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『猫たちの時間』番外編 〜猫たちの時間9〜  作者: segakiyui


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『午前2時』2.メモリー(1)

「さっ…さっ……さっ」

 何も家庭用化学ぞうきんの名前を連呼してるわけじゃない。寒い、と言いたかったが、寒気に麻痺した唇がまともな日本語を話させてくれなかっただけだ。唇だけじゃない、身体中どこもかしこも冷凍マグロより冷え切っていて、朝倉家の門なんかに触ってしまったら最後、そのままベチャ、と手がくっついてしまうんじゃないかと言う状態だ。

 近年稀に見る大雪になる見通しだそうで、朝倉家の門扉から玄関までの道のりは除雪車が欲しいほど雪が積もっていた。その中を歩いてきたから靴は雪まみれ、磨き抜かれた玄関で脱ぐのに罪悪感を感じる。

 高野が出て来たら眉の一つもひそめて見せただろうが、迎えたのは違う顔だった。

「高野はもう寝てるのか?」

 確かに時計は1時をとっくに過ぎている。

「いえ」

 周一郎に関わること以外の細々とした事をしてくれている岩淵は、穏やかに微笑んで首を振った。

「高野さんはお出かけで、今夜はお戻りになりません」

 高野より10歳は若いはずだが、岩淵の物腰には高野の補佐を務めるに十分な柔らかさがあった。

「へえ、珍しい……あっと、周一郎はまだ起きてるかな」

「はい、おそらく」

「ありがとう」

 岩淵が頭を下げるのに頷いて部屋に入る。荷物を置き、雪で濡れた服を着替える。

 最近ジーパンが一本増えたから、こういうことがあってもすぐ着替えられるのがありがたい。こちらは一枚きりの厚手のセーターをシャツの上から被って、メモを確かめる。

 やっぱりそうだ、レポート提出期限が明日までになっている。

「ちぇっ」

 泣きっ面に蜂とか、嫌味顔にとんがらしとか言わなかったか。

 まあ、まだ早い時間に気づけたのは儲けものだった。一晩徹夜で何とか形になってくれると、もっとありがたい。

 メモを眺め直し、資料を思い返し、気づいて部屋を出る、

 確か周一郎の部屋に参考になりそうな本があったはずだ。まだ起きてるならちょうどいい。

(そうとも)

 レポートに没頭して『暗い過去』なぞ忘れてしまおう、例え数時間前の『過去』であったとしても。

 階段をそうっと上がり周一郎の部屋へ向かう。

 コンコン。

 沈黙。

「周一郎?」

 再び沈黙。

 待てど暮らせど返ってこない答えに、そっとドアを開けてみる。

「周一郎?」

 いつも仕事をしている机に、姿はなかった。灯は明るく部屋の隅々まで照らしているが、どこにもいない。

「トイレか…?」

 首を傾げて部屋を出ようとした俺は、続きの寝室の方にもほのかな明かりが灯っているのに気がついた。

 あっちか。ちょっと一休み中だったのか。

「…周一郎? ……寝てるのか?」

 境のドアの隙間から首だけ出して部屋を除くと、ベッドに埋まりこんでいるのが見える。

「悪い、もう寝てたの……ん?」

 謝ってドアを閉めようとしたが、相手が普段着のまま、上掛けもきちんと掛けていないのを見て取った。近寄ってみて、息苦しそうなのに気づく。

「おい?」

「っ」

 手を伸ばして額に触れると、びくんと体を強張らせて周一郎は目を見開いた。

「ああ…滝さん…」

「どうしたんだ?」

「いえ…ちょっと……滝さん、外にいたんですか? …手が…」

 掠れた声で尋ねてくるのにぎょっとした。

「熱があるじゃないか!」

 思わず喚いた。

「いつからだ?!」

「たいしたことは…ないんです…」

 周一郎は淡く微笑した。

「いつからだって聞いてるんだ」

 凄む俺に、周一郎は渋々答えた。

「今朝から……少しだるくて…多分、風邪でしょう」

「朝からって言うと、まだ高野も俺も居ただろ? どうして言わなかった!」

「高野は親戚筋の用事があったし……大丈夫だと思ったんです」

「俺は?」

「あなたは…忙しそうだったし…」

「電話かけた時にも言わなかったろ」

「……」

 周一郎は答えず目を閉じた。当てている俺の手の下から、熱がじわじわと広がってくる。

「手が冷たくて…気持ちいいな…」

 素直な口調で周一郎はポツリと呟いた。

「ちょっと待ってろよ!」

 片手が温まってしまうと、俺は慌てて部屋を飛び出した。

 もし俺が行かなかったら、あいつはどうするつもりだったんだろう。いやわかるぞ、俺の頭でも想像がつく。きっとあのままベッドに埋まっている。自分から弱みを曝け出す奴じゃない。

