好きだからこそ
胸に飛び込んできたシェルリアを反射的に抱き止めたセドリックは、すぐさま我に返り、両手を広げた状態のまま戸惑っていた。
ぎゅっとしがみついてくるシェルリアを引き剥がすべきだと、頭では理解している。けれど、伝わってくる微かな震えにセドリックは強く出られなかった。
それどころか、胸がじんわりと熱を帯び、指先に痺れるような感覚が襲ってくる。
自らシェルリアを遠ざけておきながら、こんな状況でも、シェルリアを側で感じられることに喜んでいる。このまま肩を抱けば、シェルリアをもっと感じられる、そんな考えが頭を過り、情けなくすらあった。
「私と会わなければ、と思いますか?」
もごもごと少し震えた声がセドリックの耳に届く。
その瞬間、セドリックは考える間もなく、首を横にふった。
セドリックにとってシェルリアは、目指すべき薬師の姿を教えてくれた恩人であり、心を癒してくれる大切な女性だ。シェルリアに会わなければ、今のセドリックはいないと言っても過言ではない。
シェルリアは九年前の出来事の真相に近づいている。例えセドリックが否定したとしても、もう全てを鵜呑みにはしてくれないだろう。
傷つけたくないから黙っていたのに、いや、己のした酷い仕打ちを知られたくなかった。知ったシェルリアの反応を見ることが怖かっただけかもしれない。
それでも、セドリックが近づきすぎれば、真実にたどり着き、シェルリアを苦しめることは明白だったのだ。
セドリックは完全に身を引くタイミングを間違えた。それ以前に、深く接触したことが間違いだった。
だけどーー
「思うはずがない」
こんなことを思うべきではないのかもしれないが、シェルリアと会う時間はセドリックにとって本当に幸せな瞬間だったのだから。
シェルリアがごそごそとセドリックの胸の中で身動きをする。チラリとセドリックが様子を伺えば、埋めていた顔を上げたシェルリアと目があった。
そして、シェルリアは花がほころぶように明るく無邪気な笑みを浮かべる。そのくしゃりとした笑顔を目の当たりにして、セドリックははっと息をのんだ。
「私も、九年前も今も、セドリック様に会えてよかったと思ってます」
「っ!?」
「もし、セドリック様が九年前のことで苦しんでいるのなら、もうご自分を責めないでください」
セドリックは言葉を失い、シェルリアを見下ろすことしかできない。そんなセドリックの反応を気に止める様子もなく、シェルリアは話し続けた。
「それどころか、この件でセドリック様を追い詰めてしまい申し訳なく思っているくらいでーー」
「ちょ、ちょっと待ってくれ。シェルリアさんが謝る必要なんてないだろう。頼まれたとはいえ、俺はシェルリアさんの意見も聞かず、記憶を消したんだ」
反射的に言葉を返したセドリックは、シェルリアの肩をつかみ、距離を開けると、屈むようにしてシェルリアと目線を合わせた。
「謝るべきは俺で、君じゃない」
「やっぱり頼まれてましたか」
「あ! いや、違っ……すまない」
セドリックは自分の失言に頭を抱えたくなった。救いようのない大馬鹿者である。
肩を落とすセドリックを見たシェルリアは、困ったような笑みを浮かべた。
「セドリック様は謝らなくていいんです。きっと、私が母の病について知ってしまったのではないですか? それで、自分のせいだと嘆いていた」
「それは……」
「ふふふーー、セドリック様は嘘がつけませんね」
もはや隠し通すのは無理だった。セドリックも諦めたのか観念したようにその場に座り込む。
「……退院の日、シェルリアさんと俺は夫人の病が発覚する場所に居合わせてしまった。君は泣きじゃくっていたよ。俺には治してあげる力もなくて、それでもどうにかしてあげたくて、夫人の頼みを聞いてしまった。俺は今も、それが正解だったのかわからない。でも……とんでもないものを奪ってしまったと思った」
俯いたセドリックは、金色に輝く美しい髪をぐしゃりと握りしめた。
「記憶は宝だ。それがどんなに悲しいものでも、その人だけのもので、一度無くしてしまえば、二度と手には入らない。そんな大切なものを俺は奪った。もう会えないと思ったよ。だから、せめてシェルリアさんが望んでいた、一人でも多くの人を助けられるような立派な薬師になろうと決めた。なのに、また会ってしまった……俺は君を傷つける存在なのに」
「……セドリック様」
シェルリアは髪を固く握るセドリックの手を解すように優しく触れた。びくりとセドリックの手が震える。
