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第二部 4.再会−2

 二人の間に生まれつつある新しい感情の溶け合いを、どこまでの人間が正しく把握しているだろう?

 王に取られた手をジェニーが振り切らず、弱々しく握り返したのを見た瞬間、サンジェルマンは、二人の距離がいつのまにか縮まった事実に圧倒された。ジェニーの鋼の心を溶かす、劇的な何かが起きたらしい。

 ジェニーの心情の移り変わりをもっとも痛切に感じている者は、王を抜かせば、おそらくサンジェルマンだ。ラニス公の館で彼女が王の結婚に動揺しているのを見て以来、この展開をどこかで予想してはいたが――実際にそれが目の前で起きてみると、どうにも複雑な気分だ。

 この数週間、王はたびたび昼のテュデル宮を訪ねているという。もちろんジェニーに会うためだ。小城の庭園を歩いたり、馬に乗って周辺を闊歩したりする二人の姿が、衛兵たちに目撃されている。

 彼らは今までにも愛人関係にあったが、愛し合っていたわけではない。少なくとも、ジェニーは王を拒んでいた。ところが今、二人の間に存在していた刺々しい雰囲気が見事に消えている。ジェニーは王と一緒にいても平気そうだ。王の方はというと、若干硬い表情をしてはいるが、決して威圧的ではない。

 庭園を進む王は、一方的にジェニーの手を引っぱって歩いているようにも見えるが、ときどき彼女を見ては歩調をゆるめている。ジェニーが隣に並んで王を見上げると、王は彼女を見返して微かに頬をゆるめ、また前を向いて歩き出す。ジェニーもそれに合わせる。

 二人は積極的に会話を交わしてはいない。だが、静寂は気まずい沈黙にはならず、静穏な時間の到来に、彼らはゆったりと身をゆだねているようだ。


 ジェニーは一度、王を不幸のどん底に突き落としている。

 王の側にいることで、彼女はそれと気づかず、王をさらに不幸にするかもしれなかった。サンジェルマンはそれを恐れた。王の身に危害を及ぼし、王を不幸にするのなら、たとえ王が愛する女だとしても、ジェニーの身などいつでも葬ってやる気でいた。王に妃がいる今、ジェニーが何らかの失態をやらかし、自分の手で彼女を正当に抹殺する機会を、サンジェルマンは心の内でずっと願ってきた。

 しかし、それと平行して、サンジェルマンにはひそかに待っていたものがある。言ってみれば、その希望のためだけに、ジェニーの命に猶予を与えていたようなものだ。

 王は以前、戦地で拾ってきたジェニーに接し、笑い声をあげるまでになった。その彼がジェニーの裏切りに遭い、彼女を失い、意気消沈とする様は、とても見るに堪えなかった。もし行方知れずとなっていた彼女に再会することがあるのなら、彼女の死体か、王に愛を誓う彼女の姿しか、サンジェルマンは受け入れたくなかった。王が永久にジェニーをあきらめざるを得ない状況か、彼女が王の愛に応え、幸福へと導く姿。その二者択一だ。当時、ジェニーが発見される可能性は極めて低く、後者は非現実的だった。

 ところが、奇妙な縁のなせるわざで、王とジェニーが再会した。王は、かつて愛し、自分を裏切った女のように、ジェニーを斬り殺しはしなかった。代わりに、ジェニーを再び彼の元に受け入れた。彼女を許したのだ。

『ジェニーがいれば、王は笑う』

 ジェニーの入城を心待ちにしていた王を見ては、王の笑顔が戻る日は彼女次第なのだと、口惜しいながらも、サンジェルマンは痛烈に感じたものだ。

 今の王は薄く笑っているだけだ。だが、彼女といる王は、幸せそうだ。

 かつてのように、王が大きな笑い声をあげる日も、実は、すぐそこに来ているのかもしれない。


  *  *


 女官長とライアンが王妃付きの衛兵の件で話すのを聞いているうち、サンジェルマンは女官長の口調に不快そうな苛立ちを感じ取って、彼女の話をさえぎった。彼女は興奮してくると、声がより甲高く、大きくなる。彼女は自分の話を中断されて不満そうだったが、サンジェルマンが女官長室の扉の外を確認してから戻ると、心配そうに眉を下げた。

