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伸ばした手の先

 

 胸に秘めた想いは、言葉にしなくては伝わらない。

 そんなこと誰だってわかっているはずだ。

 悟ってほしいなんて単なる甘えだということも、心の片隅では理解している。


 だからって、簡単に口に出せるかと言われたら、はい、と即答できるはずもなく、それなりの準備は必要なわけで……。



「……時間が足りない」



 シェルリアは苦悶な表情で天を仰いだ。


 うっすら雲がかかった空には星が一つ二つ見える程度。寒さは感じられるが、風がないので耐えられぬほどではない。

 小屋のドアの前に座り込み、シェルリアは大判のストールで身体を覆った。令嬢として幾分かはしたない行動ではあるが、多目に見てほしい。


 セドリックから合鍵を渡されているのだから、勝手に入ればいいのだけれど、小屋の中に入ると落ち着かないのだ。


 シェルリアは昼間の出来事を思い出す。セドリックが廊下でシェルリアに囁いた言葉。


『今夜、小屋で待ってます』


 今までだって、セドリックと会うのは秘密の小屋だった。昼間も使用していたせいか、通いなれた場所ですらある。

 夜に会うことだってあったし、二人きりという状況も何度もあった。

 身構える必要なんてないはずで、セドリックを警戒しているわけでもない。


 でも、状況は同じようで全然違う。

 セドリックへの気持ちをはっきりと自覚し、応えたいと思って初めて会うのである。決意を固めて半日も経っていない。シェルリアがそわそわしてしまうのも無理はなかった。



 昼間、ミリアやレイヤに『どうやって伝えたらいいんだろう』とシェルリアが弱音を吐いた時、二人は満面の笑みで『なに怖じ気付いてるの、ありのまま伝えればいいでしょう』と言ってきた。


 レイヤなんて相手の答えがわかってるのだから心配なんていらない、とまで言ってのけたほどだ。レイヤの肝の据わりようには、シェルリアも心から感心してしまった。

 けれど、二人の言葉はもっともで、セドリックの誠意に答えるには、シェルリアも誠意を返すのが筋。ここは頑張らなければと気合いを入れたーーはずだったのだが。


 いざその時間が近づいてくると、緊張がシェルリアを襲ってきた。

 視線は常に辺りへ向けられ、何度も身だしなみを整えている。言葉一つ発していないのに、口の中はカラカラだ。


 早く解放されたい。そんな気もしているのに、まだ来ないで、とも思う。

 シェルリアは大きく息を吐き出すと、抱えた膝に顔を埋めた。



 その状態のまま、どれくらいの時間が過ぎたか……シェルリアはすっかり冷えきってしまった身体を震わせ、その場に立ち上がった。


 現在の時刻はわからないが、体感的にはもうすぐ日付が変わる頃ではないか。

 小屋に入り待った方がよさそうだ、とシェルリアは考えて、ふっと違う考えを思い付く。


 この時間まで来ないとなると何か急用ができて来られなくなったのではなかろうか。

 小屋のことを知っているのはシェルリアとセドリックのみ。言付けできる相手もいないだろうし、セドリックの仕事柄、急患などの緊急性の高いものも十分ありえる。


 セドリックがそのまま小屋に来ないということはないだろう。彼の性格的に、遅れてでも来てくれそうである。

 だけど、ずっと待たせていたということにセドリックが罪悪感を抱いてしまったら……。


 シェルリアの悩みは、待つべきか待たぬべきか、に変わってしまった。

 どうでもよい相手ならば悩むこともなかったかもしれない。でも、意識しないわけがない。


 小屋の前に広がる芝生の上に足を下ろす。強い風が吹き抜け周囲の木々が枝を揺らし、シェルリアは靡き散る髪を手で押さえた。



「……もう少しだけ」



 待っていよう、とシェルリアは思う。

 優しいセドリックのことだ。どちらにしろ待たせたことに申し訳なさを抱くだろう。その時、すぐに『大丈夫だ』と伝えたい。この寒い中、来てくれるはずの彼を笑顔で迎えたい。