「セドリック様。私の記憶を消してくださってありがとうございます」
「なっ!」
勢いよく顔を上げたセドリックは、唖然としたままシェルリアを見上げていた。
「幼い私は、きっと現実を受け入れられず、お母様が亡くなるまで自分を責め、嘆いていたでしょう。でも、セドリック様のおかげで、最後までお母様と普通の親子でいられました。なかなか会えませんでしたけど、ドア越しや窓越しにたくさんお話しをしました。たくさん甘えられました。そんな最後を送れたのは、やはりセドリック様のおかげなんです」
いつの間にか、セドリックの頬をすーっと一筋の涙が伝う。
「私のためにセドリック様やお母様、お父様が苦しみを抱えてくれた。そのことに、感謝こそしますが、怒ったりなどしません。今の私がいるのは、セドリック様がいてくれたからです。だからもう、ご自分を責めないでください。前に、セドリック様が私に言ったじゃないですか。『受け手が許したいのだからそれでいい』って」
「……ここでその言葉を使うのか」
もうセドリックにはシェルリアがはっきりと見えなくなっていた。霞んだ先で、シェルリアが小さく笑い声を上げる。
そっと涙を拭くように頬に触れたシェルリアの手が心地よく、セドリックは目を閉じた。
「また、私と会ってくれますか?」
ふるりと心が震えるのをセドリックは感じた。
温かい声に導かれ、こぼれ出たのは、セドリックの望みであり、本心。
「……君が会うことを望んでくれるなら」
「はい! もちろん、喜んで!」
想像以上に明るく食い気味な返事が返ってきたので、セドリックは思わずパチリと目を開ける。視界いっぱいに映るのは、シェルリアの眩しい微笑みだった。
シェルリアは本当に凄い、とセドリックは思う。どんなときでもどん底から救いだしてくれるのはシェルリアの笑顔と温かい言葉だ。
「ありがとう、シェルリアさん」
やっとセドリックに笑みが戻る。それが嬉しくて、シェルリアはずっと笑っていた。
「……今日のことはちゃんと日記に書き留めておかなくちゃな」
ぼそりと呟いたセドリックの言葉をシェルリアはしっかり聞き取った。
そう、肝心なセドリックの呪いは何も解決していない。そのことに気がついたシェルリアは、座り込んだままのセドリックに合わせ、向かい合うようにしてしゃがみこむ。淑女としてはあるまじき行為だが、少しでもセドリックの近くにいたかった。
「やっぱり消えちゃうんですか?」
「……ああ。もしかしたら、明日には消えているかもしれない」
「明日っ!?」
想像していたよりも早かったので、シェルリアは声を裏がえし叫んだ。
セドリックは申し訳なさそうに眉尻を下げる。
「すまない……消える記憶は、俺が大切だと思った思い出から消えていくんだ」
「えっ!?」
シェルリアは口元を手で覆い隠し、驚きの声を上げる。
「セドリック様……つかぬことをお伺いしますが、私との記憶はどれくらい覚えていらっしゃいますか?」
シェルリアの声は明らかに震えていた。
セドリックは当然の反応だと思う。どこに自分のことを忘れられて喜ぶ人間がいるのだろうか。
「……とても言いにくいんだが、九年前のことも再会した後のこともほとんど覚えていない。人の記憶を消した日の出来事は覚えていられるから、初めて一緒に仕事をした『忘れ屋』の時のことは覚えている。だが、他は……本当に申し訳ない」
深々と頭を下げたセドリックは、チラリとシェルリアの様子を盗み見る。これでまた嫌われてしまったら、とセドリックは内心焦っていた。
しかし、シェルリアの反応はセドリックの予想の斜め上をいくものだった。
「嬉しい……嬉しいです、とても。そういうことなら、たくさん私のことを忘れてください!」
顔を隠していた手が外れ、ふわりと柔らかな笑みのシェルリアが姿を見せる。
セドリックは間抜けにも口をポカンと開けたまま、シェルリアを見返した。
今日はシェルリアに驚かされてばかりだが、今日一番に驚いた。満面の笑みで言うには不釣り合いすぎる台詞である。
そしてなによりも、好意を寄せる女性から言われるには残酷すぎる言葉だ。
セドリックは立ち直れなさそうなほど打ちのめされた。だが、そこは貴族社会で生き抜いてきた男。シェルリアの真意はどうであろうと、情けない姿を彼女にこれ以上見せるわけにはいかないという意地があった。
「俺はシェルリアさんのこと、もう忘れたくないよ」
今伝えなくて、いつ伝える!
