28. 絶望の過去、希望の未来
黒犬静がかつて通っていた小学校。その通学路の途中には「住宅団地前」バス停がある。
静が小学五年生を迎えたばかりの頃、いつものように登校途中で「住宅団地前」バス停に差し掛かると、セーラー服姿の女子がバスを待っていた。
全く見かけない顔であったが、静はその顔につい見とれた。目つきは少しきついものの、綺麗な弧を描いた眉とすっと通った鼻筋、薄い唇と、顔のパーツの何もかもが整っていた。かつ、外ハネのショートヘアーが快活的で凛々しい印象を与えた。
静はトクンと心臓が高鳴るのを感じた。
すぐにバスが来て女子は乗り込んで行ったが、その姿を静はじっと見つめていた。乗客と勘違いした運転手にマイクで「乗られますか?」と声を掛けられるまで、我を忘れてしまう程に。
次の日も、女子はいた。その次の日も、全く同じ時間に。彼女の姿を見るたびに、胸が締め付けられるような感覚にとらわれた。それが「恋」であると自覚するまでさほど時間はかからなかった。
最初はただ見ているだけだったが、ある日、思い切って挨拶しようと決意した静は少し早めに家を出た。
女子はいた。他のバス待ちの客の姿はいない。千載一遇の好機、静は勇気を出して挨拶した。
「おはようっ!」
女子はニッコリ笑って、大きな声で挨拶を返してくれた。途端に激しく甘い動悸が静を襲ってきた。
「君、何年生?」
静はしどろもどろになりながら、小学五年生だと答えた。
「そう。結構可愛らしい顔してるね」
ドクドクドク。自分の拍動が聞こえそうなぐらい、胸の下が脈打っているのがわかった。
女子は柳中学の生徒だとひと目でわかった。静の学区にあるこの中学校は、制服に学校名と氏名を記した名札をつけているからである。彼女のセーラー服の胸についている名札からは「鈴木」という名前を確認した。平凡の域を超えている顔立ちと、ありふれた苗字との間には面白いギャップがあった。
「実は今年、この近くに引っ越してきたばかりなんだ」
道理でこの辺で見かけない顔だと思ったと、静は正直に伝えた。
「まだ小学五年生なのに大人っぽいよね、話し方が」
ドクン、と大きく心臓が跳ねて、まともに視線を合わせられないぐらいの恥ずかしさを感じた。
いつの間にかバス停に人が並びだして、やがてバスも来た。
「じゃあ、またね。しっかり勉強してきなよ」
気さくな笑顔を振りまいて、鈴木を乗せたバスは走り出した。
罹患した恋の病は悪化の一途をたどった。次の日はさらに早く家を出た。バス停には誰もいなかったが、すぐに鈴木が現れた。
「あれ、昨日のお嬢ちゃん。おはよう!」
静は、今度は学校でもしたことがないぐらいの大声で挨拶した。
「おっ、元気がイイね! まさか、あたしのことを待っててくれたとか?」
静はゆっくりと首を縦に振った。
「わあ、嬉しいなあ。でもこうして挨拶できるのもきっと、今日限りなんだよね」
驚いた静は理由を尋ねた。
「部活が決まったんだ。明日から朝練で早く家を出なきゃいけないから」
何時からですか。自然と、その言葉が口をついて出てきた。
「今より一時間も早いよ。君が無理して付き合う必要はないって」
それでも鈴木さんとお話がしたい。静は強く訴えでた。
しばらく間を置いて、鈴木は声を上げて笑った。
「あたしと仲良くなりたいんだね。良いよ。じゃあ、連絡先を交換しようか」
だが、当時の静はまだケータイを親から持たせてもらえていなかった。静はそう伝えた。
「うーん。じゃ、こうしよう。このすぐ近くに公園があるよね? 今度の日曜日の朝十時にそこで待ち合わせしよう」
