言葉の意味
これは夢か、幻想か。
白いローブを翻し、去っていくセドリックをシェルリアは呆然と見送る。
シェルリアの横を通り抜ける際、遠慮なく不躾な視線を送ってくる薬師たちなんか気にもとめられないくらいだ。
今も脳裏に残っているのは、キラキラと窓から差す日差しを反射する金色の髪に、柔らかい眼差し、微かに感じる息遣い、そして、指先に残る温もり。
ドキドキして当然と言わんばかりに心臓は速度をあげていき、シェルリアから思考能力を削っていった。
どうしてセドリックはこのような行動をとったのか。要因はなんだ、とシェルリアは動きの鈍い頭で必死に考えた。
だが、思い当たる理由は一つだけーー昨夜の温室での出来事である。
確かにセドリックからの好意をシェルリアは受け止めた。好きだと返事をしたわけではないが、シェルリアが好意的に受け止めたことをセドリックも感じ取ったのだろう。
それはいい……いや、いいのか? シェルリアは自問自答する。
周りの反応を思い出せ。あの驚いた王宮薬師やミリアの反応を。
あれは突然の口説いてる宣言に驚いたものか?
それよりも、相手がこんな女なのかという驚きではないか?
自分にとっては表情がコロコロ変わるセドリックが当たり前になりつつあるので、仮面のような笑みがセドリックの周囲にいる人達にとっての普通であることをシェルリアは忘れていた。
だからこそ、見たことのないセドリックの姿に皆が驚いている、という結論にたどり着くはずもなく……。
頭を抱え、唸り声を漏らしながらセドリックの行動について考えていたシェルリアを現実に引き戻したのは、黙って見守っていたミリアである。
「さぁ、シェルリア。一先ず戻るわよ」
「あ、うん……っ!」
顔を上げたシェルリアはハッと息を止めた。
廊下の端々から向けられる視線の数がえげつない。しかも、ほとんどが見定めるような冷たいものばかりだ。
「気にしたら負けよ。貴族社会なんてこんなもの。シェルリアは胸を張って堂々としていればいいの」
シェルリアの動揺を感じ取ったのだろうミリアの言葉が、シェルリアの背中を押す。
ミリアも王太子の側近を婚約者に持つ身だ。このような状況には慣れているのだろう。
ごくりと息を飲みこんで、なんとか足を踏み出し、チェルシーの部屋を目指す。この時ばかりは一人じゃなくてよかったとシェルリアは心の底から思った。
そして、チェルシーの部屋の扉を開けた時、シェルリアは思わず感心する。
シェルリアとミリアを出迎えたのは、ニコニコと笑顔を向けてくるチェルシーを筆頭に、同僚達のウズウズとした顔。
噂が王宮内に広がる速さは人の歩行速度を越えたらしい。
「御使いご苦労様です、ミリア、シェルリア」
「只今戻りました」
今回の御使いも例に漏れず、王宮図書館への本の返却だったのだが、とんだ手土産付きとなってしまった。
「それで! シェルリアには聞きたいことが山ほどあるんだけどっ」
チェルシーの横に控えていたはずのレイヤが代表者と言わんばかりにグイグイと近づいてくる。チェルシーやライラが止めに入らないということは、それなりにチェルシー達も関心があるということだろう。
正直、シェルリア本人すら状況を把握していないのだ。どこまで話していいのかすらわからない。
「……と言われても……」
「じゃあまず、セドリック様と知り合いってことは認める?」
レイヤの目がいつになく輝いている。その勢いにシェルリアが苦笑いを浮かべてしまっても仕方がない。
「そ、そうね」
出会いなどを言えるはずもないので肯定だけ返しておく。
ここで否定したらチェルシーに嘘をつくことになりかねないし、廊下でのやりとりが広まっているのなら隠せるはずもない。
「セドリック様に口説かれているんですって? 凄いわぁ、シェルリア!」
「く、口説くだなんて……私は子爵の娘で、特別王宮薬師のセドリック様と釣り合う訳がないし」
思わず口からこぼれ落ちたのは、シェルリア自身が一番引っ掛かっていたことだった。
好きだからといってなりふり構わず行動すれば、大切な人を傷つけてしまうかもしれない。
たくさんのものを与えてくれたセドリックにだけは、迷惑をかけたくない。
そう思っているのに、セドリックが自分を見てくれていることがわかるだけで嬉しくて、期待していることに気づく。それがまた、シェルリアを自己嫌悪に陥らせた。
次第に曇っていくシェルリアの表情に、同僚達も心配そうな顔を向ける。
そんな中、レイヤがそっとシェルリアの腕に触れた。
「ごめん、勝手に盛り上がっちゃって……でもね、私達、嬉しかったの。シェルリアがまた恋してるんじゃないかって」
