空の彼方、地の底
「……そういえば、どこまで上に行けるんだろう?」
ゲームでは天を貫く塔関係なくひたすら上まで飛んでも、千マスより上に行くことは出来なかった。思いっきりぶつかっても痛みのない壁のようなものが存在していた。これは異界だけではなく、通常の空でも同じだった。雲の中で雷に打たれて死ぬようなのは冥界だけだ。上で死ぬ冥界、下で死ぬ異界、どっちが優しいのやら。どっちも厳しいか。
そんな壁は、現実になった今でも存在しているのだろうか? 一度気にしてしまっては、好奇心が湧きあがってきて体がウズウズする。
「――よし。行ってみよう」
千メートル程度であれば、そんなタイムロスにもならない。サッと確認することは可能だ。
……という言い訳を胸に、わたしはスカイウイングを操作して斜め上へと進行方向を変更した。
スカイウイング&ジェットブーツの組み合わせは、大体自転車くらいの速度、時速二十キロほど出せる。つまり三分で千メートルだ。真上でなく斜め上に飛んでいるため、約一・四倍としても五分もかからない。ゲームの時はたった五分であっても、何もない異界では景色も楽しめず、飛ぶ以外に何も出来ない状態では退屈だった。しかし今のわたしは上に進むにつれて緊張感が増しているため、退屈を感じるどころではなかった。
これが一人の時でなければ『何があるかわからないところに不用意に行くな!』とでも怒られたかもしれない。ひょっとしたら『何もないから行っても無駄だ』と神様たちに言われたりするかもしれない。けれど今は一人だ。わたしを止められるヒトは誰もいない。
時計を見る。おそらく、もう少しで千メートルに到達する。高度計は異界では正しい数字を出してくれないからこうやって測るしかない。まぁ外でならブロックを積むことでも計測出来るけど、地の底へと誘う塔の中では使えない手段なので犠牲者が増えた。
念のため飛ぶ速度を緩める。ゲームでは痛くなかったけど、現実では痛いという可能性も捨てきれないからだ。こんなところで頭をかち割って墜落とか、身代わり系アイテムはあるので死にはしなくとも笑い話にもならない。
「そろそろだ……」
わたしは息をごくりと飲み、その瞬間を待った。
……のだが、何もない。「あれ?」と呆気に取られながらもゆっくり先へと進む。千五百、二千、二千五百。
三千を越えたと思われる辺りで、ふにょりと、何かが体を包み。
直後に、バチンと弾け、するりと滑り落ちたような感覚がした。
「――えっ」
壁を抜けた、のだろう。
慌てて下を見る。何も見えない。けれど確かに何かがあった。
上を見る。視界に変化はなく、変わらず星空が広がっている。壁の向こう側は別世界だった、というわけでもなかった。空気だって存在している。……なくなっていたら大変だった。今になって自分の無計画さに少し震えが走る。だが反省はしても後悔はしていない辺り、我ながら酷いという自覚はある。
壁を抜けたことで、わたしの体への変化……それも特にはない。五体満足だし、思考もクリアだ。
遮られることなく上へと進む。この空の彼方には、一体何があるのか。
……その高揚感は、次第に薄れていく。
進むにつれ、脳内アラートが警告を放って来るようになったからだ。
これ以上は進むな、と。
絶対に勝てない強敵が居るとかではなく、単に『生命の保証が出来ない』、そのような感じのもの。
気付けば、息が荒くなっている。
疲れているわけではない。空気が薄くなり、酸素も薄くなっているからだろう。
この先はそれこそ地球に対する宇宙のように、通常の生命の生存圏ではないということか。単に呼吸手段を確保すればよいわけでもなさそうだ。
あの壁は、世界に住む皆を守るための壁だった、というわけだ。下側に備わってない理由はわからないけれど。
