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第二部 6.春が訪れる前に-7

 昼を少し過ぎると気温はぐっと下がり、細かい雪がちらつき始めた。窓から見える景色が全体的に白く濁っている。そんな悪天候にもかかわらず、ユーゴはジェニーを訪ね、小城にやってきた。彼が自宅を出発する頃はまだ暖かく、雪が降りそうな空模様ではなかったそうだ。ユーゴに続き、数人の男たちに抱えられた三つの大きな箱がジェニーのいる部屋の床に置かれると、彼は王に挨拶するようにうやうやしく胸に手をあて、「きみに贈り物だよ」と得意げに笑った。

 ユーゴが持ってきた箱の中からは、毛皮の帽子・襟巻き、防寒用手袋、あでやかな色のドレス用生地が多数、香水、それから、カミーユとほぼ同寸の女の子の人形が次々に取り出された。毛皮の帽子と襟巻きはカミーユの分まである。この倍の様々な贈り物がユーゴの自宅にあるそうだ。宝石類もあるが、今回は持ってこなかった、と彼は言う。王城の正門では入城者への検問を以前より厳しく行っているそうで、荷物の多かったユーゴは少し手間取ったそうだ。

「こんなにたくさん、どうしたの?」

「まあ、話はあとでゆっくりね。とりあえず、熱い、はちみつ割のぶどう酒をくれないか? ここまで歩いてくる間に体がすっかり冷えきった」

 ユーゴがジェニーの頬につけた唇は、たしかに冷たかった。


 王妃が明日の早朝に王城を出る、とジェニーが知らされたのは、ユーゴが杯に口をつけたすぐあとのことだった。

「皆が王城にやって来る前に、西門から出発されるそうです」

 アリエルはジェニーの耳元で囁くと、いつもの微笑みを表情にのせ、何ごともなかったかのように姿勢を正した。ジェニーの席の反対側では、上機嫌なユーゴが召使の女に酒の名をあげさせているところだ。

「――もしかして、彼はそれをもう知ってる?」

 ジェニーがユーゴのことをほのめかすと、

「あの方のことですから、どこかで耳にされているかもしれませんね」

 アリエルはユーゴをちらりとも見なかったが、ジェニーの問いにそう答えた。

 城内に住む複数の女性と関係があるらしいユーゴなら、一般的には知りえない情報も簡単に入手できそうだ。ユーゴの明るい笑顔の裏には、いつも何らかの意図が隠されている。彼は王妃の退去を知っているからこそ、この時期にジェニーに会いにやって来たのだ。

「ジェニー、きみもりんご酒飲む?」

 彼の誘いをジェニーは遠慮した。

「それよりもユーゴ様、この……贈り物? 服なら足りてるし、あなたからこんなに貰う理由がないわ」

 ジェニーが箱やテーブルの上に広げられた品物を指し示すと、ユーゴは召使女に笑いかけた顔をジェニーに返し、肩を小さくすくめた。

「私からじゃないよ。皆がくれるって言うんだから、まあ、貰っておいたら?」

「皆って、誰が私にくれるの?」

「そりゃあ――」

 嬉しそうに笑ったユーゴは、ジェニーが戸惑っているのに気づくと、口を閉じた。それから、彼が隣に立っていた召使女に小声で何か耳打ちする。すると、彼女はジェニーに挨拶をし、そそくさと退室していってしまった。部屋には、ジェニーとユーゴ、アリエルだけが残された。

「うーん、きみは賢いのか鈍いのか……」

 ユーゴは酒の残りをぐいと飲みほすと、ジェニーの横に立つアリエルに目を向けた。

「ねえアリエル、きみは世間に流れてる噂を聞いてるよね?」

 ジェニーがアリエルを見ると、彼女はジェニーに微笑みながら言った。

「申し訳ございません。私は城外にはあまり出ないので、世間の噂には疎いのです」

 ユーゴは落胆したように息をつき、やれやれ、と首を振る。

「アリエル、きみはさ、本当に主人思いだよ。まったく――きみの恋人サンジェルマン様とそっくりだ」

 ジェニーがびっくりしてアリエルに振り返ると、彼女が頬に力を入れ、ユーゴに強い視線を向けた。

「……サンジェルマン様と私とは、何の関係もございません」

「ふうん? じゃあどうして、私を拒んだとき、サンジェルマン様の名を呼んだりしたの?」

「えっ!?」

 ジェニーが驚きの声をあげると、ユーゴはジェニーを一瞥し、厳しい形相となってアリエルを見返した。アリエルも一歩も引くことなく、身分的には彼女より上であるユーゴを見つめ返す。