セドリックは玉砕覚悟で言葉を続けようとした。
けれど、シェルリアはハッと何かに気づいた様子を見せ、勢いよく頭を下げる。
「申し訳ありません! 私、セドリック様のお気持ちも考えず失礼なことを……記憶がなくなるのは嫌ですよね」
「あ、や、うん……まぁ、そうなんだけどーー」
「でも、勝手を承知で言わせていただければ、本当に嬉しかったんです。だって、私との思い出が大切だと思ってもらえてるんですもの」
言いながらも、シェルリアの頬がみるみる赤く染まっていく。少なくとも、セドリックに嫌われてはいないようだ、という考えに至り、シェルリアは内心安堵していたのだ。
セドリックとの再会時、シェルリアは確かに告白を受けた。あれが、現在までセドリックと関わり合う大きなキッカケと言ってもいいだろう。
だが、記憶がないということは、心情も少なからず変わっていて、あの告白に意味があるのかシェルリアには判断できなかった。
恋心を自覚してまだ数時間。本当は不安でいっぱいだったのだ。
だけど、セドリックはシェルリアとの思い出を大切だと教えてくれた。それがとても嬉しくて、照れくさい。
上気した頬に、チラチラと様子を伺う潤んだ赤い瞳。ちょこんとしゃがみこんだ姿さえ、セドリックには愛らしく映る。
あぁ、もう無理だ、とセドリックは心の中で白旗を振った。
「ふぇあっ」
シェルリアの口から漏れた小さな悲鳴がセドリックの耳を掠めていく。
セドリックが恥ずかしげに顔を下げていくシェルリアの腕を引いたのは、本能に近かった。
崩れるように胸に飛び込んできたシェルリアを、躊躇うことなくセドリックはぎゅっと強く抱き締める。
「……敵わないな」
微かに笑いの籠ったかすれ声がシェルリアの耳に落ちてくる。けれど、シェルリアはそれどころじゃなかった。
過去を悔やみ、己を責め続けるセドリックをなんとか解放したい。避けないでほしい。その気持ちでシェルリアは屋敷に突撃訪問したはずだった。
思わぬ情報に胸が高鳴ったのも決して嘘ではない。抱きついたのだって、向き合おうとしないセドリックの意識をシェルリアに向けたかったからだ。
確固たる目的があったから、シェルリアは何とかなったのである。
しかし、セドリックからの返しは予想していなかった。というより、冷静に受け止める心の余裕がなかった。
心臓はドクンドクンと大きく波打ち、セドリックに伝わっているに違いない。顔だって熱くてたまらない。言葉が何一つ見つからない。
シェルリアは恥ずかしさを誤魔化すように、ぎゅっと固く目をつぶった。
「俺は、シェルリアさんの声も、笑い顔も泣き顔も、怒り顔だって忘れたくない。嗅ぎ慣れた薬草の匂いが甘く感じることも、胸が苦しくなったことも、星がより綺麗に思えたことも……特別に思える全てを覚えていたい。でも、きっと無理だ。だって俺は、シェルリアさんが愛おしくて堪らないから」
シェルリアは息を止め、セドリックの服を握りしめる。
緊張なのか、喜びなのか、手の震えが止まらなかった。
「シェルリアさんは記憶が消えることを望んでくれる。それは今まで俺にとって残酷な現実だったけれど、とても素晴らしいことに思えてきたよ」
恐る恐る顔を上げたシェルリアの目に映ったのは、眩しいほどに甘く美しいセドリックの微笑みだった。
非現実のようにも思える光景に、シェルリアはゆっくり息を吐き出し向き合う。