何はともあれ、高度限界は三千メートルくらいまで高くなっている、という結果になった。……そういえば、地上での山も高いものは三千メートルくらいあった気がする。どうして思い至らなかったんだわたし。
わたしは再度空を見上げる。手を伸ばしても、星空には届かない。
……いつか、手にしてみたい。
何故だかそんな欲求が胸の中で燻った。
空がどうなっているか、やや消化不良とはいえ一応の確認を終えたわたしは下へと戻る。浮島が大きく見えてきてホッと息を吐いた。うっかり空中で不調になって落下した挙句、下に浮島がなかったらピンチだからね。まぁこれに関しては、浮島から浮島への移動中に常に付いて回る不安だけれども。スカイウイングやジェットブーツなら予備があるから交換出来るけど、体調不良による意識の喪失なんかは――考え出すと一歩も動けなくなってしまうのでやめよう。今のわたしは健康体だ。異界に来てもきっちりと休養、睡眠は確保している。ご飯だって美味しいと感じられる。寂しい思いはあっても、肉体的にも精神的にも問題はない。
大体もとの高度に戻ったところで、今度は下が気になりだした。上は壁があったけど、下に壁はあるのか。ゲーム通りに存在しないとしたら、何故ないのか。何故死んでしまうのか。
異界の最深に、何があるのか。
けれどさすがにこちらは実際には行かない。くっ、何があるのかあらかじめ神様たちに聞いておくべきだった……! わたしのバカ!
せめて出来る限りの観察はしようと、高さはきっちり保ったまま下を見つめる。じっと見つめていると、キラッと何かが光って……なんてことはない。変わらず闇のままだ。
しかしこの闇、見つめていると本当に不安が掻き立てられるな。破壊神ノクスのように純粋で綺麗な闇でもない。黒幕の目のように濁りに濁った闇でもない。あえて挙げるとすれば……無でしかない。何もないがゆえの闇。
いや、闇ですらないナニカ。
そう脳裏を過った瞬間――
ゾクリと、全身を強烈な悪寒が貫いた。
「――ッ!?」
わたしは途轍もない焦燥感に駆られ、進行を中止して最寄りの浮島へと落ちるように降り立つ。慌てすぎて転んだけれど構っていられない。運良くクルーエルラビットもムーニークラブも居らず、攻撃されることもなかった。
そんなことを考える余裕すらなく、うずくまって息を潜める。呼吸を最小限に、操作出来るはずのない心臓の音も抑えるように。そして、神気すらも意識して隠す。一応、異界に旅立つ直前にマナに怯えられないよう隠すことは出来た。ただ気を抜くと漏れているらしいので、異界に来てからも暇つぶしを兼ねて制御練習をしている。
ふと気配を感じて視線を上に向けると、空を飛んでいる数匹のスカイフィッシュが目に入る。そのスカイフィッシュたちが……一匹残らず、突然電池が切れたように動きを止めて落下していった。浮島ではなく、闇へと。
間もなく、グチャリと、聞こえないはずの音がする。それは落下したスカイフィッシュが実は存在していた地の底にぶつかって潰れる音か……ナニカに、潰される音か。
いや、そもそも音なんてしていないのかもしれない。耳鳴りがしそうなほどに辺りは静まり返っているのだから。けれども、そんな気がして、震えて歯の根が合わない。僅かな音を漏らしてもいけないと必死に口を押さえて悲鳴を飲み込む。
そうしてわたしが出来うる限りの気配消しを行い、無音の時を過ごすこと数分。
本能が、脅威は去ったと感じ取り、息を吹き返すように心臓が爆音を鳴らす。血が炎のように全身を駆け巡り、滝のような汗が流れているのに、寒くて全身が震える。
たった数分が、何時間にも感じられるほどの濃密な――恐怖。
アレは一体なんだったのか。わからない。わかろうとする意識すら凍り付かせる。
けれど一つだけ察した。察してしまった。
アレが、下の壁がない理由なのだと。アレに喰われたのだと。
炎の巨人スルトが比較にもならないほどに強大な……星を喰らうモノ――