お誘いに頭が真っ白になりかけたが、絶対に忘れまいとして場所と日時を復唱した。このすぐ近くの公園、日曜日、朝十時。
「あ、そうだ。君の名前聞いてなかったな」
静は自分のフルネームを答えた。
「くろいぬ? まさか黒い犬? 変わった苗字だね」
実際、黒犬という名字を持っているのは日本で静の家族と親戚しかいないという希少性である。
「でもユニークなのは羨ましいよねー。私なんかどこにでもいる『鈴木』だし」
鈴木は自嘲気味に笑った後、思い出したように告げた。
「あっ、あたしの下の名前はノリカっていうんだ。そう呼んでくれたら嬉しいな」
どう字を書くのか静が聞くと、「『糸』偏に『己』と香りの『香』で紀香」と答えた。
そう、四年後に出会う下村紀香の下の名前と全く同じであった。
「あ、シズカってどう書くの?」
下の名前で呼んできたとき、静の心拍数は極限まで高くなったが、表向きは冷静に『静』と答えることができた。
「静かあ。いいね、君の雰囲気によく合ってるよ」
心臓は限界に近かったが、もっと話したいという欲求はとめどなく溢れて出きた。鈴木紀香のことを知りたかった。だけどバスはこの日も定刻通りやってきてしまった。
「じゃあ、日曜日に会おうね、静!」
鈴木紀香は、窓越しに手を振ってくれた。その時見せた笑顔が、最後に見せた姿になろうとはこのとき思いもしなかった。
翌日、静が小学校から帰ってきたら、父親が難しい顔をして夕刊を読んでいた。静が理由を聞く前に、父親の方から話してきた。
「柳中学の子が交通事故で亡くなったらしい。静も気をつけなさい」
鈴木紀香の通っている中学校。何か嫌な予感がした静は、父親がテーブルに広げた夕刊に目を通した。
!!
静は嘘だ! と心のなかで叫んだ。
『中学二年生、トラックにひかれて死亡』
ごく小さい見出しではあったが、そこには鈴木紀香の実名と顔写真が載っていた。記事には午前七時頃、部活の朝練で登校して道路を横断しようとしたところ、トラックにひき逃げされたと書かれていた。
何かの間違いだ。信じない。絶対に信じない。
静は家を飛び出した。柳中学の場所は知っていた。いつもの「住宅団地前」バス停からバスに乗り、「柳」バス停で下車。狭い路地を抜けたところに中学校がある。
そこで目にしたのは、歩道に設けられた献花台を埋め尽くさんばかりのおびただしい数の花束であった。そしてすすり泣きながら手を合わせる生徒たち。通りすがりの人も事情を知っているようで、手を合わせていた。
生徒たちは紀香の名前を口にしながら泣き続けていた。
これは悪い夢だ。夢なんだ。自分に必死に言い聞かせたものの、体から血の気が失われていき、平衡感覚が麻痺していった。
さらにカップル連れの通行人がこんな会話をするのを聞いてしまった。
「今朝俺の友達がこの道を通ってさ、見ちゃったんだよね……死体。最初大きな犬か猫の死骸かと思ったって。てことは、人間ってわからないぐらいグチャグチャになってたってことだよな……」
「ちょっと、こんなところで不謹慎よ!」
静は途端に胃液がこみ上げてきて、狭い路地に逃げ込むと、吐いてしまった。
それからはどうやって帰ったのかわからない。ただ、初恋の人を失ったにも関わらず悲しみの感情が全く起きてこず、涙ひとつこぼすこともなかった。
ショックが大きすぎて感情が壊れてしまったわけではなかった。ただ、静は鈴木紀香一人の命の喪失よりももっと大きなものごとについて思いを巡らせ、煩悶した。
鈴木紀香はいったい何のために生きてきたのか?
新しい中学生活を送ろうというときに、なぜ死なねばならなかったのか?
少女は、なぜ肉の塊に成り果ててしまったのか?