 シェルリアは踵を返し、小屋のドアノブに手を伸ばした。鍵穴に合鍵を差し込んで回す。

 どんな顔でセドリックは来るだろうか。悲しい顔より笑ってくれてたらいいなぁ。そんなことを考えていたシェルリアの耳に微かな音が届く。


 ハッと視線を上げて辺りを見回したシェルリアは、自然と顔をほころばせた。



「ーーっ! シェルリア!!」



 乱れた髪に上気した頬。手に抱えた象徴的な白いローブは、セドリックのスピードについてこれず大きくはためいている。

 全力でかけてくるセドリックの姿に否応なく胸が高鳴った。なによりもシェルリアを見つけた瞬間、明るさを増したセドリックの表情。


 喜んでくれている。そう思えるだけで愛しさが込み上げてきた。



「セドリック様!」



 シェルリアの身体は意識せずともセドリックに駆け寄っていく。

 靡くストールはそのままシェルリアと共にセドリックの胸へと吸い込まれていった。薬草の香りが鼻をくすぐり、シェルリアの心に安堵が広がる。


 一方、セドリックはシェルリアを一度ぎゅっと抱き締め、眉尻を下げた。



「こんなに冷たく……すまない、遅くなってしまった。急に呼ばれてしまって」

「急患……こちらに来て大丈夫なのですか?」



 シェルリアの問いにセドリックは「ああ」と力なく頷き返す。



「眠れないからと睡眠を促す薬を所望されてね」



 それは特別王宮薬師が対応するような案件ではない気がしたシェルリアは、内心、首をかしげた。けれど、その疑問を口に出すようなことはしない。



「そうでしたか。遅くまでお疲れ様です」



 その代わり、労いの言葉を口にした。セドリックはふっと口許を緩める。



「シェルリアにそう言ってもらえるだけで、疲れが吹っ飛ぶよ。本当はもっと話していたいんだけど、さすがに遅くなりすぎたから……」

「私は大丈夫ですよ?」

「えっ、ほんと? あ、いや、でもなぁ。ちょっと俺、今、舞い上がってるから……やっぱり駄目だ」



 セドリックの摩訶不思議な発言に、シェルリアきょとんとした顔で彼を見た。



「舞い上がってるからとは……それは私も同じですよ。セドリック様に会えて、舞い上がってます」

「えっ」



 今度こそセドリックは動きを止めた。

 腕の中で照れたように笑うシェルリアは、本当にわかっているのだろうか。いや、わかっていないだろう。

 セドリックは思わず天を仰ぐ。



「あー、うん。シェルリア。そういうことは、この状況で言うべきじゃないと思う」

「この状況? ーーっ!!」



 ハッと驚いた表情を見せたシェルリアの顔がみるみる赤く染まっていく。抱き締めている状況をようやくはっきり理解したらしい。

 だが、セドリックが言いたい肝心なことは、シェルリアに伝わっていないようだ。

 照れてはいるが嫌がっている様子もなく、警戒もしていない彼女の姿に、セドリックは喜んでいいのか複雑である。



「俺はシェルリアが好きだって伝えたよな」

「へっ! あ、は、はい」



 腕の中で恥ずかしげにうつむくシェルリア……うん、可愛い、とセドリックは噛み締める。



「昼間、敢えて皆の前で宣言したのはシェルリアを手放したくない下心故だ。取られたくないし、逃がしたくもない。そんなふうに想ってる子を抱き締めて、その上、自分に会いたかったと言われたら……期待する」



 シェルリアが己の服をきゅっと握りしめるのを感じながら、セドリックは心の中で溜め息を吐く。


 これでも待とうとしていた。シェルリアの選択を。

 向けられる好意を感じながら、それでも口にしてこない彼女の心を追い込まないように、男として構えていようと思っていた。断られたら、それは仕方がないことで、彼女の気持ちを尊重しようと決めていた。


 けれど、いざ目の前にしてしまうと、焦りにも似た感情が溢れてきてどうしようもなくなる。頭で考え口にした言葉と反射的な行動が噛み合わない。

 そして、シェルリアを困らせるのだ。


 セドリックは回していた手を背から離し、シェルリアの両肩に置くと、ぐいっと距離をあける。

 やはり今はこれ以上一緒にいたら止められない、そう思った。



「ごめん。違う。答えを迫ってるわけじゃない。これは俺の一方的な感情だからーー」



 それはもはやセドリック自身に言い聞かせているようなもので、納得しろと説得しているようでもある言葉だ。


 記憶が消えれば消えるほど、日記の中で生きているシェルリアは色鮮やかにセドリックの頭で踊りだす。

 忘れるな忘れるな、と過去の自分が日記を読むはずの未来の自分へ書き記す内容は、細かくて、感情的で、呪いのようにドロドロとしている気がした。


 だからだろうか。己のシェルリアに対する執着心は異様なほど強い、とセドリックは他人事のように思っている。

 そんな自分からシェルリアを逃がしてあげられるチャンスは今しかないのだ。




「シェルリアは自分の答えを導いてくれて構わない。無理はさせたくないんだ」

「む、り?」



 セドリックの言葉にシェルリアの肩がピクリと反応した。そして、勢いよく顔を上げたシェルリアの赤い瞳がセドリックをまっすぐ捉える。



「無理なんてしてない。私、本当に会えて嬉しかったんです。待ってたんです、ずっと。それこそ九年前から貴方と話すことを楽しみにしていたんです。やっと話せて、いろんな話ができて楽しかった」



