『人間たちの夜』6.ふざけた終幕(1)
「、と、コート…」
詰め直したボストン・バッグを軽く叩いて、部屋の中を見回した。
いつもながら、自分の荷物がボストン・バッグ一つに納まってしまうのが、寂しくもありおかしくもある。
今回はコートが中に入らなかった。
「ここもこれで最後かあ」
一年足らずだな。と思った。
『あなたを本気で魅きつけたい…』
周一郎のことばが思い浮かぶ。
聞いた瞬間、あいつが意図した意味とは違った意味で響いてきて、この数日、ずっと俺なりに考え込んでいた。
薬が見つからない以上、周一郎はずっとあのままなんだろう。
そして、『俺』はどうしてもその願いに応えてやれない。
確かに周一郎には魅かれている。
けれど、それはもっと近しい者として、だ。恋や愛やそんな代名詞を必要としないような近さで、俺は周一郎が大事だと思う。お互いがお互いの位置に居るのが最も自然な距離……どうもうまく言えないが、それは『恋人』のニュアンスより『相棒』のニュアンスに近い。
それとは違う意味で、周一郎は俺に『本気で周一郎に魅かれること』を望んでいるのなら、俺はひどく残酷なことをするんだろう。それが出来ない以上、『相棒』にしてやれる唯一の思いやりは、突き放すことだけ、なんじゃないか。
とは言え、これからあいつの側には誰が居てくれるんだろう。あいつの体調や気持ちを心配し、時には傍若無人に踏み込んででも守ってくれるような奴が現れるだろうか。
「……なんとかしてやってくれよ、神様」
時にはまともな仕事をしてみてくれてもいいだろう。
「せめて、あいつが死ななくても済むように」
できれば俺よりもうんとできた奴で、周一郎の仕事なんかも手伝える奴だといいんだが。
「……」
それはそれで落ち込むか。
「いやいやいや」
首を振って気持ちを切り替えた。
お由宇なら数分で、いや数秒で、これぐらいのことはまとめて整理して決断して実行してしまうだろう。どうして俺は物事一つ決めるのに、ここまで時間がかかるのか。
「……どうせ阿呆だよ」
少々いじけながら部屋を出て、食堂へ向かう。最後の晩餐が朝食だというのはやるせない。この後、スムーズに飯にありつける可能性が少ないだけに、なお切ない。
「おはよう、高野さん」
「おはようございます、滝様………そのお荷物は」
「…出ていく気、ですか」
テーブルの向こうから不安そうな顔で、周一郎が尋ねてきた。
「う、ん…」
さて、どう言ったものか。
「その、……お前の気持ちには応えられないだろうから…」
結局、こう言うしかないんだよな。
ぼそぼそ伝えると、周一郎は訝しそうに眉を寄せた。
「僕の、気持ち?」
確認してきながら、何が何だかわからない、と言う顔になる。
無理もない、あれほど必死な思いで修羅場から手に手を取って脱出してきた、最後に甘えてこられたのも拒みきれていない。周一郎にしてみれば、なんで今更、そう突っ込みたい気分だろう。
傷ついただろう周一郎の気持ちを、少しでも和らげられればいいと口を開く。
「お、俺さ、正直なところ、お前には魅かれてる」
かっと周一郎が赤くなった。
さすがに朝早くから出す話題ではなかったか。けれど、ずるずる引き伸ばせることでもない。
「…お前みたいな弟がいればなあって何度も思ったし、お前が一人でいろいろなことを堪えているのを見ると、やっぱりつい、手を出したくなる。そりゃ、俺が居たところで何の助けにもならないだろうけど、とにかく誰かが居りゃ少しは楽になるんじゃないかと思って、側に居てやりたくなる」
話しながら、台詞のキザさに自分でぐったりした。
周一郎はいよいよ赤くなり、むっとしたように唇を噛みしめている。
俺はとにかく、気まずい状況をさっさと終わらせてしまうことに集中することにした。
「でも…それは、その、さ……お前の言うような………感情、じゃなくって……その……つまり…」
口ごもった。
「こう…なんだな……もっと……よくある……一般的な感情で…」
周一郎はきょとんとした顔になった。頬の赤みは消えていないが、俺の話自体がわからないような様子だ。
それほど受け入れがたいことなのか、周一郎にとって。
傷つけたくなくて守りたいと思っている奴を、わざわざ傷つけるようなことになってしまうなんて、本当に全て宮田が悪い。
「…そうだ、大体、悪いのは宮田の奴で」
「…滝さん」
冷静な落ち着いた声で、周一郎は俺を遮った。
「どうもよくわからないんですが。僕の気持ちと滝さんの……その、僕に対する気持ちと、宮田さんとはどういう関係性があるんですか?」
今度はこっちがきょとんとする番だった。思わず高野を見ると、さあ、と言いたげに肩を竦めただけだ。
「…お前、覚えてないのか?」
「何を?」
またこれも芝居だろうか、いやしかし、まさか。
「風邪薬飲んでから、その、な」
「風邪薬? 呑みましたか? いつだろう」
「じゃ、じゃあ、なーんにも覚えてないのか?!」
「だから、何をです?」
周一郎は不審そうに唸った。
「俺に迫ってきたことや、キスしたこ…」
俺はとっさに口を押さえた。だが、内容はしっかり伝わったらしい。周一郎が一瞬青くなり、やがて見る見る顔を赤くする。
「僕が? 滝さんに?」
珍しく狼狽したような声音で尋ね返してくる。
「…そう言えば…ここ数日、記憶があやふやなところが…っ」
がたりと椅子を鳴らして周一郎は立ち上がった。
「まさか、その間に僕が滝さんに迫っていたっていうんですか?!」
見開いた目、震える唇、この先数十年一緒に居ても、まず見ることがないだろう、周一郎の驚愕の表情。
「そ、そう! まさか! まさかだよな!」
被せるようにわめいた。
理由はわからないが、周一郎は俺に迫る気をなくしたらしい。
「お、お由宇、と間違えたかな、あははははははは」
大声で笑い飛ばす。理由は不明だが、せっかく治まったものを無理に引き摺り出す必要はないだろう。
「でも、記憶が」
「ほら、しばらく体調が悪かっただろ、な!」
「…」
そろそろと上目遣いに周一郎は俺を見つめた。
だめだやばいこれ以上はごまかせそうにない。
「じゃ、じゃあ、大学行ってくるかそうだな、うん! 行ってきます!」
叫んで食堂を飛び出し、玄関へと走った俺を軽い足音が追ってくる。
「滝さん!」
うわ、悪夢再びか、さっきの平和は幻だったか。
ぞっとして振り返ると、駆け寄ってきた周一郎が心配そうに見上げてくる。
「…やっぱり出て行くんですか?」
「へ? あ、いやああまさか! 今時下宿探せないしな!」
「そうですよね」
ほっとした顔になったのは無意識だったのだろう、感情を出してしまったのを恥じるように、周一郎は冷ややかに続けた。
「鞄は部屋に戻させておきます」
「うん、頼む」
ボストン・バッグを周一郎に渡し、慌てて財布だけ取り返す。
「…あなたは時々おかしなことをしますね」
いや、今回は『お前』がおかしかったんだからな!
溜め息まじりの冷たいセリフに胸の中で反論する。
けれど、今回誰が悪いったって、そりゃもう決まっている。
(宮田だ)
諸悪の根源、災厄の中心、周一郎がいきなり『戻った』のも、きっと何かあいつが絡んでいるに違いない。