「まさか、誰かいたのですか?」

「いいえ、ご心配なく。念のために確認しただけです」

 女官長よりもライアンに向けてそう言うと、サンジェルマンは二人に話の再開を促した。

 ライアンが、現在の王妃付きの衛兵が王妃に親身になり過ぎるという理由で、衛兵を一度は担当から外したのだが、王妃のたっての希望で、元の配置に戻したのだ。それが、女官長には気に入らないようだ。

「ええ、王妃様はこれまでにわがままをおっしゃったことはございません」

 既に鼻息荒く、女官長が先に口を開く。

「王妃としての威厳に欠けてはおられても、無理難題なことをおっしゃらない、常識ある方だと思っておりましたのに。ですが、唯一のご希望が、気に入りの若い衛兵をお側におくこととは、なんと嘆かわしいことでしょう! ただでさえ、王との不仲が取り沙汰されているのです、これが皆に知られれば、その衛兵との間によからぬ噂もたちましょうに……! どうも王妃様は、ご自分の立場をわきまえておられないようですわね」

「言いすぎだ、女官長殿」

 サンジェルマンが冷静に口をはさむと、彼女は額に血管を浮き上がらせ、言い返した。

「サンジェルマン様、あの王妃様は、王のご世継ぎをお産みいただくために輿入れされたのですよ? 王と結婚されてもう少しで一年になりますわ、普通の夫婦なら、とっくに子どもを授かっていてもおかしくない頃です。ですが、いまだに王妃様がご懐妊されている兆候はございません。

 気に入った者を周りに集めて、仲良く遊んでいる場合ではありませんわ。王妃が世継ぎを産まないで、ほかに何の役目があるというのです? あのジェニーでさえも、一年を待たずにカロリーヌ様を妊娠していたのですよ!」

「王妃様はまだお若い。ご結婚されてまだ一年なのだから、もうしばらく待ってもいいだろう」

「“既に”一年が経とうとしているのですわ、サンジェルマン様!」

 サンジェルマンが肩をすくめると、彼を当てにできないと見限ったのか、女官長はライアンに振り返った。

「ライアン様、何とか理由をつけて、その衛兵の役をすぐに解いて下さいませ。いずれ王妃様がご懐妊された際に――当然、王妃様が石女うまずめでないことが前提ですけれど――子の父親について、くだらぬ疑いをかけたくありませんわ」

 ライアンがむっとしたように眉を震わせた。

「口を慎まれよ、女官長」

 女官長は口をつぐんだが、一向に反省しているようではない。

「女官長の心配は理解するが、仮にも近衛の一隊員が、畏れ多くも王妃様に、そのような行動をとるとお思いか? 少しは、我ら近衛を信用していただきたいものだ。

 彼は王妃様の信任も厚く、カローニャの言葉も解する。彼には、我々の懸念と近衛の本分をよく言い聞かせたつもりだ。我々も今後の彼の動向には十分に注意して、必要とあれば、他の者も同行させる。女官長には不本意だろうが、それでしばらくは様子を見てもらいたい」

 

 女官長室から解放されたサンジェルマンとライアンは、どちらからともなく、長いため息をついた。サンジェルマンがライアンを見て苦笑すると、彼も気まずそうに笑い返した。

「きっと、あの調子で王妃様にも小言を言ってるんでしょうね。王妃様には同情しますよ」

「同感だ。あれでは、王妃様が女官長を苦手とされるのも無理はない」

 階下からやって来る女たちの声が聞こえ、二人の会話はそこで途切れる。

 ライアンが先に立って歩き始め、サンジェルマンは彼を追うようにして階段に足を伸ばした。階段をのぼってきた女たちが途中で立ち止まって二人に挨拶し、彼らが通り過ぎるのを待っている。左側の女に、サンジェルマンは見覚えがあった。ユーゴ・ベアールが懇意にしている女だ。

