閑話 己の意志と、親の想い
【アートマン】
久しぶりに、母の言葉を思い出していた。俺たちが身体を持つ直前、母は最初で最後の言葉をかける。母のことを父、と呼ぶ者もいるが、俺はやっぱり母のほうがしっくりきた。
『私の可愛い子どもたちよ……これからお前たちは、広く、あるいは狭く、美しく、あるいは醜い世界に降り立つことになります。現界した時点で、私の声は肉体が朽ちるまで、聞こえることはないでしょう』
ーーそんな、母よ。俺は、あなたの声が聞けないなんて嫌だ。あなたを感じることができなくなるのは嫌だ。それなら、いっそこのままでいい!ーー
生まれる前の幼い俺は、そんな風に駄々をこねたっけか。今思えば恥ずかしい話だ。母以外に見られていないのがせめてもの救いだな。
あの時、母は優しくこう続けた。
『私の可愛いアートマン……離れていても、声が聞こえなくても、私たちは一本の線で繋がれています。それは、どんなに断ち切ろうとしても決して切れることのない、強く、太く、美しい線です。大丈夫、私たちは皆で一つなのです。私は、いつもあなたのことを見守っていますからーー』
ーー嫌だ、嫌だ、嫌だ!!!ーー
『アートマン……あなたは強い子。いずれ私のいない日々に慣れるでしょう。覚えておきなさい。あなたの生きる意味を探すのです。何のためにあなたは形を持って生まれ、何のために私の元を離れるのか。他の子供たちは私を守ることを強要するでしょうが……、私はねアートマン、あなたにはあなたの思うままに生きてほしいのですよ。あなたが、どんな答えを持って帰って来るのか、私は楽しみにして待っていますーー』
それが、俺が最後に聞いた母の声だった。あれ以来、本当に母の声は聞こえなくなった。最初は辛くてわんわん泣いたが、月日が経てば案外慣れてしまうもので、泣かないで済むのにそんな時間は要しなかった。
俺は、母が最後に俺に残した言葉が頭から根っこのようにこびりついて離れなかった。
『何のために生きるのか』
これは俺の命題だ。エルフは、その一生をウンともスンとも言わなくなった母であり、父である神樹を守るために費やす。であるから、ほとんどのエルフはこの森から離れない。
ほとんど、ということは当然その例外もいる。エルフは森から離れた同族を、「はぐれもの」と呼んで蔑む。神樹を守るという使命を忘れ、己の欲のままで生きる低俗な輩だと思うのだ。
しかし俺は、そんな「はぐれもの」こそが、真に生きている奴らなのではないかと思うのだった。皆、母から何も聞いていないのだろうか。
『思うままに生きてほしい』
彼らはまさしく母の意志に準じて行動しているではないか。己の頭で考え、何を為したいかを決定し行動している。俺自身も、そのような一人前の存在になりたかった。
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「なぜだ!? 最年少で守人に選ばれたにも関わらず、なぜ使命を放棄するのか!?」
森を出るときも、長老たちが口々に俺を罵った。本当に理解できていないのか、皆血相を変えて俺の出発を止めようとした。これだけ長いこと生きていても、誰も母の意志を守ろうとしない。親不孝者どもめ。
「そもそも、守人になるつもりで選別に参加したわけじゃない」
「なんだと……!? ならば何のために!?」
「単に俺の実力を知りたかっただけだ。これから何が起きるかもわからない、広い世界に出ようってんだ。守人くらいになれなかったら、まずいだろうよ。なあ?」
「選別を、神樹を、侮辱したというのか!? 己の身勝手な心を満たすためだけに、神聖なる儀式をぶち壊したというのか!!」
長老たちは、今にも血管がはち切れそうになるほどの怒りを俺にぶつけた。俺はそんな長老たちに、ひどく冷たい視線をぶつけてやったのを覚えている。
ビクッ、と年端もいかないガキにビビったあいつらの顔ときたら……今でも笑いがこみ上げてくる。
「確かに俺は儀式とやらはぶち壊したのかもしれない。侮辱したのかもしれない。俺にとってあんなもんは、茶番劇に過ぎないからな。だが……俺は意志を持ってから一度も親を侮辱したことはない。俺は親の意志に従っているだけだ。だから……邪魔すんな、スネかじりども」
