『人間たちの夜』4.付き合いはほどほどに(2)
「えっ?」
声を張り上げる。シャワーの水音でお由宇の声がうまく聞き取れず、慌ててシャワーを止めた。
「だから、名谷は二年ほど前に工場を辞めてるの。もっとも、これは叔父から聞いた話だけど」
ぐうんぐうんと音を響かせていた洗濯機が止まり、お由宇のシルエットがコーヒーだらけになっていた俺のTシャツとジーンズを引っ張り出して離れていく。
「それがどうしたんだ?」
「その工場はね」
動き回っているのだろう、お由宇の声は大きくなったり小さくなったりする。
「一年前に営業不振になって閉鎖されてるの」
「それだ!」
思わず風呂場を飛び出した。振り返るお由宇に咳き込んで尋ねる。
「そ、その工場の場所は?!」
「南中島……南島駅のちょっと東に工場が集まっているところがあったでしょ? あの辺り。…叔父がもう乗り込んでるけど」
「そうか!」
目の前が明るくなった気がした。厚木警部が入っているなら、すぐにルトも見つかって、宝石も取り戻されて、元の持ち主に返されて…。
「え?』
俺はにこにこ笑いを引っ込めた。
待ってくれ、元の持ち主に返されてしまっては困る。薬を取り出せなくなる。ましてや、何も知らない第三者が不用意に開けてしまえば、唯一残った薬までさらさらとどこかに零れ落ちてしまう。
「こうしちゃいられないっ」
「そうね」
「へっ」
「その格好」
細い指で容赦なく指さされる。
「うわっ」
「うわって言いたいのはこっちだけど?」
「悪い!」
もう一度風呂場に飛び込み、体を拭くのもそこそこに下着をつけて出る。
「はい、これ。早く着てね。宮田さんが来たら誤解されちゃう」
ああもう、誤解でも曲解でもさせてやって欲しい。
それでも、お由宇の手から乾かされた服を受け取り、焦りながら身につけた。
「あら、もう帰るの」
「俺は忙しいんだっ!」
言い捨てて朝倉家へ走り出した。この際、頭が天国状態のお由宇の心証は後回しだ。と、前方から同じようにこちらへ急ぎ足にやってくる人影を見つけた。俺を見つけるとほっとしたように立ち止まる。
「滝さんっ」
「ハートをつけるなっ」
珍しく単独行動の周一郎に喚く。往来だと言うのに冗談にもほどが、ほどが…。
「うわっ!!」
駆け寄ってきた周一郎にきゅうっと片腕にしがみつかれて、思考が飛び散った。
「何なんだこら放せっ」
「あ…ルトが」
物思わしげな口調で呟かれてはっとする。
「ルトが?」
「妙な男達に狙われているんです。チンピラ風の男、二人に」
「それを早く言えっ! 今どこにいるんだ!」
「この通りを抜けた街中をちょっと外れた路地です」
「よしわかっ…おいっ」
置いてけぼりにされると思ったらしい周一郎が、ますますぴったりとくっついてきて絶句する。
「お前もう帰ってろ、子どもは寝る時間だぞ」
「大人も寝ますよ」
くすりと漏らした笑い声、見上げる瞳が潤んでいる。
「ばっばかっばかっ」
思わず顔が熱くなる。
本当にこれは薬のせいなのか、それともいつもと一味違うだけの芝居でからかわれてるのか。
「俺はルトを探しに」
「ルトは動いてるんですよ。僕なしで行き先がわかるんですか?」
「う」
言われてみればその通り、周一郎はにっこりと笑う。
「行きましょう、滝さん。ルトだけなんですからね、誘拐犯人の居場所を突き止められるのは」
「ああそうだその通りだ、その通りだよな」
声に出さずに胸の中で続ける。
でもって、あいつだけだ、お前を正気に戻らせることができるのも。
「行くぞ」「はいっ」
嬉しそうな周一郎を連れて走り出した、不安を目一杯抱えたまま。