 彼らのいた西館を抜けると、ライアンは外へ通じる出口を指し示した。兵舎に行くという。

「新しく入った、ベアール家からの上官見習いはなかなか気概があるぞ」

「それは何よりです」

 ジェニーが入城して以降、ベアール家の者が立て続けに二名、近衛隊に入隊している。

 サンジェルマンは、ベアール家が不相応に社会で台頭する可能性を、ライアンに告げていた。ライアンは、それを聞く前に既に何かしら予兆を感じ取っていたらしく、サンジェルマンの心配を否定しなかった。ベアール家の人間には剣技に長けた者が多く、近衛隊にとっても不利益は被りそうもなかったが、ともかく、ライアンは彼らの動向に目を光らせているはずだ。

「ところでベアール家といえば、例の園遊会とやらに、貴公はやはり出席しないのか?」

「ええ。私はああいった社交の場は苦手ですよ。ベアール殿は顔が広いですからね、多くの方々にお会いできそうですね」

「それはそうだろうな。今回は、久しぶりに大規模な会だと彼も興奮していた……」

 “園遊会”と銘打って、ユーゴがベアール家と親交のない人々までを自宅に招くつもりだと明らかになったのは、剣技大会の最終夜だ。名門中の名門とはいえないベアール家だが、ユーゴは剣技大会での英雄であり、王の愛妾となった女を出した家だ。そこが主催するという園遊会には、いやでも皆の注目が集った。その時点ではジェニーの出欠は未定だったが、あとになって彼女の出席が決まると、皆の“園遊会”への関心が一気に高まった。

 ベアールが今の時期に大掛かりな会を設ける理由ははっきりしなかったが、サンジェルマンは、彼の計画の裏にひそむ思惑に警戒していた。そのため、ベアール家の招待を受けたライアンに、ジェニーに同行し、彼女がベアールに都合よく利用されないようにと、監視役を依頼したのだ。当然、ジェニーを嫌う彼はその頼みをむげにはねつけたが、結局は使命感に負け、サンジェルマンの要求をのんだ。

「普段なら交流できない方々も来られましょう。せっかくの機会を楽しんでいらして下さい」

「あの女含めて、ベアール家の者たちが何も問題を起こさねば、私もそうするつもりだ。……断っておくが、女の身を危険から守る気はないぞ。私は護衛ではない」

「彼女の身は同行する侍女が守ります」

 サンジェルマンが笑うと、ライアンは目をすがめたが、ああ、と納得したように呟いた。ジェニーには、数週間前から、侍女に扮装した護衛が付いている。金で雇われた、いわゆる冒険者の一人だ。彼女の正体は限られた立場の人々しか知らない。女官長や王妃には、知らされていない。

 ライアンが踵を返し、通路の先に歩き去っていった。その背中を眺めながら、彼はきっとジェニーのことを思い出して、苦々しく思っているだろう、とサンジェルマンは予想をつける。

 ジェニーの隣にいるライアンの姿は、多分、彼女の存在をひけらかしたい、ベアールの望むところではないだろう。ライアンは、ベアール家の来客たちに無言の圧力を与えるはずだ。ベアールはまさか、ライアンがジェニーと一緒に行動するとは思ってはいまい。

 そして、ライアンはジェニーを守らないと明言しているが、いざという時には、彼は反射的に敵の喉をかき切ってくれる、とサンジェルマンは信じている。彼はジェニーを嫌ってはいるが、王には絶対の忠誠を誓っている。王の意に染まないことを、彼ができるはずもないのだ。つまりは、ジェニーが傷つく事態を、彼は阻止するしかないのだ。




 ジェニーの斜め前に座るライアンは、目を閉じていてもなお、不愉快そうだ。せっかくの整った顔立ちなのに、いつも不機嫌な顔をしているのはとてももったいない、とジェニーは思う。ジェニーが今までの人生に出会った男たちの中でも、ライアンは際立って上品で、女性のように繊細な美しさを持つ。

 ジェニーは自分がライアンに嫌われていると知っている。理由もわかっている。だからこそ、彼がジェニーと同じ馬車に相乗りしている、今の状況が納得できない。彼は昨日、実家に今日の装いを取りに戻ったそうだ。実家からベアール家までは、王城からよりもかなり近いらしい。そこから直接に会場へ向かえば、ジェニーと今ここで顔を突き合わせる必要もなかったのに。