そう言って俺は広間を後にした。そうだ、あいつらこそいつまでも親離れできない、甘えん坊なクソガキじゃないか……。
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外の世界に出てみてわかったことは、この世界に生きる者たちは良いやつらではなかった。同時に、悪いやつらでもなかった。そんな簡単な表現で理解できるものではなかったのだ。皆個人個人で色んな価値観を持っていて、時には共有したり、時にはぶつかったりするだけだ。その価値観のぶつかり合いを、俺たちは争いと呼ぶし、自分のわからない価値観を悪、と呼ぶんだ。
厄介なことに、外の世界ではいずれかのコミュニティに入ることを強要される。たまらなく不自由なことこの上なかった。せっかく嫌なコミュニティから抜け出せたというのに、いざ出てみたらまたコミュニティだ。気が遠くなりそうだった。勧誘に飽き飽きしてきたので、俺とシルビアの二人だけのコミュニティを作ることにした。まあ、つまりはいつも通り、ということなんだが……。
シルビアも喜んで賛同してくれた。なぜか顔が赤くなっていたが……。
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「さ~てと、守人から神の僕になって、今は神に逆らった不届き者になったわけだ」
「反逆者になったかどうかは、まだ決まったわけじゃないけどね」
「まあ、それもそうだな」
マーリルという世界の敵との戦いを終え、俺たちは足早にサマルカンを発った。近くの森の中を、まるで故郷の森を走り回るかのように自在に駆ける。初めての森でも問題なく走れるあたり、やっぱエルフの性なのだろうか?
ほとぼりが覚めるまで、俺たちは身を隠すことにした。これがあの神様に通用するかは知らないが、何も対策しないよりはましだろう。
「しっかし、あのカルミナとかいう人間、いろいろすごかったなぁ……」
「うん……勇敢だった」
「アリシアって奴もなぁ……なんで世界の敵なのかわかんねえくらい良い奴だったしよぉ。てか命救われたしな……」
「……あの子、可愛かった」
「惚れたか?」
「…………」
「すまん……悪かったから、頬をつねないでくれ」
俺たちはサマルカンで出会った二人の少女、カルミナとアリシアの話題へとうつった。命を狙う敵だったはずなのに、身を挺して俺たちを助けてくれた世界の敵。そして、俺たちとともに戦い、ボロボロになっても強大な化物に立ち向かった人間族。
二人とも、本当にきれいな魂を持っていた。誰かのために動くとき、あいつらの心は人一倍輝いていた。森では、絶対にお目にかかれない存在だ。
なぜ輝いていたか? それは、あいつらが己の確固たる意志を持っていたからだ。困っている人の力になりたい、人の役に立ちたいという強い意志が、あいつらの原動力なんだ。そりゃ強いはずだよ。
「……持ちたいな、俺も」
「何を?」
思わず表に出してしまったらしい。俺の心の吐露を、シルビアは聞き逃さなかった。俺は観念したかのように、シルビアに告げる。
「自分のやりたいこと、確固たる意志ってやつを持ちたいな、って話。その答えを得るために、俺はこうして外の世界に来たんだからな」
「アートマン……」
シルビアは何か言いたげだったが、何も言わずに押し黙る。俺も特に気にすることなく、そのままスルーすることにした。
「さて、次はどこへ行くかねえ? どこ行きたい? シルビア」
「私……海っていうの見てみたい」
「海か……確かに、俺たちエルフには縁のない場所だからなあ。よし、それじゃあこのまま港町に向かって行ってみようぜ!!」
「うん……!」
次の目的地は決まった。今度こそ、俺の求める答えがあるといいんだが……。
いや、他力ではだめだ。自分で見つけなければならない。あるといい、じゃない。なんとしても、見つけるんだ。俺の気ままに生きるために、そしてーー、
母の想いに、応えるために。




