三五〇年後・下
「こんにちは。きみの名前……答えられる?」
私に語り掛ける彼女の顔は笑顔でありながら、大きな緊張を孕んでいて。
……名前。私の、名前。
頭の中を探ってみましたが、黒い靄が掛かっていて……引っ張り出すことが出来そうにありません。
「………………わかり、ません」
「――」
そう正直に答えたところ、一瞬にして彼女から表情が抜け落ちてしまい。
……私は、酷い罪を犯してしまったのだと、悟りました。
知らないはずの顔なのに……そうさせてしまうことが、とんでもないことなのだと。
戸惑い何も出来ないでいる内に彼女は自力で戻ってきましたが、顔色が悪いことに変わりはありません。繕う笑顔が、とても痛々しい。
「では、改めて……初めまして。わたしは創造神リオン。きみにはわたしの神子として、手伝いをしてほしくてね」
「……はい、承知しています。――創造神様」
自分の名前も答えられないくせに、自分が彼女の、創造神様の神子であるという自覚はあります。そういう風に、作られたからでしょうか。
「神子としての力は使える?」
「これでナイフでも作ってみて」と木の板を渡されます。
請われるがまま「作成――【木のナイフ】」と呟くと、木の板が光に包まれながら形を変え、私の想像した通りの木のナイフへと変化しました。
自分の持つ力であるというのに、どこか不思議な感覚。そして、見覚えのあるような、光景。
「……力は使える……体の方は問題ない……定着しきっていないパターンとか……?」
創造神様が木のナイフを見つめながら何事かを呟きます。
……初めてにしては問題なく出来た、とホッとしていたのに、不出来だったのでしょうか。とても居心地が悪いです。
「あぁ、ごめんね。このナイフはよく出来ているよ。それで、動けるようならきみにこの拠点を案内したいんだけど、大丈夫かな?」
体に違和感はないので「はい」と答えようとして。
その言葉は……情けない音に、遮られてしまいました。……私の、お腹の音に。
「最初はキッチンからだね」
「……よろしくお願いします……」
……恥ずかしすぎて、穴があったら入りたい。
けれど、目を丸くして笑った彼女は……とても自然に見えました。
「きみ自身でも作れるだろうけど、今日はわたしが作るよ。座って待ってて」
そうして案内されたのは、広く綺麗なキッチンでした。使い込まれたいくつもの調理器具、たくさんの調味料、食料が詰め込まれていると思しき保管庫。併設された食卓の椅子に座らされ、創造神様がキッチンへと入ります。
……創造神であるのに、スキルではなく手で料理を? 畏れ多いと思う前に浮かびあがる疑問。
しかし疑問に思ったのは一瞬。まるで自分の手で作るのが当たり前かのようにとても慣れた動作で、あっという間に出来上がりました。
「……美味しい、です」
「それならよかった」
いただいたサンドイッチとホットミルクはどちらも大変美味で、それ以上に……優しさに満ちた味でした。
だからこそ私は、焦燥感に掻き立てられてしまいます。
……創造神様のこの笑みは、一体誰に向けられているのか、と。
拠点の案内の途中で出会った破壊神様も、その神子様も、同様です。
二人とも悲しそうに目を伏せてから、私を歓迎すると笑顔を見せてくれました。
彼女たちも間違いなく何かを知っているのでしょう。けれども決して私の名前を教えてはくれません。
歯がゆいような。悔しいような。ぐるぐるとした感情が私の中を渦巻きます。
軽作業室、製薬室、魔法実験室、鍛冶場、牧場に農場。そこで働く人々。
ゆっくりと紹介されていきましたが……覚えがあるような、ないような。もやもやは溜まるばかり。
「んー……第二拠点も見てみようか」
「第二、ですか?」
「うん。まぁ正確にはあっちが最初に作った拠点なんだけど、今はこっちで主に暮らしているからね」
この世界には大きく二つの大陸があるとのことで。
一つはここ、アトラス。もう一つは、ここから海を越えた遥か先にあるアステリア。元々、創造神様はアステリアで活動していたのだけれども、途中からアトラスでの活動が増えてもう一つ拠点を作ったのだとか。
海を越えるなんて大変なのでは、などと思ったのは杞憂。創造神様に連れられ、あっという間に移動してしまいました。実感が湧かなさ過ぎて、本当に大陸が違うのかと疑いたくなるほどに。
けれども、建物も、空気も違うので、異なる地へと移動したのは本当なのでしょう。
「どうかした? 転移酔いしちゃった?」
「……いえ、びっくりしただけです」
創造神様に握られた手が気になってもそもそと動かしていたら、体調が悪くなったと勘違いされてしまったようです。
あまり気を遣わせるものではないというのに……気にしていただいてむず痒い気持ちになりました。
同じように第一拠点を紹介されます。丁度こちらにいらっしゃっていた他の神様とも挨拶をしました。
そしてやはり――悲しまれるのです。
……胸が、痛い。心が、苦しい。
私は一体、何者なのでしょうか――?
