『人間たちの夜』3.すれ違い、入れ違い(2)
「いや、納屋教授のことを調べ回っている男がいるって聞いたものだからね」
あれ、今何か妙な感じがしたぞ。
「君だとは思わなかったな」
厚木警部は例の如く、あちこちポンポンとポケットを叩いた挙句、内ポケットからハイライトを出して咥えた。学内に設置したらしい簡易取調室、もとい、普段使われていない倉庫的な小部屋だ。
「あ、じゃあ、教授の娘さんの誘拐事件の事で…」
「君まで知っているのか。こりゃ相当大人しく動かんといかんな…」
どう言う意味だ。
「何かわかったんですか?」
「いやここ数日、全く音沙汰がなくてね。教授は娘さんが攫われたのはエメラルドのペンダントのせいだと言っている。攫われる数日前から、ペンダントについてしつこく聞き回っていた男がいるんだそうだ」
写真の少女の胸元のペンダント……今回俺は急に勘が働くようになったらしい。ペンダントからルトの首輪のガラス玉がいきなり浮かんだ。
「あの…仁木田俊一という男は調べましたか?」
「あ? 教授の助手の?」
何を知ってる、という顔で、厚木警部が目を輝かせた。
「そういや、ここしばらく姿を見せていないぞ。どういう事だ?」
職業的好奇心に満ち溢れた顔でじりじり迫ってくる。
「実はですね」
周一郎とルトのつながりを避けて話すのは難しかった。が、仁木田俊一が教授の実の息子かも知れないこと、それを仁木田が恨みに思っているらしいこと、宮田の惚れ薬のこと、おかしなお由宇のこと、同じくおかしな周一郎のこと、と話すにつれ、厚木警部はその辺りの不審を忘れたのか、
「…そりゃ大変だろう」
気の毒そうに頷いた。いやほんとそうなんですわかってくれますか聞いてくれますかええ、と泣きつきたいのを我慢して、話を先に進めて行く。宮田の解毒剤のこと、ルトの首にかかったガラス玉のこと(この辺りは宮田が、美和子のペンダントにそっくりだったと言ったことにした)、ガラス玉の中の空洞のこと、中に入っていた紙切れのこと、入れ替えた薬のこと…などなど。
「あ、これがその紙です」
気づいて、胸ポケットからねじ込んだ紙を取り出した。薄い半透明に近い紙で、なかなかの達筆、万年筆で書かれた証明書のように見える。
「ふむ…? 右、仁木田俊一は、ナタニ順一と仁木田良子の実子であることをここに…」
読み上げた厚木警部に思わず尋ねる。
「それ、ナタニって読むんですか?」
「ナタニ、だろう。名前の名に、谷川の谷だから」
「俺、てっきりナヤと読むんだと…」
「そういえば、あの教授もナヤだな」
厚木警部は思い出したように頷く。
俺は苦笑いして訂正した。
「よく間違われるけど、教授の名前はノウヤ、です」
のうやと発音したにしては縮まった感じがしたんだな、と呟いた次の瞬間、ふいに次に厚木警部のことばが予測できた。
「勘違いか!!」
異口同音に叫ぶ。
「で、でも、どうしてこの証明書が、納屋教授の娘さんの宝石に」
「ナヤ、じゃない、ノウヤ教授の母親、つまりあの宝石の元の持ち主は産婆をしてたんだ。可能性がないことじゃない。もしそうなら、仁木田がこれ以上罪を重ねないうちに、何とか…」
「あ、それなら大丈夫ですよ、ルトが…」
にっこり笑った俺は途端に自分の立場を思い出した。『ルト』だ。
「滝くんっ」
「すいません、俺っ!」
慌てて立ち上がったのに驚いた厚木警部に言い捨てる。
「急ぐんです、何かわかったら連絡します!」
「滝くん!」
呆気にとられている厚木警部を放って走り出す。
そうとも、のんびり仁木田の動機云々など追いかけている場合じゃない。もっと切羽詰まった問題がある。
こういう時体育会系だったら。いや多少のスポーツでもやっていたら。息を切らしながら考える。
朝倉家の門が開くのを待つ間も惜しく走り込む。くそっ、どうして金持ちって奴は門から玄関までをこんな長い作りにしたがるんだろうな全く。土地か土地が余りすぎているからか!