「好きだ。君との思い出を何度忘れようとも、この想いだけは絶対に忘れない」
シェルリアの瞳いっぱいに涙が溢れてくる。胸が悲鳴を上げるほどに苦しくて、上手く息ができなかった。
「ほ、ほんと、うに……私で、い、んでしょうか?」
声が震え、上手く言葉にならない。それでもセドリックはちゃんとりかいしてくれたようだ。
冷たい唇がシェルリアの目尻にそっと落とされる。
「九年も君を想い続けた。そして、また君に恋をした。もし、全てを忘れることになっても、俺は君にまた恋をする。その自信を持たせてくれるのは、シェルリアさん、いや、シェルリア。君だけだよ」
シェルリアの涙は限界を越え、頬を流れ落ちていく。
凄く嬉しかった。叫びたいくらい、凄く。でも、シェルリアの心の奥では、本当に自分でいいのかという思いが消えなかった。
セドリックは特別王宮薬師だ。子爵の娘とは地位が違いすぎる。気持ちに答えることで、セドリックの足を引っ張らないだろうか。家族には迷惑をかけないだろうか。
ぐるぐるとシェルリアの中で不安が渦巻く。
だけど、目の前で微笑んでいるセドリックを見ていると、そんな気持ちよりも先に、彼のために何かしてあげたいという想いが前に出てきて仕方がないのだ。
これはとても勝手なことで、セドリックは望んでいないかもしれない。でも、セドリックが少しでも自分を必要としてくれるのなら、好きと言ってくれるなら。自分のできることで応えたいと素直に思った。
「セドリック様」
「ん?」
聞き返すセドリックの眼差しはとても柔らかく温かい。だからだろうか、シェルリアは少しだけ落ち着ちつきを取り戻した。
シェルリアは意を決して大きく息を吸い込む。
「もし……もしセドリック様が忘れたとしても、私がしっかり覚えています。セドリック様の分まで覚えています。思い出を教えて上げます。だから、セドリック様が感じたことを、たくさん教えてください」
シェルリアは『好き』という気持ちを言葉にすることができなかった。いや、しなかった。
貴族社会で生きてきた身である。嫌というほど知った、見てきた。自分の決断がたくさんの人に影響を与えるということを。
シェルリアはセドリックが好きだ。その気持ちに偽りはない。
だからこそ、彼のためになることをしたかった。
前の恋とは違う。流されるのではなく、自分の意思を持った上で考え、決めたことだった。
シェルリアの感情だけの思い出は、シェルリアの記憶でしかない。記憶は宝、正にそうだとシェルリアは思う。
他人の思い出話を聞いたところで実感ができないように、自分の気持ちが織り混ざっているから記憶は特別さを増し、自分のものとなるのだ。
少しでもセドリックの苦しみを減らしたいならば、シェルリアがセドリックの目となり鼻となり、頭とならなくては意味がない。今、シェルリアにできることは、これだと思った。
真剣な眼差しを向けるシェルリアの頭をセドリックはそっと撫でる。
「嬉しいよ。これで俺は、安心して忘れ続けられるから」
もう一度引き寄せたシェルリアの肩に顔を埋めたセドリック。その頭をシェルリアは遠慮がちに撫で返した。
自分達を囲む薬草が、色鮮やかに咲き乱れている。くすみのないその色が、とても眩しかった。
人の感情は複雑だ。
幸せなのに、苦しくて。輝かしい未来が、時々怖い。
好きという気持ちは同じでも、選ぶ道はそれぞれ違う。
そう、選ぶ道は皆違うのだ。