 洗面器に水、タオル、コップに注いだ水と風邪薬、それとレポート作成のための一式を、俺は周一郎の寝室に運び込んだ。

「…滝さん?」

「今夜一晩、付いててやるよ。こういう時、一人ってのは辛いからな」

 不審げな様子の周一郎に伝える。

「大丈夫ですよ……こういう時はいつも一人だったから…」

「え?」

 洗面器の水でタオルを濡らしながら、紅潮した頬にわずかに寂しそうな表情を浮かべている周一郎を見た。

「大悟や高野は?」

「高野は元々大悟付きの人間だったし……大悟には仕事がありましたから。それに……それで僕も納得してたんです……すみません」

 話の合間にこくりと喉を鳴らして風邪薬を飲み下し、周一郎は再びベッドに体を沈めた。疲れた顔で上掛けを引っ張り上げる。カッターシャツ一枚とスラックスだけの軽装、額には汗が滲み出している。少し呼吸も荒いようだ。答えるとそれっきり押し黙り、少し顔を背けて眉をしかめた。唇をきつく結んでいる。

「…すみません…」

 絞ったタオルを載せようとして額に垂れた前髪を払うと、かすかに呟いた。いつもの強がりを差し引けば、かなり苦しいのだろう。それでも、唇がわずかに緩んで幼い顔になった。

(ったく、どこまで意地を張るんだか……)

「ん?」

 いざタオルを載せようとした俺は、聡明そうな額の右側、生え際ぎりぎりに小さな白っぽい傷痕があるのに気づいた。

「…滝さん?」

 いつまでたってもタオルが降りてこないのを訝しんだのだろう、周一郎が薄眼を開ける。

「…これ、どうしたんだ?」

「え?」

「この傷」

 指先で軽く触れると、周一郎は微苦笑を浮かべた。皮肉っぽく、

「まだ残ってるのか…」

 掠れた声だ。

「何かの、怪我か?」

「ええ…」

 話したくなさそうに口を噤む。

 で、俺もそれ以上訊くのはやめにした。

 誰だって知られたくないことの一つや二つはあるだろうし、それを知らなくちゃどうだということでもない。俺だって、今まで振られた女の数を上げろと言われれば、地球が破裂してからでないと言いたくない。

「ま、いいや。それより大人しく寝てろよ。起きて何かしよーなんつーバカなことは考えるんじゃないぞ」

「はい…」

 はにかんだような笑みが一瞬、周一郎の唇に浮かんだ。

 俺は気を良くして、伝った汗を拭き取ってからタオルを載せ、改めてベッドに近寄せた机の上にレポート用紙を広げ、シャーペンを持ち直して向き合った。

 しかしまあ、一体どこの誰が、学習程度を確認するのにレポート提出が必要だなんてことを思いついたのだろう。そいつを探し出して、さりげなく首を絞めてやりたい。で、その首の絞め方についてレポートしたのを、そいつの墓碑に刻んでやるというのはどうだろう?

「…いかん」

 人間切羽詰まってくると碌なことを考えない。 

 そうだ、大体山根が悪い。

 なんだって俺なんぞを賭けの対象にしなきゃならんのだ。俺は善良な一般市民だ。その善良な一般市民が女の子とデートするというささやかな望みが叶えられそうな状況に、喜んでホイホイ行ったことのどこが悪い。そりゃちょっとばかり、現実の認識力が欠けて他のかもしれないが、それでも…。

「昔…」

「え?」

 ふいに思考を断ち切られて、エンドレスな愚痴を中止した。

 周一郎を振り返ると、目の上にかかるまでタオルを引き下げた相手の唇が動くのが見えた。

「…ビール壜を投げつけられたんですよ」

「…は?」

 ぎょっとする俺に、周一郎は淡々とことばを続ける。

「施設にいた時だから……5歳か6歳、の時に」

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