 溢れる感情は涙となってシェルリアの頬を濡らしていく。

 伝わらないのではという不安と、知ってほしいという願いが入り交じって、シェルリアは必死だった。



「私は貴方に笑っていてほしい。その手助けを私ができるのだとしたら、これほど幸せなことはないの。ねぇ、一人になろうとしないで。私をもう置いていかないで」



 伸ばした手がセドリックの頬を包み込んでいく。

 ぐずぐずと悩んでいたことが馬鹿らしいくらいに、シェルリアの頭の中は空っぽだった。


 何を躊躇していたのだろう。何に怯えていたのだろう。触れられるほどの距離にいて、感じていたはずなのだ。彼の葛藤、そして愛情を。

 手から伝わってくる温かさがシェルリアは愛おしくて、言わずにはいられなかった。



「貴方が好きよ」



 声に出した瞬間、シェルリアは身体が軽くなった気がした。


 引き寄せたのはどちらが先か。

 離れていた距離はあっという間になくなった。先ほどまでは寒かったはずなのに、顔も身体も熱くて堪らない。


 セドリックはシェルリアの肩に顔を埋める。



「どうしよう。明日なんか来なきゃいいのに」



 震えた声だった。シェルリアはぐっと口を固く結ぶ。



「……明日、今夜のことを教えてあげます。だから、今の気持ちを教えてください」

「…………嬉しい。幸せ。離れたくない。なんか泣きそう……あと、敬語は嫌だ」

「ふふふっーーわかった」



 シェルリアにつられてセドリックも笑いを溢す。

 暫く笑いあった後、セドリックはポツリと言葉を発した。



「シェルリア、お願いがあるんだ」



 シェルリアは埋めていた顔をあげる。



「なぁに?」

「できるだけ会いたい。こうやって夜でもいいし、昼でもいい。時間も少しだっていい。少しでもシェルリアの記憶を残したいんだ」



 シェルリアはもちろんだと頷いた。

 ホッとした様子のセドリックを見て、胸が締め付けられる。


 覚えておきたい。そう思ってもらえる喜びと、何とかして記憶が消えない方法を見つけてあげたいという想いがシェルリアの中に膨らんでくる。

 シェルリアが出来事を教えてあげるだけではセドリックの心を埋めることはできない。そんなことセドリックを見ていれば簡単に気づけることだ。


 シェルリアにできることはあまりにも少ない。だからって諦めたくはない。

 自分にできることは薬草について調べることくらいだし、実家の古い書庫を漁ってみるか、と考えて、シェルリアは大事なことを思い出した。



「そ、そういえば……私、二日後から休みをもらって里帰りするの。だから一週間会えなくなっちゃう」



 話して早々これだ。一週間もあいたらセドリックを不安にさせてしまう。

 シェルリアは申し訳なくて表情を曇らせる。


 しかし、セドリックは安心させるようにそっとシェルリアの頭を撫でると、くしゃりと笑い返してきた。



「大丈夫。知ってたよ。コンラッドに腹が立つほど自慢されたから。あんなこと言った手前、信用できないかもしれないけど、俺のことは気にせずお義母様に会いに行ってきて」

「ありがとう。お母様にセドリック様のこと報告してくるね」

「うん……ありがとう、本当に」



 少しだけセドリックの笑顔が曇ったように感じたけれど、シェルリアは見て見ぬふりをする。そんな簡単に人の心に整理がつくとは思っていないからだ。

 徐々にでもいいからセドリックの気持ちが穏やかになればいい。



「そう言えば、兄から自慢されたって……何を言われたの?」

「うーん……名前から『様』を取ってくれたら教える」

「えっ、いや、それは……善処します」



 どちらからともなくクスクスと笑い声が漏れて、次第に大きくなっていく。

 小屋に入ることも忘れ、寒さも感じず、二人は夢中で相手の声や姿を求めていた。


 ただ、身体は正直なものでこの夜の密会はシェルリアのくしゃみと共に幕を下ろす。


『また明日』


 そう約束して二人は名残惜しげに解散した。

 それでもシェルリアに不安はなかった。突然セドリックが消えてしまった九年前とは違う。明日になればセドリックに会える。それが嬉しすぎてなかなか寝付けなかった。






 けれど、現実はそう簡単なものではないらしい。

 次の日、シェルリアに突きつけられたのは、『第二王女暗殺未遂事件』と『セドリックの失踪』だった。

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