段々と息苦しくなる私に創造神様は気付いていたのでしょう。困ったように眉尻を下げてから――それもまた私の悩みとして積み上げられ――、もう一つ提案がされます。
「疲れたかな? ちょっと移動するよ」
そうして連れられた先は……深い森の中。
とは言っても方々に無秩序に茂っているわけではなく、きちんと管理されているようです。特にもう一柱の創造神、プロメーティア様の像のあるこの祭壇は美しく整えられ、たくさんの聖花が咲き誇っています。誰であってもすぐにわかるほどの、清浄な地。
「ここは……?」
「アルネス村の祭壇だよ。村はあっちの方向ね。きみの……体のモデルとなったエルフたちの住む村だから、用が出来ることもあるかと思ってね」
なる……ほど?
村と示された方向を見てみれば、そこには森から飛び出るひと際大きな一本の木が。先ほどの拠点にあった世界樹には遠く及びませんが、聖なる気を放っています。
創造神様は、かつてここで何があったのかを語ってくれます。あの立派な様を誇る御神木が枯れかけていたこと。エルフたちと衝突したり、協力したりしながら、元凶である巨木のモンスター、イビルトレントを討伐したことを。
……創造神様の話すそれには、重要なピースが欠けているような気がして。胸元までせり上がっているのに、出てきてくれません。もどかしくてたまりません。清浄な空気を吸っているというのに、わたしのお腹が重くて仕方がありません。
今にも崩れ落ちてしまいそうな私に創造神様は「座ってて」と椅子を取り出し勧めてくれました。抗う気力もなく大人しく座り、深く呼吸をするように努めます。
目がチカチカするのは、体調が悪いからでしょうか、それとも何かが私を訴えているのでしょうか。ずっと頭を覆う靄は晴れず、わだかまったままで。爽やかな風が吹いても、吹き散らされることはなく。
「これ、あげるよ」
声がして、ハッと顔を上げます。
俯いていて、創造神様が何か作業をしていたことに全く気付いていませんでした。
視界に映るのは……聖花で作られた………………ゆび、わ?
ドクンと、私の心臓が、大きく鼓動します。
『お守りみたいなものだと思って――』
そのセリフは、今言われているものなのか、いつか言われたものなのか。
判別が付かないほどに、大きく動揺して――
ザァと、強い風が吹き、思わず目を瞑ってしまいます。
恐る恐る目を開くと、太陽の光がキラキラと降り注いでいることに、今更ながら気付き。
その光に照らされる彼女も――私の目には、輝いているように見えて。
私の頬が、カッと、熱を帯びました。
熱に浮かされるままに震える手を差し出し……手のひらに、指輪が乗せられた刹那。
「――」
靄が、吹き散らされ、思考がクリアになり。
せき止められていた私の熱情が、溢れ出して。
知らず知らずに、涙が零れ。
それと共に、ポツリと。
「……リオン様」
「――っ!?」
創造神――リオン様が、大きく息を呑みました。瞳が、期待と恐れが混じったものへと、変化していきます。
ついで、同じ質問を、私へと。
「………………きみの名前……答えられる……?」
「……はい。私は、フリッカです。リオン様」
あぁ、僅かな間とはいえ、どうして忘れていたのでしょう。
リオン様のことを、忘れられたのでしょう。
こんなにも、こんなにも……愛しているというのに。
泣き顔すらも、愛おしい。
「……お帰り、フリッカ」
「はい。遅くなってしまって申し訳ありません。ただいま戻りました、リオン様」




