが揺さぶられて、ようやく微かに身動きし、呟くように言った。

「すみ…ません…」

「どういう教育してんだ?!」

「ったく…クリーニング代、弁償しろよな!」

「誠に相済みません!! 」

「すみませんですみゃ、警察なんてな…」

「もうよせよ、吉野、川田」

 連れらしい穏やかな声が宥める。

「どこへ行くってわけでもないし……それに、大丈夫かな」

「ちぇっ、お人好しな奴だよ、お前って奴は」

「お人好し結構、性分でね。大丈夫?」

「はい…どうも…」

 見上げたウェイトレスが一瞬、蒼白な顔に瞳を見開いた。

「た…き…」

「たき…?」

「城本さん! いつまで座り込んでいるの!」

「は…はい!」

 座り込んだウェイトレスが慌てて立ち上がり、よろめくように店の奥へ消えて行く。他のウェイトレスがおしぼりを持って駆けつけ、不満たらたらでスラックスを拭き始める友人の側に立ち、心配そうに眉根を寄せて店の奥へ行く姿を見送っていた男は、ふと足下に銀色に光るものを見つけて拾い上げた。

「? なんだ? 志賀?」

「さぁ…今の娘のかな…」

 古い形の銀のロケットは留め金を外すと小さな音を立てて開いた。その中に写真、中学生くらいの詰襟の少年、人懐っこい瞳がまばゆいほどだ。

「弟かな…」

「うん…」

 友人の興味深そうな声に、志賀と呼ばれた男は、ロケットを閉じ、ポケットに滑り込ませた。



「困るのよね、こう度々休まれちゃ」

「…」

「まあ、体が大切だから休むなとも言えないけど…早く治してね」

「……」

 ようやく出た許可に頭を下げる。向きを変え、ドアを閉めると、その向こうで、抑えはしているものの低いひそひそ声が響いてくるのがわかった。

「一体何の病気かしら…」

「今日倒れた時、顔色、真っ青だったわね」

「店長、あのちょっと小耳に挟んだんですけど…」

「流産?!」

「ええ、それも不倫、だったみたいで…」

「大人しそうな顔をして…ねえ」

(…また)

 ゆっくり重い足を引きずって遠ざかりながら、百合香の心は重い雲に覆われて来ている。

 噂というものは、どうしてこう付き纏うのだろう。職を変え、街を移り、故郷から遠く離れて行っても、まるで影法師のようにまとわりついて離れない。

 流産後、十分な医療を受けずに病院を抜け出してしまっていたので、後遺症的な極度の貧血が度々百合香を襲っていた。この街なら少し落ち着けそうだと思って医者にも通い始めたが、あの様子では遅かれ早かれ、また、有る事無い事まことしやかに話が作られていって、居たたまれなくなるに違いない。

(今度はどこへ行こう…?)

 従業員用の通用口を出ると、外は相変わらず雨が降っていた。重苦しく濁った灰色の空から、冷たく容赦ない雨が落ちてくる。

(あの時もそうだった…)

 百合香の脳裏にはいつかの夜が蘇っている。


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