手の平サイズの幸せと不幸せ⑧
「陽子。陽子?」
呼び掛ける。返事がない。
「陽子、大丈夫か?」
液晶モニターの前で俯せになっている妻の肩を揺するも、一向に目覚める気配がなく。
まさか。
「……ぅん?」
微かな声。頭が僅かに傾いた。
「あら、あなた。お帰りなさい」
ゆっくり身を起こすなり、妻は暢気に小さな欠伸を一つ。
「陽子、机で仮眠するのは止めてくれ。俺の心臓に悪い」
気絶しているのかと思い、本気で心配した。
「ゴメンねぇ。つい、ウトウトしちゃって」
猫のように大きく伸びをする妻。上げた手に書籍が当たり、ドサドサと資料の山が床の上へ雪崩落ちた。
「ちょっと眠くて、意識を失ってただけよ」
「余計にタチが悪いわ」
溜息を交えながら落ちた本を拾い上げる。どれも付箋だらけ。
表示中の液晶画面は、フォルダーとファイルで隙間なく埋まっていた。
「お前さぁ。翻訳の仕事、無理に増やしているだろ」
「あら、判っちゃった?」
「判るさ。長い付き合いだからな」
繁忙期かなと思っていたのだが。いつまでも途切れないので、おかしいとは薄々気付いていた。
「私フリーだからさ。仕事が全く来ない時とか、たまにあるし」
「俺は金より、体の方が心配だよ」
不安な気持ちは理解出来るが。
「春佳が就職したから、収入的には以前より安定してるだろ」
マンションのローンを考慮しても、充分に余裕はあると思うのだが。
「固定資産税の通知、来ていたでしょ? さっさと払った方が良いかなって」
「そっちかぁ~」
毎年、不思議に思う。駅に近いとはいえ、どうしてこんなにも高いのかと。
「バイト、しようかなぁ」
コンビニなどで求人広告は頻繁に見掛けるけど。
「中学生って、雇って貰えるの?」
「お前もそう思うか」
どこも高校生からの募集ばかり。
年齢申告の時に、十六歳と言えば良かったと事ある毎に思う。
「あなたには、アレがあるじゃない」
アレとは?
質問をする代わりに首を捻って見せた。
「小説よ。毎日書いているでしょ? コンテストとか応募してみたら? 書籍化したらバイト代くらいは貰えるんじゃない?」
妻の無邪気な提案。
精神的な打撃に卒倒しそうになるも、辛うじて踏みとどまった。
「そう……だな。書いている作品、応募してみるよ」
二次審査で落ちたとは、言い出せなかった。
「今日はこのくらいにして、もう寝よう」
「あと少し書いたら」
「寝落ちするような頭じゃダメだろ」
渋る妻を説き伏せ、部屋から追い出した。
「歯、磨いたか?」
「面倒だから明日で良いしょ?」
「子供が真似するから、ちゃんと磨きなさい」
強引に洗面所へ連行。
ブツブツと垂れる文句を背に受けながら、俺は急いで自室へ。
手っ取り早く寝間着へと身支度を終えると、再び洗面所へ。
「あら、あなたもお休み?」
「今夜はね」
タオルで口元を拭く妻の隣に立ち、俺も手早く歯を磨いた。
「そんなに私の事を信用していないの?」
してないよ。
寝る振りして仕事に戻りかねない。
「夫が妻と一緒に寝て、何か問題でも?」
別に何が出来るという訳もでないが。
むしろ何かあったら俺が困惑する。
「じゃぁ、今夜は二人一緒ね♪」
歯ブラシを仕舞い終えるなり、握られる手の平。
「良い子は、おねむの時間ですよぉ~」
寝室に入るなり、何故か同じ布団の中へ。
「ぐっすりと楽しい夢をみましょうねぇ~」
毛布を被るなり妻に抱き締められた。
あれ?
寝かすつもりが、いつの間にか立場が逆転しているような。
「お母さん達、もう寝るの?」
消灯の室内へ差し込む光。
戸の隙間から娘が覗いていた。
「わたしも一緒に寝るぅっ!」
そう宣言するなり、春佳まで強引に布団の中へ。
「お前、一月に成人式を済ませたよなぁ」
「だから何? 由喜ちゃんばかり、お母さんを独り占めするなんて、ズルくない?」
話の論点そこかよ。
「まぁ、まぁ。みんなで仲良く、ねんねしましょうねぇ~♪」
二人の娘に挟まれながら、妻が就寝を告げた。
明るく。
優しく。
幸せそうな声で。




