『人間たちの夜』5.抜いて抜かれて大騒ぎ(3)
「やった!」
仁木田が喜びの声を上げて立ち止まり、一気に中を開けようとした。俺の毛が逆立ったのも無理はない、中身は粉薬なのだ。こんなところで開けられたら、それこそ胡散霧消、とんでもないことになってしまう。
俺は警官を押しのけて前へ出ようとした、その途端、仁木田にできた隙を見て美和子が瞬時に相手の手を振り払い、納屋教授へと駆け寄った。
「お父さん!」「美和子!」
わあっと警官がそちらへ集まるのをよそに、俺は仁木田に向かって走り出した。狼狽した仁木田がナイフを取り出すのと、宝石を掴んだ手を振り回すのが同時だった。
「あ」「いただきいっ!」
汗で滑ったのだろう、今度は仁木田の手から宝石が飛ぶ。チンピラが受け止め、このままトンズラと背中を向ける。仁木田からそっちへ向きを変えて走り込んだ俺が、振り下ろされてきたナイフに気づくのは遅かった。ハッとした時には左耳を削ぐように仁木田の腕が振り下ろされてきていた。
「ひ」「頭下げて、志郎!」
思わず身を竦める耳に声が響き渡る。
「っっっ」「うわっ」
とにかく何も考えずに頭を下げると、何かが飛んできて仁木田のナイフを弾き飛ばした。一瞬後ろにお由宇の姿が見えた気がしたが、こうなったら行ってしまえとばかり、体を起こして振り上げた勢いのまま、チンピラに飛びかかる。
「だあっ」「ぐえっ」
つんのめるチンピラの手から宝石が飛ぶ。受け止めようと赤シャツが手を伸ばし、体を伸ばし…。
「えっ」「へっ」「ひっ」
宝石はほんの少し、赤シャツの指先を掠めた。思いっきり伸ばした体が支える間もなく、工場地帯の間を流れる用水路の上へ投げかけられる。
ばっしゃ。
なんとも言えない鈍い音と汚いハネを撒いて赤シャツが落ちる。続いて夜目にもキラキラ光って見えるエメラルドが、今しも吐き出されてきたドロドロした工場排水の渦に吸い込まれて姿を消す。
呆然とするしかないチンピラ、仁木田、そして、俺。
「宝石があっ」「証が!」
チンピラと仁木田が異口異音同感情に声を上げる。へたへたと仁木田が座り込むのへ、厚木警部が穏やかに声をかけた。
「大丈夫だよ。君の出生証明書はここにある」
「えっ」
「あの中に入ってたのは…」
ウォッホン、と警部はわざとらしい咳払いをした。
「他の物だったんだ」
まあ見たまえ、と証明書を見せられた仁木田は見る見る真っ赤になった。
「名谷……順一…」
「私は納屋、純粋の純に市場の市、純市だ」
言い聞かせるような教授の声が続く。
「そ、それじゃ…おれは…」
「とんだ勘違い、と言う訳だ。さ、詳しいことは署で聞こう。おーい、そっちの二人も連れて来い! 納屋さん、お送りします」
赤シャツ、チンピラ、仁木田がすごすご警官に連れていかれる。
「何も……解決してないじゃないか!」
俺は喚いた。
何の為に周一郎の『迫り』に耐え、閃く白刃を潜り抜けたと思ってる、全部全部、あの宝石の『中身』の為じゃないか!
