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『猫たちの時間』番外編 〜猫たちの時間9〜  作者: segakiyui


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『午前2時』2.メモリー(2)

 周一郎は施設の中でも特異な存在だった。

 小学校にも行っていない子どもが大人並みの思考力を持ち、大人達に向かって意見する。その頃にはルトもすでに側に居て、何をするのにも一緒だった。

 周一郎と猫との関わりに異常なものを感じ取ったのだろうか、子ども達は誰一人として周一郎と遊ぼうとはしなかった。

 その頃の周一郎というのは確かにある意味一種の天才だったが、精神年齢的には当たり前の子どもと変わらなかった。仲間と一緒に遊びたくて集団に近づこうとしては、集団のボスに手酷い扱いを受けて放り出される日々が続いた。集団の中には入れないと知って、他の一人きりの子どもと遊ぼうとしても、相手は逃げるか泣き出すか。

 そうして、周一郎の回りには、彼を恐れるか好奇心を持つかの大人ばかりが残された。

 それは、今思えば、動物園で珍しい動物を見るのと同じ目だったのだが、それでも、周一郎は、それに気づかなかった。むしろ、相手にも仲間にしてもくれないばかりか、周一郎にとっては全く意味のないことで怯える子ども達よりも、多少なりと知識を与え経験を語り、新鮮な反応を見せてくれる大人達が接近してくるのを楽しんでいた。大人達が持ち出してくる課題を次々と難なく解いてみせ、相手が驚くのに得意になる。次の課題を要求し、楽しみに待つ。

「そういうところは、普通の子ども、でした」

 自分の過去を突き放す周一郎の声は淡々と続く。

 そうして、周一郎と『遊んで』くれる大人達の一人に、施設の若い女性職員が居た。

 初めはもちろん他の大人達と同様、聡明で早熟な少年を珍しがっていたのだが、そのうちに見栄えのする周一郎がお気に入りとなったのだろう、自分の弟か子どものように扱い始めた。

 人の心情に敏感になっていた周一郎がその好意を感じ取らなかったはずもなく、周一郎は生まれてこのかた味わったことのない優しく甘い情愛に夢中になった。他の大人には、ませてひねこびたことを言い放ち、時にひどくやり込めたりするのに、その女性にだけは決して大人びた対応をしなくなった。恐らくはただ純粋に、愛情に応えようと必死になっていた。

 明るい日差しが差し込む窓辺のような、暖かで優しい日々。

 だが、それは突然終わる。

 ある日。

 施設の事務所に置かれていた金がなくなり大騒ぎとなった。外部犯か内部犯かもわからない。表沙汰になれば、施設の評判に関わる。

 大人達は周一郎の頭脳を当てにした。状況を聴き、考えを進め、周囲と話しつつ犯人像に迫りつつあった周一郎は、それまで才能発揮を応援していてくれた女性が考えを翻したのに戸惑った。

 そんなことはしないほうがいい。仲間はずれにされるのがひどくなるし、万が一犯人に知られたら、周一郎の身に危険が及ぶから。

 女性が必死に案じるのを周一郎は誇らしく嬉しく受け止めた。期待され守られていると感じた。ならば一層、的確に素早く、犯人を絞り上げなくては。女性に疑いが及ぶかも知れないから。

 昼夜を分かたず、考え続け、確認し続け、近づき続ける、真実に。

 周一郎が人の心を読み損ねた、唯一のケース。

「結果は喜劇的でした」

 くすり、と周一郎は笑う。

 追跡の果てにたどり着いたのは、その女性にしか犯行が可能ではないという現実だった。

 周一郎だからこそ見抜けたアリバイ、周一郎だから達した動かしようのない真実。

 それは、警察に漏れた。

 ふいに施設に警察がやってきた。逮捕状が準備され、周一郎の推理に従って証拠が集められた結果、女性の犯行が特定できたと告げた。同行を求められれた女性はうろたえ怯み、振り返って部屋の隅から彼女を眺めている周一郎に気づいた。