「そのことと……サンジェルマン様とは、一切関わりがございません」

「なるほどね。きみが一方的に好きってことか」

 ユーゴがからかうように言うと、アリエルの手がドレスの前できつく握り締められた。

「サンジェルマン様は誰もが尊敬なさる、立派なお方でございます」

「ああ、高貴なお方だからね。まあ、それだから、きみはふさわしくないって自ら身を引くのか。なんともくだらない美徳だね」

「ユーゴ様、言いすぎだわ!」

 ジェニーが怒って叫んでも、ユーゴは止めなかった。

「あー、もったいないな。サンジェルマン様が今も独り身なのって、きみのせいだろ? きみさえ態度を軟化すれば、サンジェルマン様はすぐにでも結婚を申し込むよ。そうすればきみの将来は安泰じゃないか、何が問題なの? 私だって、きみがサンジェルマン様の妻となれば、そう簡単には言い寄ることもできないさ」

 アリエルはユーゴをじっと見つめ返していたが、何も言わなかった。身分上反抗できない、と権威に屈したのかもしれないが、サンジェルマンとは関係ない、と最後まで言い切ることだって、彼女にはできたはずだ。

 ユーゴが女に悪態をつく姿はめずらしく、彼はにこりともせず、アリエルを不服そうに見返している。ジェニーはアリエルが冷静さを失っている様子を見て、彼女をユーゴの前から去らせることにした。


 ユーゴはふてくされ、テーブルに頬杖をついて窓の外を眺めていた。窓の内側はくもっていたが、外の樹木や地面を覆う白い雪が、太陽のような眩しさとなって室内を照らしている。ジェニーがユーゴの前のテーブルを指でたたくと、彼は面倒そうにジェニーに振り向いた。

「悪かったよ、言いすぎた」

 口調は投げやりで、ユーゴはいつになく不機嫌だ。陽気な彼しか知らないジェニーは、彼の様子が普段と違うことを不審に感じた。

「今日はどうしたの?」

「何が? どうもしないよ」

 ユーゴはジェニーの顔を見ようともしない。ジェニーは彼の隣の椅子に腰掛けた。

「ねえ、アリエルと何があったの? 私、ユーゴ様は彼女に興味がないんだとずっと思ってたのに」

 ユーゴがジェニーを見て、ゆっくりと微笑みを作った。

「ああ、彼女は好みじゃないよ。地味で華がない。頭も良さそうだし」

「じゃあ、どうして手を出そうとしたの?」

 ジェニーがむっとすると、ユーゴは子どもをあやすようにジェニーの頭を手で撫でて、笑った。

「言い寄っただけで手は出してないよ。真面目そうだったから、ちょっとね、からかってみたかっただけ」

「もう、手当たり次第に――」

「それ、アリエルにも言われたな」

 ユーゴは肩をすくめると、アリエルの出て行った扉に目を向けた。

「恋するって面倒だなあ。独り占めしたくてたまらなくなる。いっそ、手が届かない存在にでもなってもらえれば、あきらめもつくってものだけど」

 ユーゴはそれからジェニーの手を取って、その甲に唇をつけた。数秒間、そこから動こうとしない。そして、彼はやっと唇を離したかと思うと、ジェニーの手の上に長いため息を落とす。