自分は生きているが、鈴木紀香より生きる価値はあるのか?
では自分は何のために生きているのか?
わからない。
そして静はこの日を境に、人間らしく生きることを辞めてしまった。喜怒哀楽を無くし、口を閉ざし。ただの機械と変わらない生活を送るようになった。
もうこのまま生かされるだけ生かされて、いつの日にか野垂れ死ぬ。それが黒犬静の生涯だと決めつけていた。
あの日、奇しくも鈴木紀香と同じ名前を持ち、かつ、よく似た顔を持つ少女とアクシデントを通じて出会うまでは……。
静は全てを語り尽くした後も冷静な態度であった。反面、紀香はというと沈痛な面持ちで聞いていたが、ついに堪えきれなくなって、目から涙が溢れ出た。
「辛かっただろ……?」
紀香はごめん、と一言断ってからポケットティッシュで鼻をかんだ。
静は、今振り返ると辛いなんてものじゃなかったと答えた。
さらに静は語る。最初に下村紀香と保健室で出会ったとき、鈴木紀香が蘇ってきたのかと錯覚して驚いた、と。性格に若干の違いはあるものの、下の名前が同じであると知って、ただならぬ運命を感じたという。
紀香からご飯に誘ってくれたことで嬉しい、という感情を久しぶりに抱いた。そして下村紀香という人間に興味を持っていった。いつも良くしてもらううちに、凍りついた感情が少しがつ溶けていって、二度目の恋を自覚するに至った。
そして、こうして恋人になれて嬉しい。と、静は言った。
「こっちこそ。これもきっと、天国にいる鈴木紀香さんが引き合わせてくれたんだな」
下村紀香は地蔵の前にしゃがんで手を合わせ、静と一緒に鈴木紀香に祈った。ありがとうございます、と。
自然と二人の足は「住宅団地前」バス停近くの公園に向いていた。本来ならば鈴木紀香と静が会って語らうはずだった場所。そこが下村紀香と静が恋人どうしになって初めてデートをした場所になった。
子どもが遊具や砂場で遊んでいるのを、紀香と静はベンチで見守りながらいろいろと語らい合った。その中で紀香は、思いがけないことを耳にした。
「ソフトボール部のマネージャーになりたいって!?」
紀香は驚いたが、静は改めて言い直した。
「いったい何で?」
三日間ソフトボールの試合を見て、紀香の活躍に感動して、自分もソフトボールに関わりたくなったからだと静は言う。紀香は素直に嬉しいと思う反面、懸念も持っていた。
「いや、人手が増えてくれるには嬉しいんだけど……裏方って全然楽じゃねーぞ? グラウンドの整備したり球拾いしたり飲み物用意したり時には朝練にも付き合ったり。スコアの付け方も覚えなきゃいけねーし」
それでも静はやる、と力強く言った。活力に満ちた瞳で紀香を見据えながら。
静は続けて言う。自分は何のために生きているのか、その答えはまだ見つかっていない。だけど今は先輩のために命を使いたい。力になりたい、と。
口から出てくる言葉のひとつひとつには、紀香の心を揺り動かす力があった。
「……わかった。そこまで言われちゃあ断る理由はねーな。じゃあこれだけは約束してくれ。あたしだけじゃなくチームみんなを助けること。練習や試合の場では公私混同しないこと。チームの中ではあくまで選手とマネージャーの関係だということ」
静はうなずいた。
「よーし、じゃあ指切りげんまんしよう」
二人は小指と小指をしっかりと絡め合って、約束の証とした。
子どもたちが遊び足りてか、歓声を上げながら公園から引き上げていった。もうそろそろ日が落ちる頃である。
「さ、あたしらも帰ろうか」
紀香が立ち上がろうとすると、静が不意に首に手を回してきた。
「しず……」
その先は言えなかった。静が唇で塞いできたからである。