「……え?」
力なく目線を上げたシェルリアにレイヤは困ったように笑いかけた。
「シェルリアは気づいてないかもしれないけれど、あの出来事の後、塞ぎこんでいたシェルリアが、最近少しずつ笑うようになったの。もちろんずっと笑顔は浮かべていたよ。でも、シェルリアの温かい笑顔を知っている私達にはわかってしまって…………だから、このシェルリアにまた会えたことが嬉しいの」
シェルリアは心がふるりと震えた気がした。
自分の気持ちは隠し通せる。セドリックを陰ながらでも支えていけばいい。愛が報われなくたっていい。
そう考えていたけれど、それは理想であって、思い上がりだったのかもしれない。
もうシェルリアは気持ちを隠せていないのだ。少なくとも、共に働いてきた仲間に筒抜けなくらいには。
「ねぇ、シェルリア」
コツコツと穏やかな靴音が部屋に響く。すっとレイヤが身を引けば、美しい銀髪を靡かせてチェルシーが目の前にやって来た。
「もし、貴女が身分差を気にかけているのなら、気にすることなんてないのです。伯爵と子爵の婚姻なんてよくあることですもの」
チェルシーの言う通り、伯爵家に子爵家の者が嫁ぐ、反対も然り。そのようなことはよくあることだ。
けれど、セドリックは特別王宮薬師。例外と言えるだろう。シェルリアの考えを読み取ったのかチェルシーは平然と、当たり前のように言ってのけた。
「特別王宮薬師なんて、ただの役職に過ぎません。特別王宮薬師だから完璧な淑女としか結婚できないなんてことはありませんし、シェルリアを否定する理由にもならない。そんなのただの嫉妬でしょう?」
そこまで言い切ってしまうのはチェルシーらしいな、とシェルリアは思う。
「それに、政治的な面で言ってしまえば、セドリックとシェルリアが結婚することは好都合なんですのよ? 役職とはいえ、特別王宮薬師は宰相やら大臣のようにある程度の力を有するもの。性質上、あまりに権力のある家と結びついてしまえば派閥が歪みかねないという問題もあります。だから、王族はもちろん、伯爵家以上であれば、力関係に注視せざるおえない。けれど、モンスティ子爵家ならば、貴族社会のバランスを大きく崩さないだけではなく、薬草の豊富な領地との結び付きの強化でランベル伯爵家にも利がある。両領地が反映すれば、薬学の国とされる我が国はより他国にアピールできますしーー」
話が壮大すぎてシェルリアは気が遠くなりかける。さすがは王族と言うべきか。チェルシーは先の先まで考えているようだ。
少しだけ素直に喜べないのは何故か。それもチェルシーが教えてくれた。
「まぁ、このようなことは後付けでいくらでも考えられますわ。大切なのは、セドリックが貴女をそんな理由で選んだわけではないということ。彼が皆の前で『求婚』ではなく『口説く』という言葉を選んだ理由をしっかりと考えなさい」
「……口説く」
求婚ならば、もちろん結婚が前提であり、貴族社会では家同士の繋がりなど、何らかの利害関係があるという考えに結びつけやすい。
けれど、口説くとはある種の感情論で、まだ自分の思い通りの答えをもらえていないということでもある。
でも、セドリックは好きとは言わなかったけれど、シェルリアの気持ちに気づいているはずだ。
好きと言わなかった……つまり、セドリックの好意にはっきりとした答えを返せないと気づかれていた?
シェルリアはハッとチェルシーを見た。
あの時廊下でセドリックが『口説く』という言葉を選んだのが、周囲にセドリックが一方的に好意を向けていると思わせるためだったとしたら。
セドリックならば、シェルリアがそのまま身を引けば無理矢理言い寄ってくることはしないだろう。ある意味、これは断るチャンスをくれたとも言える。
けれどーー
「勘違い……してもいいんでしょうか?」
震えるシェルリアの言葉にチェルシーは優しい笑みを返した。背後ではライラも口許を緩め、二人の会話を見守っている。
「いいと思いますわ。彼は白黒はっきりさせたみたいですから」
『彼女に手を出せば黙っていない』
その言葉を、『答えてくれるなら君を守ってみせる』と勘違いしてもいいのだろうか。
「…………わたし……彼が、セドリック様が、好きです」
ポロポロと言葉と共に流れた涙を、チェルシーの差し出したハンカチがそっと吸いとっていく。
こんなにもセドリックの愛を感じて、優しさに触れて、シェルリアは胸が張り裂けそうだった。
返しきれないその温もりを、できることなら返していきたい。
それが素直になることなのだとしたら、いつまでたっても返しきれそうにない、とシェルリアは思った。