「にゃ~あ?」
足元に近寄ってきたルトがいやらしい鳴き方をしてニッと口を開けた。
追いかけっこは楽しかったよ、人間って馬鹿だね。
喋るはずのないことばがストレートに届いた。
「『あれ』はどうするんだ!」
「滝君、『あれ』はいいのだ」
静かな声が俺の激怒を制した。一瞬、納屋教授まで薬の事を知っているのかぎょっとしたが、続いたことばでそうではないとわかった。
「あの宝石はイミテーションなのだよ。母の形見のエメラルドは我が家の金庫の中だ。そう思って娘もあの猫の首に付けたのだろうが………いや、しかし、君がそれほどまで気にかけてくれていたとは知らなかった」
「はあ…」
俺はかろうじて声を絞り出した。
「その君の事だ、本当は明日、抜き打ち追試をしようと思っていたが、四日後に伸ばすことにする。頑張ってくれたまえ」
納屋教授は上機嫌だった。意気揚々と娘と一緒にパトカーに乗り込む。腑抜けたままの俺の所には厚木警部がやって来て、言いにくそうに告げた。
「折角の協力者に対して大変すまないが、パトカーが一杯でね。あとでお礼をするよ」
「はあ」
「終電は終わっているが、始発が後四、五時間で来るから」
「はあ…」
「御心配なく、厚木警部。迎えが来ますから」
隣にいつの間にかいた周一郎がにっこり笑って応じたのに、警部は気の毒そうな、いや見ようによっては今にも吹き出しそうな妙な表情になった。
「そうか、じゃ、ま、そう言うことで…」
そそくさと姿を消していく。
十数分後、周一郎を迎えに車がやって来て、ルト共々、俺は周一郎と乗り込んだ。
「…大変なことになっちまった…」
ようやく声が出た。
「何が? 誘拐事件も片付いたし、ルトも見つかったじゃありませんか」
膝の上に丸くなったルトを乗せ、上品な笑みを崩すこともなく、『大変なこと』の元凶が首を傾げた。俺は周一郎をまじまじと見つめ、これから『そういう性向』のこいつと付き合っていかなくちゃならないんだ、と改めて自覚した。
「……」
大きく吐き出しかけた溜め息を堪える。頑張れるんだろうか。
「やだな、滝さん。そんなにじっと見て」
周一郎が嬉しそうに頬を染めた。気配を察したお利口なルトが、自分には関わりのないことだとばかりに周一郎の膝を滑り降り、助手席の方に移動していく。
「ありがとう、ルト」
微笑んだ周一郎は軽く体を捻って、甘えるように俺に身を委ねる。
数分間。
堪えていた、が、頬がピクッと引き攣った瞬間が限界だった。
「俺にそんな器用なことできるもんか!」
「慣れますよ、そのうち」
「慣れてたまるか!」
大体人の好みは生まれつきのものだろう、俺だってそりゃ始めから男がいいならそれもまたありだろうが、俺はとにかく女のほうが良くて、それは理屈でどうこう言うもんじゃないんだ!
「俺はな、俺はなあ!」
「……」
「周一郎、おい!」
「………」
「おい…?」
ジタバタしている俺に寄りかかったままじっとしていた周一郎が何も言わなくなって、思わず覗き込む。泣いているのかと思ったら、お坊ちゃんには色々ハードだったんだろう、寝息を立てて眠り込んでいた。強く車が揺れるたびに浮き上がって前へ倒れ込みかけるから、仕方なしに肩を抱いて背もたれに沈む。
「ったく…」
「……ん…」
ことんと転がって来る頭は無防備で、薄く口を開いた寝顔も幼い。起きている時とのこのギャップはどうしたもんだか。
「そうしてりゃ、普通に可愛いのに……っ」
呟いた瞬間、ぱちりと開いた瞳に固まった。
「な、なんだ」
「滝さん、『本当に』優しい人ですよね」
低い声で囁いてくすくす笑う。慌てて肩から手を離し、体も急いで引いた俺を、なおも嬉しそうにみやって周一郎は目を細める。艶っぽくて危うげな仕草、誘惑されている、と経験がなくてもわかった。
「う~」
きっと今のも計算尽く、人の性格を熟知している上で仕掛けてきているから性質が悪い。ムッとして顔を背けると、もっと微かな小さな声が切なげに響いた。
「あなたを本気で魅きつけたい…」
なぜか胸を強く突かれて、俺は何も言い返せなかった。




