『午前2時』4.アイ(2)
「…滝さん…?」
額に冷たいタオルが当たって、周一郎がびくりと体を硬直させた。開いた瞳に一瞬警戒心が過ぎる。だが、その光はすぐに消えた。
「汗かいて喉渇いたろ? 水持って来たから、少し飲んどけ」
「…あ…はい…」
普段のこいつなら「別に今は必要ありません」ぐらいは言うところだろう。なのに、周一郎は体を起こし、実に素直に渡したコップの水を飲んだ。
「は、あ」
小さく息を吐いて、再び横になる。
「熱は?」
「さっきは……38度…2分…でした…」
「8度か……少しは下がったのかな」
「はい…多分………夕方は40度だったから…」
「40度!」
思わず喚いた。
「それで、誰も呼ばなかったのか!」
「はい…」
怒鳴りつけられ、渋々周一郎が頷く。
「この…バカ!! お前って奴は時々救いようのないバカになるな!」
「あなたのお人好しと……いい…勝負だと……思いますけど…」
「あのなあ」
むっとしながら、心のどこかでほっとする。皮肉が言えるようになって来たのはいい兆候だ。
「ほら、肩冷やすな」
上掛けを引っ張り上げ、額のタオルを最後絞り直して載せてやる。
「こんなところを高野が見たらパニック起こすぞ、自分がいない間に坊っちゃまの一大事があったんだからな」
「そう…ですね」
周一郎は微かに唇を綻ばせた。瞳が格段に優しく細められる。
何と言っても、やっぱり高野は周一郎にとって一番近しい人間なのだ。
「高野が帰ってくるまでに起きたかったら、ちゃんとあったかくして寝てろ」
「にゃご」
そうとも、と重ねるようにルトが鳴いた。
そのルトの頭を軽く撫で、周一郎は目を閉じた。さっきよりは少しは楽そうな表情だ。見ていると、何となく温かいものが胸の中に湧いて来て、俺はタオルを載せたままの周一郎の頭に手を伸ばした。数回よしよしと撫でてやる。だが、またもやびくっと体を震わせ、薄眼を開けた相手に手を止める。
「…」
周一郎は何の文句を言うでもなく、目をあげて俺をじっと見つめた。逆に俺の方があまりにも馬鹿なことをしている気になって来て、引きつり笑いをしながら手を引き、空中でピラピラと振ってしまう。
「……」
なおも無言の周一郎に尋ねられている気がした、どうしてそんなことをするんですか、と。
(何か、こう、さ)
なんか、こう、な。
(お前が淋しがっているように思えたんだ)
だから、俺がここに居るだろと言ってやりたくて。
けれど、そんなことを言えるほど気障でもなくて。
結果、『猫撫で』になってしまったのだが………くそ、それをどう言えば伝わる? 24にもなった男が、19の男を捕まえて、頭を撫でたくなったなんて。別な意味に取られそうで困る。
心の中の煩悶、いやそんなご大層なもんじゃなくて、ジタバタヌチャクチャヘレホロ的なドタバタ感を見抜いたように、周一郎は僅かに唇の両端を上げた。
「わか……」
わかっています。
そう動きかけて動きかけた口は止まった。そのまま世にも照れ臭そうなぶっきらぼうな口調で、
「あなたの手は温か過ぎます」
ぽつりとぼやくと、くるりと背中を向けて向こうを向いてしまった。
小さなボソボソ声が続く。
「だから…僕は……馬鹿な期待をしてしまうんだ…」
それはもうはっきり、いつもの周一郎の口調だった。
(元気になった途端にこれか)
やれやれと溜め息を吐き、周一郎の側を離れた。気配を感じたのか、不安そうに周一郎が視線を投げて来る。
そんな顔をするぐらいなら、憎まれ口なんか止めときゃいいのに。人の心を読めるくせして、こんな簡単なことがわからないのか?
思いながらも、そんな気持ちにさせたままにはしたくなくて、俺は『猫撫で』を『猫ドツキ』に変えた。
「ばか」
コン。
「怒ってないよ」
「…」
熱のせいでほんのり紅潮していた頬に、周一郎は改めて紅を掃いた。見抜かれたのが恥ずかしいらしい。だが、今夜は自制のたががどこかに吹っ飛んでいるらしい周一郎は、半分嬉しそうな、半分腹立たしそうな表情になって、やたらとルトを撫でた。
「にぃやぁん!」
『猫撫で』のラッシュにルトが抗議の声を上げた。
「ほら、ルトがパニック起こしてるだろ、あんまり擦ると、そのうち発電するぞ」
「にぎゃ」
見兼ねた俺の声に、ルトも鳴き声を添える。
「だって…」
俯きがちに手を止めて、周一郎がもぐもぐ言う。
「困るんです……こういう時…どんな態度を取ればいいのか……わからなくて…僕は……その…」
おーお、珍しい、周一郎が自分の態度を弁解してやがる。こりゃ確かに熱があるわな。
呆気に取られながら眺める。その俺にも気づかぬ様子で、
「その……滝さんを怒らせたくないけど…そんな風にしか…言えないし………だけど……滝さんが居てくれると………」
もごもごもご………と布団の中へ、その先を押し込んでしまった。
周一郎の困惑を見ながら、湧いてきた温かいものがじわりと心の中に広がる。
バカな奴だなあ。
そんな台詞がぷくりと膨れる。
そんなことで俺が怒るはずがないだろ。そりゃ、お前がどういう人間か知らなかった時には腹が立ったが………そりゃ今でも時々腹が立つが………でも、そんなことは『表面的』なことだ。一時期はそう思ったからと言って、それで、俺がお前に対して持っている気持ち全部がひっくり返るわけじゃない。
お前、俺の性格、読み損ねてるぞ。
「…どんな態度を取ってもいいぞ」
答えてやった。ひょっとしたら、顔がチェシャ猫になってかもしれないが。
「俺はゴキブリ並みの適応力があるんだ、大体のことはまあいいやで済む」
猫に『自動猫撫で機』に見られようが、女の子に次から次へと振られようが。
「だから、お前はお前の取りたい態度を取ってろよ」
そんなことで揺らぐものじゃない。
「ん…」
周一郎は少し唇を噛み、迷っているようだった。やがてほんのちょっと俺の側へ擦り寄り、ほんのちょっと俺から遠ざかった。前の位置から言うと、微妙に俺から遠ざかったところで、身を沈めた。
「ふん」
鼻で唸る。
冷たい奴だな。そんなところだと、頭のタオルが替えにくいだろうが。
まあいいか。俺がベッドに乗ればいいんだし。
片膝ベッドに乗り上げて、頭のタオルを替えてやると、じっと見ていた周一郎がくすりと笑った。
「なんだ?」
「あなたはきっと、どこでも生きていけるでしょうね」
「よく言われる」
「それで……どこでもそんな風なんだろうな…」
「そんな風?」
「……いえ……独り言です」
「あんまり哲学的なことを言わんでくれ」
本気で頼み込んだ。
「俺が悩みやすいのは知ってるだろ? もう一つおまけに、そう言うことは全くわからないんだ」
「はい」
あ、肯定しやがったこいつ。
ふてた俺をなだめるように、ルトがそっと体を伸ばして手の甲を舐めてくれた。ざらついた舌の感触に、思わず、かっ、可愛い奴だなお前は! と喚こうとした矢先、電話のベルに遮られる。
ジ、リリリリ……。
「何だ? 真夜中過ぎてるぞ、真夜中」
ぶつくさ唸りながら受話器を取る。