「た、たかっ、たかのっ、ル、ルトっ、ルトっ、はっ…」
玄関に飛び込んだ俺の声はことばになっていなかったが、高野はきちんと察してくれた。
「先ほど坊っちゃまのお部屋に…」
「そっ、そうっ、わかっ、わかった、ありっ、ありが…」
慇懃に頭を下げる高野の前を片手を振りながら走り抜け、二階へ駆け上がる。
「ルトっ!」
周一郎の部屋の前まで来た時、鋭く小猫を呼ぶ周一郎の声がした。嫌な予感に慌てて部屋に突っ込むと、キラキラと秋の日差しを跳ねて窓から飛び出していく青灰色の塊が見えた。
「るとォ!」
叫びながら窓に駆け寄るが、さすがに猫、ベランダから庇を伝ってあっという間に庭へ駆け下り、首元あたりで一際まばゆい物を輝かせながら駆け去っていく。
「うわ…」
「滝さん!」
嬉しそうに声を上げて周一郎がやって来た。
「あれ…ルト…だよな…?」
「ええ。さっき戻って来たんですが、急に出て行ってしまって」
解説されなくとも確認しなくともわかった、があえて尋ねる。
「今までここに居たんだよな?」
「はい、ほんとに今の今まで」
「……くそっ!」
喚いて向きを変え、そのまますぐに部屋を飛び出そうとした矢先、
「滝さん」「ひっ」
瞬時に忍び寄られたのか、周一郎に腕を絡まれて硬直した。
「なっなにっ」
「何、じゃありませんよ」
柔らかく詰る口調に振り向く。人を魅きつけずにはおかない瞳に限りなく素直な色をたたえて、周一郎が見上げている。
「ぼく、何か悪いことをしたんですか?」
「い、いや、してないぞ何も」
わずかに体を寄せられて、思わず体を引いた。一瞬悲しげに眉を寄せられ動けなくなる。
「何か怒ってるんですか?」
「怒ってない」
目を外らせる。腕を抱え込まれて居心地が悪い。というか、この雰囲気が考えたくないものを無理やり思い出させて来て不安だ心配だ冷や汗が出る。おまけにそれがこいつのせいじゃなくて本意でもなくて、ついでにそれがただひたすらに俺の悪友宮田のせいなのが一層居た堪れない。
「だって」
「大丈夫だ何にもない何も起こってない大丈夫だって」
こいつがまともだったなら、こんな状況はもう死ぬほど嫌だろうし、覚えていたら真っ赤になるどころか青ざめてぶっ倒れそうだし、それにこの、何だろうな、この妙な艶やかさというか色っぽさというか。周一郎ってこっち側だと、これだけヤバい奴なのか、それとも宮田の薬のせいか。
(ひょっとすると俺で良かったのか?)
もっと違う、別の奴だったりしたら、いやそれこそ宮田とかだったりしたら、ひょっとしてひょっとすると、こいつは積極的に『そういうこと』へ踏み込んでしまっていたりしたのか。
それはそれでとんでもなくまずい、高野は坊っちゃまが意に添わぬ状況になったと切腹してしまったりしてしまうのではないか。
いやもうそれも大変にまずい。
「…嘘だ」
ぐるぐる考え続けていると、ふいと周一郎が掠れた声で呟いてはっとした。
「え?」
「滝さん……本当は、ぼくなんか嫌いなんだ」
悲しげで寂しげな口調で目を伏せる。
「いやそれは」
「絶対、そうだ」
言い切る言葉は強いのに、小さく震えた唇が頼りなげに開く。
「今朝から素っ気ないし、冷たいし」
「違うって」
「違わない。ぼくが…妙なものが見えるから、本当はずっと気味悪いって思ってたんだ…」
あああ、そこかそこへ落ち着いてしまうのか。
周一郎は自分の能力を苦痛に思っている。世間から並外れた才能だなんて思っていないし、自分が朝倉家を動かせている辺りも評価なんてしていない。
「違うって」
思わず強く言い返した。
「俺はそんなこと思ってない」
「だって」
「俺はな、俺は」
「…え?」
覗き込んだ俺の顔をタイミングよくというか、十分心得たように見上げてくる。
可愛らしい。
「違う違う違う!」
ああもうどうしたらいいんだ、ルトは逃げっちまうし、周一郎は無邪気に迫ってくるし、頼りのお由宇も色ボケ状態だし。
「違うんだって!」
全部間違ってるぞ、なんで俺が探偵ごっこをしなくちゃならない!
泣きそうになった瞬間、
「滝さん」
くいと腕を引かれて体を屈めてしまった。避ける間もなく一気に距離を詰められ、身を引く寸前に頬に周一郎の口が触れる。
「うわああっ」
「滝さん?」
きす。きすだ。キスしやがったこいつ。
じりっと焼かれたような気がする頬を振り放した手で押さえる。
にっこり嬉しそうに、いやはにかむように頬を染めて笑っている周一郎は、ほんとにほんとに可愛らしく見えた。見えてしまった。
納豆状態でネバネバぐだぐだになっていた頭の中が、いきなり噴火してポップコーンが跳ね飛んだ。紫と緑の星がラインダンスをしている。緊急事態を収拾しようと科学特捜隊が走り回る。
(が、外国じゃキスは挨拶がわりだ!)
突然閃いた考えにはっとした。
そうだ、そうだとも!
弟が兄貴にお休みのキスぐらいする! 子どもが親におはようとかキスぐらいする! そうとも! そういうこともあるとも!
(ああそうだとも決しておかしな意味じゃなくて、これはその親愛の、身内の、つまりはそういうものだ!)
「滝さん?」
もう一度にっこり笑う周一郎に、俺は潤んだ目を向けた。
誘惑されてんだろうなああ、お返しのキスとかはないのかとか思われてんだろうなああ。
泣き出しかけながら、必死にその考えを押しやると、もっとひどくて冷静な思考が戻ってきて、視界が暗くなった。
ちょっと待った。
俺は納屋教授の娘さんの行方を探さなくてはならない。然り。俺は探偵には向いていない。然り。お由宇は全くあてにならない。然り。周一郎は薬で呆けてる。然り。ルトしか解毒剤を持っていない。然り。ルトと一番近しいのは周一郎だ。然り。
つまり、どう転んでも、できるだけ早くルトを捕まえなくちゃならないし、そのためには周一郎の手を借りるしかないし、その周一郎は………泣きたい。
(宮田のドアホ! クソ馬鹿野郎! 天国へ行って神様に舌抜かれてこい!)
罵倒しながら目を閉じる。なんということなく、ボストンバッグを思い出した。