 周一郎は呆然としていた。

 推理に間違いはなかった。動機も遊興費欲しさだとわかっていた。けれど信じられなかった。なぜ彼女がそんな『すぐにわかるような』ことをしたのか。なぜ周一郎の推理を『彼を心配するふりをして』止めたのか。

 わかっていた、欲望だ、ただの、遊びたくて、見つかりたくなくて、そうだ、ただただ単純な。

 けれど信じたくなかっただけだ、それだけだ。

 彼女の中で何かが永久に壊れた。側にあったビール壜を彼女はためらうことなく叫びながら周一郎に投げつけた、「化け物! その目がずっと嫌だったのよ!!」と。

「…信じてくれなくてもいいんですが」

 周一郎がことばを失った俺に続ける。

「それまで、ルトの視界は見えなかったんです。けれど、その後から」

 飛んできたビール壜と女性のことばに身動きできなかった周一郎は、最後の瞬間、かろうじて体を竦めた。ビール壜は壁に当たって砕け散り、破片が周一郎を襲った。耳元で砕けたガラスの音、続いた衝撃、一転して真っ赤に染まった視界、そうして周一郎は気を失い、悪夢にうなされた。

 寝込んだ数日間の闇の中、周一郎はもう一つの視界を得る。心の裏まで見通す、心の脆さも抉り出す視力、嘘と真実を厳しく分ける暗い感覚。

 その視力で、周一郎が初めて見たものは、女性の中のあった憎しみと怒りだった。思いやりは見せかけだった。優しさはまやかしだった。示された好意は嘲笑と軽蔑を隠す手段、劣等感を優越感にすり替え、得体が知れない子どもをうまく扱うための『からくり』でしかなかった。

 全ては夢だった。全ては幻だった。仮面舞踏会の後に捨てられるよりも薄っぺらい仮面だった。

 周一郎は深く傷ついた。

 彼は生まれてくるべきではなかった。黄泉から天界から、同時に声が言い渡す、お前の命は間違いで、何の意味もないものだった、と。生死の境を彷徨い、干からびた心を抱え、嘆く気力も声を発する力もなく、全てがいま終わればいいのだと願い続けた。

 けれども、彼は再びこの世界に戻された。

 白い天井、白い壁、白いベッド、白いシーツ。

 何もかもが眩いほどに白い部屋に。

 そこに、一人の男が居た。

 朝倉大悟だ。

「…大悟は」

 物憂げに周一郎は呟く。

「僕に…来ないかと…言ったんです………どうせ君は…ここに居ても……居場所がない、と……だけど」

 皮肉っぽく唇が歪む。

「居場所がないのは…変わらなかった…」

 俺は何も言えずに話を聞いた。

 ここまで周一郎が自分のことを話すのは初めてだったし、ここまで素直なのも初めてだった。ひょっとしたら、高熱で自制が少々吹っ飛んでいるのかも知れないが。

「…」

 何か、言ってやりたい。

 そんなことはない。お前の居場所はちゃんとある、ほら今ここに、な、と。

 けれど、そんなことばは、今の話を聞いたあとではCMの「大丈夫、間違いありません」の台詞並みに白々しく、意味がない気がした。

 そんな慰めで事足りるなら、百万回でも言ってやれるし、ここまで意地っ張りにもなっていないはずだ。もっと別の、もっと心に沁みる、もっとこいつが安心できることばを何か。

 だが、俺の頭の中には数ページの辞書しかなくて、言ってやれそうなことばが見つからない。

「……」

 無言で額のタオルを取り上げる。絞り直して載せてやろうとすると、周一郎が目を見開いた。深く澄んだ、そこに強烈な光を秘めた黒の瞳。じっと何かを待つように、俺を見上げる。

 慰めて欲しがっているのでもなく、ほったらかしにして欲しがっているのでもない。

 と、その時、電話が鳴った。


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