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始まりの場所

 

 そこに足を向けたのは、ほぼ無意識だったのかもしれない。


 見上げた空は、昨夜とは打って変わり星一つ見えない曇り空。

 まるで自分の心情を表しているかのようだ。


 つかの間の休憩時間。

 シェルリアはセドリックと共有している秘密の小屋へとやって来ていた。


 カサカサと草を踏みつけるシェルリアの足音だけが、静かな空間に響いていく。


 合鍵を鍵穴に差し込んで回せば、カチャリと小さな音がして、小屋のドアがゆっくり開いた。

 中に足を踏み入れたシェルリアは、自然と大きく息を吐き出す。


 やっと一人になれた。

 そんな安堵感がシェルリアの体と心を楽にしてくれる気がした。




 第二王女暗殺未遂事件は、瞬く間に王宮へと広まり、ついには国民にまで知られることとなった。

 たった一日だというのに、この広まりよう。その異常なほどの速さに驚かされる。


 皆の関心は、クリスティーナ様の現在の状況と犯人についてだ。

 当然と言えば当然のことではあるが、それ故に王宮内はピリピリとした緊張が張り巡らされている。警備体制も強化されたようだ。


 シェルリアが王宮を抜け出し、ここにいること事態、見つかれば怪しまれるだろうし、叱責ものだろう。


 では何故そうなるとわかっていても尚、シェルリアは外に出てきたのか。

 それは、王宮内にいては落ち着かないからである。


 現在、シェルリアは皆の注目の的になっている。

 その理由は、セドリックに求愛されている相手だからだ。


 もっと詳しく説明すれば、『暗殺の犯人ではと噂されていて、未だに消息が掴めていないセドリック』の相手である。


 ジロジロと向けてくる目には疑いの色が色濃く映り、直接『知らないのか』と声をかけてくる輩すらいる。

 もっと耐えられないのは、同僚からの励ましや気遣いだ。


 セドリックを疑わず、応援してくれるのは有難い。けれど、ショックのあまり倒れたシェルリアが言うのもアレだが、気を使われれば使われるほど心が重くなっていき、疲れていくのだ。


 そんな視線から逃げてきたわけだが、セドリックとの思い出の場所に来てしまったのは間違いだったかもしれない。



 室内を見渡せば、嫌でも目につく高く積まれた本の山。

 最初の頃はセドリックが暇潰しに読んでいたであろう数冊しか置いてなかったが、気がつけば大量の本で溢れていた。そのどれもがセドリックの用意してくれた薬草の本である。


 シェルリアにとっては夢のような空間だが、今、目にするのはなかなか辛いものだ。



 考えてしまうのはセドリックのことばかり。

 この場所は、シェルリアの中で、一番セドリックと接した場所であり、運命的な再会をした場所でもある。



 シェルリアは小屋の奥にある小さな棚の引き出しを引いた。

 そこに入っていたのは、綺麗に畳まれた黒いマントと仮面。シェルリアは大切なものを扱うようにそっと手を伸ばした。


 この棚はシェルリアが一人で小屋を使っていた時、本を読むことに少し飽きて、他に時間を潰せるものはないかと探していたら発見したものである。

 それ以降、シェルリアは時々、無性に見たくなって、引き出しを開けてしまうのだ。



 ーーあの日、シェルリアが『忘れ屋』を尋ねたのは、本当に偶然だった。


 シェルリアにとって忘れたい出来事が起こり、偶々『忘れ屋』の噂を耳にした。

 それらがタイミングよく合わさって、シェルリアは救いを求めてこの場所に足を運んだのだ。


 結果的には記憶を消すこともなく、苦しみを乗り越えられた訳だが、もしゲイルの裏切りに気づいていなければ、もしくは『忘れ屋』の噂を聞かなければ……。

 いや、それよりも、正常な精神状態だったなら『記憶を消してくれる』なんて噂自体、信じやしなかっただろう。


 とにかく、何か一つでも違ったなら、シェルリアはセドリックと再会しなかっただけでなく、未だに悲しみの底で燻っていたかもしれない。



 そんな悲惨な未来から自分を救い出してくれたセドリックが、今、苦しんでいる。


 なんでもいいから彼のためにしてあげたい、そう思うのは簡単だ。

 しかし、現状は、解決の糸口すらつかめず、それどころかコンラッドからの情報を待つことしかできていない。


 気持ちばかりが焦っている。だから同僚の気遣いすらも上手く流せないのだ。


 今だって、不安からセドリックとの思い出に縋るように小屋まで来てしまったが、本来ならば王女の暗殺未遂が起こったのだから、休憩時間だからといってチェルシーの側から離れない方がよいのである。



「……ほんと、何もかも中途半端だわ」



 自分の弱さに嫌気がさしたシェルリアは肩を落とす。

 せめて侍女としての仕事くらいはしっかりやらねばセドリックに会わせる顔がない。そう思ったシェルリアはパシッと己の両頬を一度叩くと、顔をグッと上げた。



「王宮へ戻ろう」



 己を奮い立たせるための言葉を吐き出し、シェルリアは小屋のドアへと足を向ける。

 お守り代りに黒い仮面をスカートのポケットにしまいこんだ。この事件が解決した時、セドリックに持ち出したことを謝ればいいだろう。


 ポケットの中には、黒い仮面と栞が一枚。

 お守りが二つに増えただけだけど、少し勇気が沸いてきた。


 来た時よりも軽い足取りで小屋を出る。

 空の暗さもあまり気にならなくなってきた。



 早く戻ろうと歩く速度を上げようとしたその時、シェルリアの耳が微かな足音を拾う。


 シェルリアは反射的に近くの木の影に身を潜めた。

 明らかに騎士の足音とは違う。小さくて軽い足音は、次第にシェルリアの方へと近づいてきた。


 こんな人気のないところに誰が? とシェルリアは疑問と共に体を強ばらせる。

 犯人という可能性だって捨てきれない。もしそうだとしたら、見つかれば大変なことになる。


 気温は全く暑くないというのに、体の至るところから汗が吹き出してきた。


 コツ……コツ……と音はどんどん近くなり、シェルリアと木を挟んだ反対側まで来たようだった。


 シェルリアは全く生きた心地がしなかった。

 ただひたすらに息を潜め、謎の人物が去っていくのを願う。



 けれど、シェルリアの願いは虚しくも叶わなかった。

 その人物はシェルリアの隠れる木の側で足を止めたのである。



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