 ジェニーはユーゴの寂しそうな様子に茫然とし、手を彼に預けたまま、その精気が抜けたような表情を見つめた。

「……ユーゴ様、アリエルのことが好きだったの?」

 ユーゴがジェニーを睨むように視線を上げ、そして、呆れたように笑った。

「きみはやっぱり鈍いな」

「ユーゴ様が――嘘でしょう? 本当に?」

 ジェニーが信じられないでいると、ユーゴは苦笑した。

「まあ、自分自身でも途中まで気づかなかったからね」

 ユーゴの視線が再び、扉の方にちらりと動いた。

「でも、ユーゴ様は結婚してるじゃない?」

「きみからそんな言葉が出るとは意外だな」

 ユーゴは傷ついたようにジェニーを見て、口を尖らせた。「王だって既婚者だろ? ……今までは」

 今までは、というユーゴの言葉に、ジェニーは王妃の面影を思い起こして、胸が締めつけられた。王妃が今すぐに処刑されることはないようだが、彼女は国の法に則って離縁され、辺境の地に幽閉されることが決まっている。

 王妃は衝撃的な事件を起こした張本人として、忌み嫌われる悪女となって世間の人々の記憶に残るだろう。そして当然、王の心にもいつまでも残るだろう。憎しみや同情だったとしても、王から関心を向けられるという意味では、王妃の目論見は成功したのだ。彼女がその心境に到達するまでの境遇を思うと、ジェニーはいたたまれなくなる。だが、だからといって、許せることばかりではない。

「“今までは”だよ、ジェニー」

 ジェニーの沈黙を気落ちしていると取ったのか、ユーゴがジェニーを励ますようにジェニーの手の甲をたたいた。

「国も王も、王妃には名誉を傷つけられたけど、その穴埋めにカローニャから塩田をもらったんだし――王は今や独身だ。結果的に王には好都合だったじゃないか。きみにとっても」

 王が王妃の部屋にジェニーを迎えに来たとき、彼は一瞬だけ、同情したように王妃を見た。ただし、王妃はおそらく、彼のそんな表情には気づいていない。ジェニーはそれを思いだし、首を横に振った。

「王はそう考えてないと思うわ」

 なんで、とユーゴは怪訝そうにジェニーを見る。

「王はもう妻に気兼ねしないできみに会えるんだ、きみを自由に本城にも呼べる。嬉しいに決まってるじゃないか。ジェニー、きみは正妃がいなくなって嬉しくないの?」

 嬉しいも何も、ジェニーは今のこの瞬間まで、暗殺未遂事件や王への想いに追われていた。王妃が王城を去ることで自分の日常が変わる可能性を、一切考えていなかった。

「あ、王に……会いにも行けるのね」

「そうだよ」

 初めて入室を許された王の部屋を隅々まで見て、深呼吸した日をジェニーは今もはっきりと覚えている。あの日、彼がジェニーを自室に入れたのは、王妃の目を気にしなくてよくなったからだ。にわかに胸に湧き上がった実感に、ジェニーの頬が火照った。

 ジェニー、とユーゴがジェニーの肩を揺り動かした。

「しっかりしてくれよ、ジェニー。きみには、ベアール家のためにこれから一肌脱いでもらわなきゃいけないんだからさ」

「私がベアール家のために何をするの?」

「ああ、もう! 頼むよ、ジェニー!」

 ユーゴが椅子から立ち上がり、テーブルの上に置かれた生地の一つをさっと取り上げた。

「これが何のためにここにあると思う? きみにこうやって貢ぐ連中は、この先の将来を見越して、きみに取り入ろうとしてるんだよ。これから、こういった贈り物はもっと増えるはずさ。なぜって、きみは、この国の次の王妃になるかもしれないんだから」

 予想もしなかったユーゴの言葉に、ジェニーは彼を唖然として見つめるしかなかった。

「ねえ、まさか、自分なんか王につり合わないって自分を卑下してるんじゃないだろうね? もしそうなら、それこそ、私がさっきアリエルに言った同じ文句をきみにも言ってあげるよ。王がきみを愛してるのは周知の事実じゃないか。王が望めば叶わないものはないよ。それにね、さっき言ってた、世間での噂がきみには追い風になりそうなんだよ」

「噂って、先王妃の呪いのこと?」

「そう。先王妃の呪いのせいで、ヴィレール王は代々、王妃から命を狙われる運命にあるっていう噂。ばかばかしいだろ? でも、それに怯える人たちが言ってるんだ。同盟を結ぶための政略結婚だと、次の王妃はまた王を亡き者にしようとするかもしれない。だから次は、国内の有力貴族から候補をたてるべきで、それが――」

