031.ミイナ
ミイナは退職届を提出し、来月一杯で退職することとなった。
このことはすぐには発表せず、状況が落ち着くまで内密にすることになった。忙しいのにまた一人抜けるとなるとほかの職員のモチベーションがひどいことになると予想されたからだ。
昨日は実に振れ幅が大きい日だった。
生まれてきて一番幸せなことがあった。
しかし生まれて初めての恐ろしいこともあった。
リュウイチを失っていたら。ミイナはどうしていただろうか。
結果として二人とも無事だった。
しかしあの一瞬、リュウイチが炎に呑まれた瞬間は。
全部ポイした。
つまり愛。
愛の力で全部ナイナイした。睡眠時間が少なくても平気になっていてよかった。
これまでも愛を重ねてはきたけれど。
これまでで一番熱く長く深い時間だった。
幸福と恐怖を燃料に強く激しく燃え上がった。
もう何も怖くない。
愛最強説。
事件のせいで相殺されていなければ絶対無敵だったかもしれない。
でも。
それでも最強なので。
ミイナは最強があふれていた。
さて内密とは言ったものの、内側から湧き出てくる最強をかみしめるミイナの様子を見た周りの友人や同僚が何も気づかないわけはなかった。
「ミイナちゃん、聞いた?」
「アリス先輩。どれをですか?」
「明日から応援が来るって……なにかいいことあった?」
「ちょっと15年越しの目標が達成できたんですよお」
「ああ、なるほどね。ついにかー。よかったじゃん。おめでとう」
「ありがとうございます。でも今はこういう時期だから、秘密でお願いします」
「あーはいはい。しかしそっかー。ついにねー。ふーん」
リュウイチの同期アリスはミイナが全力でけん制してきた相手である。それは決して徒労ではなかった。アリスがまだ余裕があったことで穏便にことは進み、両者の仲は悪くはない。一部の趣味が似ているところもあって、同僚としても友人としても良好な関係だ。
「自衛軍も来るんだってね。これもリュウイチくんの影響なんでしょ? やめた時は残念だったけど、いいほうに回っているのよね?」
「そうなるといいですよね」
氾濫の件はアリスも知っている。
リュウイチたちが氾濫対策に動いていることも。
ダンジョン協会職員をほとんど見返りなしで育成しているのも、非常時最後の戦力になるため、また壊滅的な状況からも盛り返せる可能性を残すためなど理由はあるが、氾濫対策につながっている。
リュウイチは、実際にはこっそり巻き込んで浸透し気づけば広まっているという状況を作って自身が特別に注目されないようにしつつ、先行者利益を取り逃げしてあとは平穏に暮らそうという計画を立てていたのだが。
氾濫の情報によって方針を変えざるを得なくなり、結果としてまるで身を削って皆に尽くす聖人か何かのように見えなくもない状況になっていた。
アリスは気になっていた同僚が、また気になり始めていた。
しかしミイナがかっさらったことが判明。
こうしてアリスの芽は摘まれたのであった。めでたしめでたし。
と、ミイナは見ていた。
危ないところだった。籍を入れた直後にやる気を出されたらたまらない。
爆発炎上も氾濫も大変なことだが、ミイナにとっては一人の人間のほうが大事だ。
始まりは小学生の頃だった。リュウイチは覚えていないようだが、ミイナはまずまず覚えている。
当時、リュウイチの妹はたまに互いの家に遊びに行く程度の友人だった。
遊びに行くのにわざわざ約束をしない田舎で、時代だった。
ある時ミイナがリュウイチ妹のもとに遊びに行くと、彼女は留守だった。
その時応対してくれたお兄さんこそリュウイチだった。
二つ学年が違うと接点はあまりない。集団登下校もエリアが違ったので別の班だった。存在は知っていたし顔見知りではあったが、まともに話したのはその時が初めてだった。
妹はどっか行って留守であることを告げられ、その日行く当てを失ったミイナに帰ってくるまで待つかと言ってくれた。すぐ帰ってくると思っていたらしい。
結局妹は別の友人の家に出かけており、夕飯前まで帰ってこなかったのだが、待っている間リュウイチがミイナに付き合って遊んでくれたのだった。
というのが実質的なファーストコンタクトで、それからも何度か会うことはあったが、ほとんど接点はないままだった。
なのになぜミイナがリュウイチに執着するのかというと、リュウイチの妹のせいである。
この妹、近年まれにみるお兄ちゃん好き好き大好き妹であったのだ。
そして、妹を待つ間リュウイチが遊んでくれたことを話すと、10倍返しでリュウイチのことを語り始めたのだ。
それからというもの、ミイナはリュウイチのことを聞かされる係になった。
ミイナとしても遊んでもらったのは楽しかったし、お兄ちゃんっていいなあと兄という存在に憧れがあったので話に付き合っていたら、いつの間にかそのようになってしまった。他の友人はたいして知らない兄の話を聞いてもつまらないので聞きたがらなかったのだ。