一瞬、紀香は目を白黒させたが、やがて柔らかい感触を通して心が温かいもので満ち足りていった。
唇を離すと、静はありがとう、と感謝の言葉を伝えた。
このとき、静の顔は笑みが浮かんでいた。それを紀香はしっかりとこの目で見た。途端に、胸の奥からぐっとこみ上げた感情がまた決壊しそうになったが、その寸前にぎゅっ、と抱きしめ返した。
真っ赤な夕焼けを浴びながら、二人はしばらくお互いの温もりを感じ合っていた。
「あー、ちくしょう……はあああ~」
春休み初日、下村紀香はベッドに座ってため息をついていた。
周りには荷物がまだダンボールに入ったままだが、整理する気力すら起きない。それもそのはず、望まない引っ越しをせざるを得なかったのだから。
紀香のソフトボールでの活躍ぶりは確かに、伊ヶ崎理事長はじめ学校中に知れ渡った。だが悲しいことに、よりによって三学期の期末テストで下から数えた方が早い順位を取ってしまったことが原因で桜花寮への「左遷」が決まってしまったのである。
桜花寮住まいのはじめや帆乃花、奏乃たちからは「一緒に住めるね」と歓迎されたのが唯一の慰めであった。
「ま、今さらウジウジ言っても仕方ねえわな。今年は暴れまくってインターハイに出て、菊花寮復帰を目指すぜい!」
自分の頬を叩いて気合いを入れたところで、コンコン、とドアがノックされる音がした。ルームメイトが来たらしい。寮母から聞いた話では新しく入寮する生徒らしいが、それ以上のことは聞かされていなかった。気が合わないヤツだったらどうしようか、と少し心配になったが、こればかりは自分ではどうしようもない。
「どうぞー」
紀香がドアを開けた途端、ルームメイトが胸に飛び込んできた。驚いた紀香は相手の顔を見て、さらに驚いた。
「しっ、静!!??」
黒犬静が上目遣いで紀香を見てきた。
「まさかっ、静がルームメイト!?」
静は落ち着いてください、と前置きしてから告げた。
以前、紀香ははじめについて静に話したことがあった。はじめは空の宮市住まいで中等部時代は自宅通学していたが、高等部からは自分を変えるためにあえて寮暮らしを始めた、と。それに倣い、静も自分を変えるべく今年から親元を離れて桜花寮に入ることにしたのである。
「うおお、マジかよ……あたし、静と一つの部屋で暮らすんだなあ……」
紀香の陰鬱な気持ちは一瞬でかき消えて、もはや菊花寮のきの字も考えなくなっていた。
「あっ、に、荷物が全然片付いてねえんだ。悪いけど、一緒に整理すんの手伝ってくれるかな?」
静はうなずき、部屋に入っていった。
「これからよろしくお願いします。紀香さん」
――他人の人生に影響を与えてこそ、人生には意味がある
ジャッキー・ロビンソン
本編完
どうも、藤田大腸です。ここまでお読み頂き、ありがとうございました。
昨年の暮れに星花女子プロジェクトにお誘いを頂いて嬉しく思う反面、他の作者様が作られたキャラを動かすというのは二次創作とは違った難しさがあるなと覚悟していました。
いざ第六弾が始まり無口キャラの黒犬静ちゃんが嫁ぎに来ましたが、体育会系熱血少女の紀香さんとは真逆の性格なのがかえってピッタリ合っていました。また、部活繋がりで有原はじめちゃんに加治屋帆乃花ちゃん、美波奏乃ちゃんと絡めて話を楽しく作ることができました。
もちろん反省点もたくさんありますが、それは次の第七弾で活かしていきたいと思います。
本編はこれでおしまいですが、番外編もちょくちょく載せていきますのでよろしくお願いいたします。
最後になりましたが、読者様、星花女子プロジェクトに参加されている作者様、そして星花女子プロジェクトの主催者、登美司つかさ様に感謝致します。今後ともよろしくお願いいたします。
藤田大腸