 ユーゴがさっきとはうってかわって興奮したように目を輝かせ、ごくりと喉を鳴らした。

「それが、王を愛し、王が信頼するきみであれば、王は王妃から暗殺される心配はない。しかも、きみは既に王の子をもうけていて、子どもが産める体質だってことも証明されてる。いい? きみは次の王妃の筆頭候補なんだよ……!」


 春先にはベアール家の当主を継ぐというユーゴは、ことさら、その話を推し進めたがっていた。だが、彼の話にジェニーは現実味を感じられない。ジェニーは、王がいずれ再婚する必要に迫られるだろうことは分かっていたが、その相手が自分であるとはどうしても思えなかったのだ。

 ジェニーは、王城に呼ばれた夜、王が寝室で話したことを思い出していた。ヴィレールが軍事強国だとしても、国境線が常に塗り変えられる世の中では、他国と提携していなければ生き残ってはいけない。そのためには、隣接する国のどこかと婚姻による親戚関係を結ぶことが、もっとも手っ取り早いのだ。現王妃がいなくなっても、それは、どこか他国の王女が取って代わるだけのこと。

 王は、義務でする結婚を理解しろとは言わない、とジェニーに言った。王はゴーティスという個人の男ではあるが、ヴィレールという一つの国でもあるのだ。個人としてはジェニーを必要としていても、国が生き延びるために彼が必要とするのは、ジェニーではないだろう。

 王が正妃を持つことに、ジェニーはまだ完全には割り切れていない。だが、王が王であろうとするのなら、彼が別の誰かと結婚することは仕方のないことだ、とジェニーは思っている。そしてそれは、我慢とは厳密には少し違うものだ。

 ジェニーは王の結婚で多少傷ついたとしても、きっと彼を追い、彼を愛さずにはいられない。




 昨日より暖かいせいで、今朝は雪でなく小雨が降っていた。雨粒が窓に当たる音はそれほど大きくないが、眠りの浅かったゴーティスは早々に目覚めた。たぶん、まだ夜明け前だ。カサンドラが人目をはばかって、王城を出発する時間帯。

 寝室を抜けると、隣室ではサンジェルマンがゴーティスを待っていた。ゴーティスは驚いた。

「おまえ、いつからここにおった?」

「数分前です。間に合ってよかった。王、行かれるのでしょう?」

 ゴーティスが否定したところで、サンジェルマンはどうせ彼に同行する気でいるのだ。ゴーティスは無駄な抵抗は止め、そうだ、と答えた。

「では急ぎましょう。先ほど、迎えの者が後宮に向かうのを見かけました」

 サンジェルマンが踵を返し、ゴーティスに向けた背中は、ゴーティスが王位に就く直前に見たものと同じだ。今のゴーティスは彼より背が高く肩幅もあったが、それは当時と変わらず、広くて頼りがいのある男の背中だった。


 夜明けに差し掛かる頃だったが、雨のせいで視界は悪かった。雪が溶けて地面は滑りやすく、西門に伸びる小道には、所々に小さな水たまりができている。空から落ちてくる小粒の雨は冷たく、ゴーティスたちの身に着ける外套がしっとりと濡れていく。

 西門に近づくにつれて衛兵の数は増え、周辺は異様な緊張感に包まれていた。人だかりがあるのに、話し声が何も聞こえない。ゴーティスとサンジェルマンが姿を見せても、彼らは無言で敬礼するだけだった。使用人たちの通用門として使用される西門だが、使用人らしき男女の姿は一人も確認できなかった。

 二人は西門の庇の下で雨を避け、薄暗い空から降ってくる弱い雨を見上げた。夜が明けたのかどうかすら、判断がつかない。

 それから五分も経たないうちに、二人の前に居並ぶ衛兵たちの動きがぴたりと治まった。見ると、彼らが整列した先から、四人の衛兵に四方を囲まれた小さな人間が、門の方に向かってまっすぐ歩いてくる。地面に引きずりそうに長い、黒っぽい外套を頭からすっぽりと被り、終始うつむき加減だ。ゴーティスの立つ位置からは、その顔の目鼻立ちが鮮明には見えないが、それが彼の元妻でなくて他に誰だというのか。