中学でミイナが女子校に進学し学校が別れても、進学を機に買ってもらった携帯端末を通じてお兄ちゃん話を聞かされた。
思春期に入り異性に興味を持つようになったミイナは、妹のお兄ちゃん好き好きフィルターを通して男性というものを、そしてリュウイチを知った。
中学生になった妹はなぜだかクールキャラを気取るようになっており、ますます近くの友人にお兄ちゃん語りをすることができなくなったことも拍車をかけたのだろう。
妹によってお兄ちゃん情報が詰め込まれていく。
好きな食べ物から、背が小さいのがコンプレックスだったけれど高1で一気に背が伸びた話。困っているといつもぎりぎりで助けてくれること。本棚の奥のエッチな本にパソコンの奥に隠された秘密フォルダの話まで。いいところも悪いところも変なところもエッチなところも。
そしてどんな話にも好意的なバイアスがかかっていた。
妹しか撮影できないような写真が送られてきたりもした。家族に向ける気を許した笑顔やだらしない姿を見せられた。
もしかすれば、リュウイチの同級生などよりもリュウイチについて詳しくなっていただろう。
気が付けばリュウイチ大好きフィルターによる洗脳が致命的なところまで進んでいた。
大学生になるとミイナも同年代の男性とかかわるようになった。何度か告白されたこともあったが結局断った。
その男性の隣にいる自分を想像しても、どうにもしっくりこなかったのだ。
理想と違う、思ってたのと違う、なんか違う。
妹により美化された幻想生物リュウイチによって男性を学んだミイナは、基準がちょっとばかり特定人物に最適化されてしまっていた。
それでも大学4年間をかけて普通の男性と交流し、徐々に世間に適応しつつあったミイナだったのだが……。
就職先で偶然にも遭遇してしまったのだ。
リュウイチ本人に。
リュウイチは大学入学とともに実家を出ており、妹のお兄ちゃんトークも個人情報に多少気を遣うようになっており就職先の情報は入っていなかったし調べてもいなかった。なので本当に偶然だ。
リュウイチはミイナのことを覚えていないようだった。
初対面の挨拶をしたし、ミイナの名前を知っても特に反応はなかった。
しかしミイナはまるで長いこと一緒に暮らしていたかのように知っていた。
一方的に知っているというのはどこか気恥ずかしかったので接触は最低限にしたかったのだが、なんと新人教育の担当がリュウイチになってしまった。
それから一年の間、リュウイチと行動を共にした結果。ミイナの中にリュウイチ妹によって刷り込まれた素敵な男性像が復活した。
そしてそのままの男性が目の前にいた。
ミイナは気づいてしまった。初めてのあの時、恋が芽生えていた。その時は年相応の淡い『好き』だった。しかし10年以上くすぶりながら燃料を追加され続けていたそれは、愛情へと変化していた。
そのように気付いたのだ。
実際当時どうだったのかは関係なかった。そうだったのかもしれないしそうじゃなかったかもしれない。今そうだったと感じている以上過去の事実に意味はない。
それの大元は妹目線の家族愛だったのかもしれない。しかし、ミイナは妹ではなかった。ミイナとして長く積み重ねられたものを自分のものにしていた。
ミイナはこれは逃すわけにはいかないと心に決めた。ある意味で唯一の男性だった。彼を逃せばなんか違う相手しかいなくなる。
ミイナはアプローチをかけた。ライバルをけん制もした。
妙な気恥しさや自分だけ知っているという負い目を感じたこと、あとノリと勢いと流れの結果、おかしな理屈でリュウイチを選んだことになってしまった。
それらもまるっきり嘘というわけではない。料理を始めたのは男性は料理が上手な女性を好むという妹情報がきっかけだが今では立派に趣味になったし、進路志望にお嫁さんと書いて叱られたエピソードも事実。専業主婦になって子どもをかわいがる時間をしっかり持ちたいのも本当。
ただ違うのはそのためにリュウイチを選んだのではなく、先にリュウイチがいて、理屈を後付けしたということ。
つまりその実態は15年の積み重ねで丁寧に下ごしらえされた愛だった。らぶ。
家に通い。休日を共に過ごし。
酔わせて体を重ね。恥ずかしすぎて一度断り死ぬほど後悔して。
親に会わせて。胃袋をつかみ。
そんな努力の果てで。
ついに入籍した。
リュウイチとミイナのこれまでとこれからのために。
ついでにリュウイチの妹にお兄ちゃんはもらったわよふははとドヤ顔するために。
苦境なんてどうにでもしてやろう。
リュウイチとともに居られるのならば。
ミイナの心は最強に燃えていた。
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