三五〇年後・上
晴天の、穏やかなある秋の日。
窓からさやさやと爽やかな風が入ってくる。聖花を植えていることもあって、いい香りだ。
――であっても、この部屋で強まりつつある死の臭いは、誤魔化せない。
わたしは、ベッドに横たわる老女――フリッカを見る。
彼女はもう四百歳近い。エルフの寿命は三百歳と言われているので、かなり長く生きた方だろう。現に同じエルフで彼女の妹であるフィンは七十年くらい前に亡くなっている。フリッカがここまで長生きしたのは、わたしが栄養と衛生に気を遣ってきたおかげだろう。
すっかりと白くなってしまった髪に細い手足。けれども、人間でいえば百歳を超えているのに、六十代と言っても通じそうなくらいには肌が綺麗で、皺の少ない美しい顔をしている。
しかし……彼女の体には、もう、起き上がるどころか、生きるための力が残っていない。神と神子を除き、誰しも寿命はあるので当然だ。
……そう、わたしは、わたしたちは、フリッカを神子にすることが出来なかった。
創造神の神子に成るには因子が必要で、それは生まれつきでなおかつ持っている人は少なく、後から発生することもなく。……そんな状態で性格による選別などしてたら、そりゃ神子の数も少なくなることだろう。
破壊神の神子に成るにも条件が必要で。つまりは、好き勝手に神子を増やすことが出来ない。わたしが神様なんぞになってからも、このシステムを変えることは出来なかった。減らすことは出来るのに、何て面倒なシステムなんだ。
どうしようもないならば、フリッカが死した後の魂を保護して、わたしと同じ神造人間にしてしまおう。
そう考えたのが二百年程前の話だ。職権濫用? この程度のメリットを享受出来ずに神様なんてやっていられない。まぁ、プロメーティアに許可をもらっているので何一つ問題はない。ノクスの件もあったので、駄目なんて言わなかっただろうけど。
もちろんフリッカ本人からも許諾を得ており、長い年月をかけて体を完全に作り上げた。見た目はわたしと最初に会った頃のものを選択した。ウルは不意に大きくなってしまったけど、わたしもセレネも変わってないのだから同じくらいが良いとのことだ。本物そっくりに出来たという自負はある。
魂の揺り籠も用意し、準備は万端だ。
……物理的には万端であっても、心の方はどうしたって付いていかない。
か細く、今にも呼吸が止まってしまいそうなフリッカを、こうして毎日、暇さえあれば――暇がなくても無理矢理作り出して様子を見に来ている。努力の甲斐もあってここ五十年くらいは平和なので、創造神が多少サボっていたところで差し支えは無い。小さなトラブルが発生しても、神子を何人か増やしているので彼ら彼女らが何とかしてくれるだろう。
……一番神子にしたかったヒトは神子に出来なかったのに――もやもやとしたものを抱えていたら、フリッカの瞼がピクリと動き、ゆっくりと開いていった。髪の色は変わってしまっても、瞳の色は変わらない。綺麗なリーフグリーン。
その瞳に過ったものを知ってしまったわたしは……必死に平静になるよう努めて語り掛ける。
「フリッカ、おはよう」
「――……リオン、さま」
魔動ベッドを操作し、上半身を起こした状態にさせ、水差しで水を飲ませてあげる。
「調子はどう?」
「……長い、夢を見ていました」
「うん」
ポツリポツリと、枯れた声で話すフリッカ。せき込むけれど、わたしは話すのを止めない。
……止められない。
フリッカ自身が、死を悟っていたからだ。砂時計の砂が、落ちきろうとしていたからだ。
創造神であってもどうしようもない。何故なら、ゼロからイチを作ることが出来ないのと同様、死に至るのを止められないからだ。こんな時は神様であっても、いや大体のことは出来てしまう神様だからこそ無力感に苛まれる。
今のわたしに出来ることは、手を握って話を聞くことだけ。フリッカの語る、長い夢を。
「……最期だから、白状します」
「……うん、何かな?」
『最期だなんて!』と叫びそうになるのを理性で抑え込む。一番叫びたいのはフリッカだからだ。
「……私は……リオン様が、皆さんが、羨ましくて、羨ましくて」
フリッカの目から、涙が一筋、二筋。動けない代わりに、せめてもの訴えとして。