 けれども、彼が不機嫌な訳はジェニー一人にあるのではないようだ。

 ライアンの隣に席を取るコレットが彼に遠慮して沈黙していたのは、馬車に乗り込んだあとの数分間だけだった。元来おしゃべりな彼女は、気に入っているユーゴと会える嬉しさも手伝ってか、朝早くから興奮し、早口でまくしたてている。皆が彼女の話を聞いていようがいまいが、お構いなしだ。ライアンは閉口し、彼女から顔をそむけるようにして、反対側に体を傾けている。

 コレットの際限なく続くおしゃべりのおかげで、車内の気詰まりな空気が解消されている。ジェニーはそれを歓迎したが、ジェニーの新しい侍女はそう取っていないようだ。コレットをときどき迷惑そうに見て、馬車が大きく揺れるたびに入口の扉を気にしたり、ぴったりと閉じられた窓に目をやったりしている。

 ちなみに、彼女は寡黙な女だったが、ライアンには、おしゃべりの量に関係なく、どちらの女もお気に召さないようだ。女三人に囲まれながら、誰に対しても煙たそうな視線を送る彼を見ると、彼が女性を毛嫌いしているという下世話な噂は、信憑性が高いのではないかと思えてくる。


 三ヶ月前にジェニーが王城へと向かった道を、今日は逆方向に辿っている。ずいぶんと王城から離れたようにも思えるが、外の風景が見えないため、王城からどの程度の距離を走ったのかが分からない。外気の匂いさえ遮断され、実はまだ王城内をぐるぐると走り回っている、と教えられても、ジェニーは驚かないだろう。

 ライアンは今も一言もしゃべろうとせず、目をつぶったままだ。彼の髪の色は王によく似ている。そして、同じように無愛想だ。ジェニーは彼を目にすると、いつも王を想う。


 ベアール家で開催される園遊会に、ジェニーは当初行くつもりがなかった。貴族社会の催しに興味はそそられないし、その場に自分はそぐわない。

 ただ、ジェニーは王城の外には出たかった。ジェニーの祖父で、年老いたベアール家の当主にも再会したかった。

 無理を承知でジェニーが話を持ち出すと、案の定、王はむっとした。ジェニーが、祖父に会いたいこと、外に出たいことを説明すると、彼はますます機嫌を悪くした。彼はそのままジェニーに背を向け、足早に先に歩いて行ってしまった。

 ところが、少しして戻ってきた王は、ジェニーの前に立ちはだかって、「必ず戻ってこい」と言ったのだ。ジェニーが何のことかと当惑していると、彼は声を荒げ、「必ず戻れ」と言い放った。

 王が、ジェニーを王城の外へ出す許可をくれるとは思いもしなかった。

 ジェニーは驚き、彼が自分の存在を強く求めていると表してくれたことが、今までになく嬉しかった。

 だが、帰ってくる、とジェニーが返事をしても、王は腕組みを解かなかった。王は、ジェニーが戻りたいという理由にカミーユを挙げ、怒ったようにジェニーを見下ろしていた。

 王がそんな表情になるのは、怒っているのではなく、不安なだけだと気づいたのは数日前のことだ。彼はまさか、ジェニーが今でも、彼から逃げたがっていると思い込んでいるのだろうか? ジェニーは彼のもとを離れたくないし、ほかのどこにも行く気はない。

 日に焼けた王の腕に金色の体毛が光るのを見ていると、大人の体躯で、幼い子どものように不安がっている彼が、たまらなく可愛く思えた。彼への愛しさが、募る。

「私は戻ってくるわ。あなたがいるから、戻ってくる」

 王の、固い腕組みがほどけたのは、そのときだ。

 王はジェニーを穴が開きそうなほど長く見つめた。そのまっすぐな視線にジェニーはたじろぎ、周囲が沈んで消え去るような錯覚にとらわれた。ほんの数秒間が何時間にも感じられた。ジェニーが何とか我に返ると、彼は眉間にまた皺を寄せて、ジェニーを見ていた。

「……早う戻って来い」

 王の唇の隙間から漏れた声は、ジェニーが耳をすましてやっと聞き取れる大きさだった。そのあとに、彼が数秒間だけのぞかせた微笑を、ジェニーは誰にも渡したくない、と今でも思っている。


 馬車が大きく方向転換し、ライアンが目を開けた。

「そろそろ、ベアール家だ」

 数分後、ジェニーたちを乗せた馬車はベアール家本宅に到着した


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