 整列していた衛兵の誰かがゴーティスの存在を四人の衛兵に知らせたらしく、元王妃を連行する一行は、ゴーティスの数歩先で遠慮がちに歩みを止めた。俯いていたカサンドラが、衛兵の一人に危うくぶつかりそうになって、ふと立ち止まる。怪訝そうに目線を上げた彼女が、サンジェルマンの隣に佇むゴーティスに気づいて、怯えたように息をのんだ。

 ゴーティスがカサンドラに最後に会ったのは、一週間前だ。そのときの彼女は、一週間で十歳は老け込んだような印象だった。ゴーティスは、彼女はその後さらにやつれ、疲労の色が濃くなっているだろうと予想していたが、彼女を見て、正直、驚いた。彼女は唇に朱色の紅をさし、頬はふっくらとしていて、むしろ健康的に見えたのだ。

 カサンドラはゴーティスから視線をそらすと、周囲をぐるりと見渡した。何かを探していたようだが、目当てのものは見つからなかったらしい。

「……哀れな女を笑いに来たのですか? 雨の中を、こんなところまで……」

 彼女は力なく笑ったが、ゴーティスもほかの誰も笑わなかった。

「それとも――まさかとは思いますが、罪人の私をお見送りくださるのでしょうか? 私は王を殺そうとしたというのに……。それでも、最後くらい……最後くらいはせめて、妃だった女に情けでもかけようと……?」

 ゴーティスは一歩前へ足を踏み出した。庇に守られていた顔や体に、冷たい雨粒が降りかかった。

「俺は、先王妃が処刑される一部始終を見届けた。見ておって気持ちのよい光景ではないがな、それを最後まで見ることが俺の義務だと思うたからだ。俺がおまえをここで見送るのも、同じ理由だ。

 カサンドラ、おまえの罪状は姦通だ。王妃の姦通は殺人に次ぐ重罪だ。この先――もしおまえが処刑されることとなれば、俺はそれを見届けよう。おまえが入所先で逃亡することがないよう、くだらぬ問題を起こさぬよう、かつて王の妃であったおまえの動向に、俺は常に目を光らせておる。それゆえ、刑期を終えるまで……おまえはせいぜい達者に暮らせ」

 ゴーティスを見つめていたカサンドラが瞠目し、突然、濡れた地面に膝をついた。

「王、私は……!」

 カサンドラは、ゴーティスが彼女のついた嘘を知っていると気づいたに違いない。ゴーティスは濡れた襟を首に引き寄せ、小さな両手で顔を覆って泣き出した元妻を見つめた。

「お許しください、どうか王、お許しくださいませ……! 私は王になんというひどい仕打ちを……王を、王を傷つけるつもりなど、なかったのでございます! 私は、ああ、私はなんと身勝手な……!」

 興奮したカサンドラがゴーティスに伸ばした手は、衛兵によってむげに遮られた。

「申し訳ございません、王! どうか、どうか私をお許しくださいませ……!」

 雨と涙に濡れたカサンドラの顔をゴーティスが見ると、彼女はひときわ高い嗚咽を漏らした。彼女は今になってようやく、自分の犯した愚かな行為に気が付いたのだろう。だが彼女は、自分の行為が結局は自らを苦しめるだけだということに、まだ気がついてはいないだろう。

 サンジェルマンが訝しそうにカサンドラを見て、ゴーティスを見た。だが、勘のよいサンジェルマンでも、彼女が本当は何に対して謝罪しているのか、分かりはしないはずだ。ゴーティスは、ジェニーを彼女の部屋に連れていったとき、立ち去った振りをして部屋に残っていたからこそ、事情に通じることができただけだ。

 雨に濡れた顔を手で拭い、ゴーティスは去っていくカサンドラを見送った。彼女は不憫だが、自分自身の苦しみを自覚していないだけ、まだ幸せだ。

 ゴーティスは、今すぐにでも、ジェニーに会いたかった。


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