「……羨ましくて……妬ましくて、いっそ呪いそうにすらなって……っ」
普段のフリッカであれば絶対に言わないような言葉。しかし今の彼女は、理性の箍も緩んでいる。命と一緒に零れ落ちている。
「何故、何故私だけなのでしょう。……いえ、わかっているのです。死後、神造人間として生まれ直せることが約束されているだけでも、恵まれているのだと。わかっては、いるのです……」
『神子にしてあげられなくてごめんね』と言いかけて止める。謝っても困らせるだけだ。
だからわたしは、別の言葉を紡ぐ。
「知っているよ」
「……」
「きみがどう思っていたかなんて、とうに知っているよ」
フリッカが時折わたしたちのことを、悲しそうな目で見ていたことを。悩んでいたことを。
一人だけ老いて、一人だけ置いて、死に向かっているのを、堪えていたことを。
「でももう一つ、知っていることもある」
伊達に三百年以上一緒に過ごしていない。
わたしの、愛するヒト。
「それでもきみは、わたしのことを愛してくれているでしょう?」
「……っ」
「わたしも、きみのことを愛しているよ。今までも、これからも、ずっと」
死んでも。……いや、死ぬことすら許さない。
寿命のない神子となって、わたしと一緒に生きてもらう。
フリッカはわたしたちを呪いそうになったと言うが、むしろわたしの方が彼女を呪っている。
……まぁ、心底嫌だというのなら解放するけれど、その必要がないと断言出来る程度には心を通わせている自信がある。
精一杯の笑顔を作って、フリッカを見つめる。
フリッカは喉を震わせてから……頷き、はっきりと答えてくれた。
「……はい。私も、リオン様を愛しています。そこに、後悔なんて、ありません」
「ありがとう。これからも、後悔はさせないから」
そうしてフリッカは涙を流しながら、柔らかで満足そうな笑みを浮かべながら。
息を引き取った。
目がかすむ。視界が歪む。
それでもこれだけは、行わなければならない。
「フリッカの魂よ、揺り籠の中で、一時の休息を」
ほんの少しだけ、手にした魂の揺り籠が重くなった気がした。
その重さに……わたしは何百年か振りに、声を上げて泣いた。
ウルもセレネも、席を外してくれていて助かった。彼女らも今際の際を見届けたかっただろうに、わたしに譲ってくれたのだ。
ずっと泣いてはいられない。早く、用意しておいた体に魂を埋め込まなければ。そうすれば彼女は蘇るのだから。
そう頭では考えていても、わたしの体は長いこと動かなかった。
動けなかった。
べしょべしょに、見っともないくらいに泣きはらした後、魂の揺り籠から神造人間の肉体へと魂を移す。失敗したという感覚はなかった。
けれども魂の定着に数日掛かる。わたしは後ろ髪を引かれながら、フリッカの肉体の葬式の準備を進めていく。さすがに保存しておくことは無理だ。
ウルもセレネも泣いた。プロメーティアを始めとした神たちも静かに泣いた。友人知人も泣き悲しんだ。彼女を慕うヒトたちは多かったのが、誇らしいような、喪失感でそれどころではないような。
肉体が灰になっても、フリッカの魂はここにあるというのに。わたしの胸にポッカリと穴が開いていた。
わたしは、生前のフリッカと約束していたことがある。
それは……『新しい肉体が記憶を引き継がなかったら、フリッカとして扱わない』ということだ。
記憶の欠落という魂の移動の欠点。こればかりは事前対策も出来ない。やってみるまでわからない。
万が一そうなってしまった場合は別人として、新たな命として扱ってほしい、と。フリッカがそう願った理由は聞かされていない。記憶の有無を個として捉えているのか……自分ではない誰かが愛されることに耐えられなかったのか。有無を言わさぬ強さで念押しされて、わたしは頷くことしか出来なかった。
……まぁ、記憶を取り戻す努力をしないとまでは約束していない。
そんなことを思い出したのは、虫の知らせだったのだろうか。わたしの胸の欠落は、予感の一つだったのだろうか。
ソワソワと目覚めを待ち続けて、待望の目覚めが訪れて。
問いかける。彼女が、誰であるのかを。
「こんにちは。きみの名前……答えられる?」
「………………わかり、ません」
心臓が大きく嫌な音を立てながら跳ね。
目の前が、真っ暗になった。




