あなたのそばに
真っ黒に染まった空に、点々と瞬く星達。
その下では、不規則に置かれた幾つかの小さな灯りに照らされて、薄紫や黄、桃、白と色とりどりの草花がぼんやりと姿を見せる。
秋も終わりに近づき、紅葉した木葉くらいしか彩りのない季節に、眩しいくらいの色彩は、別世界にいるような錯覚を起こさせる。
そんな景色の中にポツンと立っている人がいた。
鮮やかな中に馴染めていない黒いシャツとパンツが、妙に目立つ。
取り残されてしまったように寂しげな立ち姿は、まるで花畑に降り立った翼をなくした悪魔のよう。
だけど、知っている。彼が悪魔とは似ても似つかぬ清い心の持ち主であることを。
「こんばんは」
見慣れぬ黒を纏った彼は、突然降りかかってきた声に反応し、勢いよく振り返る。
そして、星よりも美しい金色の瞳を、これでもかと言うほど見開いた。
「……なぜ?」
それは何に対しての疑問なのか。
最後に見た時よりも顔色が悪く、表情も暗い。彼の整った顔立ちが、このままどこかに消えてしまいそうな儚さをより強くさせていた。
「ここまで案内してくださったロビン様の仰っていた通り。とても立派な温室ですね。ガラス越しに星空が見れるなんて、とても贅沢な気持ちになります」
王都にあるとは思えないほど広い庭の奥に、ポツンと建っている天井も壁も全てガラスでできた六角形の温室。中はびっしりと草花で埋めつくされ、程よい温かさで保たれている。
あえて問には答えず、素晴らしい温室の感想を口にして、チラリと様子を伺ってみる。
怒っただろうか。それとも、呆れている?
「どうしてシェルリアさんがここにいるんだ」
いや、苦しめているのだろう、とシェルリアは思った。
俯いた顔に金色の髪がさらりと落ちて、表情が全くわからない。
「ここにあるのは観賞用にも見えますが、全て薬草ですか? 初めて見るものばかりです」
見映えよりも成長を優先して植えられているように見受けられる植物を観察しながら、シェルリアは一歩ずつ足を進めた。
「答えてくれ、シェルリアさん」
若干震えたその声も無視をして、シェルリアは少しずつ温室の奥へと進み入る。
「もしかして、品種改良中のものですか? あっ! あちらの花は痛みを麻痺させる花に似ていーー」
「シェルリアさん!」
自分の名を呼ぶ悲痛な叫びに、シェルリアは初めて足を止めた。
いや、呼ばれなくても足を止めただろう。もう彼との距離は一メートル程しかない。
「帰ってくれ。もう側にはいられないと言ったはずだ」
怯えているようだ、とシェルリアは感じた。
覚悟はしてきたはずなのに、反応を目の前にすると、きゅっと喉の奥が閉まる。それでも、シェルリアが俯くことはなかった。
「私は納得していません」
「なっ!」
絶句する彼との距離をシェルリアは躊躇することなく縮めた。
咄嗟に彼が距離を開けようと後ろへ足を踏み出そうとする。だが、その足は地面に縫い付けられたまま動かなかった。
「私が会いたかったのです。セドリック様に……」
セドリックはごくりと息をのむ。大きくて美しい赤い瞳に、セドリックは呼吸も忘れ、捕らわれた。
真っ直ぐ向けられたその眼差しからどうしても逃げられない。
「私、お兄様から退院の日のことを聞きました……もちろん、お母様のことも」
「っ!?」
昼間、里帰りの荷物を預けるために向かったモンスティ家で、コンラッドから聞かされたことは、シェルリアにとって衝撃的なことだった。
そろそろ薬草の取引など、領地での仕事を本格的に引き継ごうと、領地に関する様々な資料に目を通していたコンラッド。その際、九年前に領地を苦しめた流行り病の資料の中に、隔離病院の資料を見つけたそうだ。
当時、子供に感染するからと学院から領地に戻ることを許されていなかったコンラッドは、どんな状況だったのかを把握するため目を通していた。
その時、あることに気がついたのだ。
シェルリアのカルテに記載されていた隔離終了の日付と、シェルリアが退院した日付が一日ズレていると。
シェルリア大好き、シスコンのコンラッド。記憶力も高い彼が、シェルリアに関することを忘れるはずがない。
その小さなズレがどうしても気になり、昔からいる使用人や当時、病院で働いていた者に話を聞くと、退院日にシェルリアが突然倒れ、一日病院で様子を見たのだと言う。
そんな話をコンラッドは両親から全く聞かされていなかった。妹大好きのコンラッドが混乱しないためとも考えられたが、シェルリア本人からも教えられなかったのはおかしい、とコンラッドは思った。
何故ならば、その頃のシェルリアは幼く、素直で、兄が大好きな子だったからだ。おしゃべりな年頃のシェルリアが一切触れないのも不思議である。
現に、コンラッドからその話を聞かされたシェルリアは、自分が倒れたことを全く覚えていなかった。
そして、決定的だったのは、コンラッドが母のカルテを見つけたことだった。
そこには、シェルリアや子供達と同じ病の名前が記されていたのである。
そのあとは、コンラッドに聞かされるまでもなく、シェルリアも容易に想像できた。
母は子供にしか感染しないはずの流行り病にかかり、そのせいで命を落としたのだ。死に際まで面会できなかったのも、再び感染しないため。
コンラッドは口にしなかったが、病にかかった原因は、患者、特にシェルリアとの接触が長かったためだろう。
コンラッドは父に詳しく問いたださなかったと言う。
それには、シェルリアも賛成だった。
母を亡くした後も、父は再婚することもなく、シェルリア達を育ててくれた。
シェルリアは父が涙する姿を見たことがない。とても愛し合っていた夫婦だったが、シェルリアを責めてきたこともなく、いっぱいの愛情を注いでくれた。
一人で家族や領民を守ってくれた父に感謝こそすれ、どうして教えてくれなかったのかと問いただしたり、悲しい出来事を掘り返す必要をシェルリアは感じなかった。コンラッドもそうだろう。
では何故、一度も姿を見たことのない『小さな薬師様』の正体にコンラッドが気づいたのか。
それこそ、コンラッドだからこそ気づいたことだった。
「お父様は、よくお兄様に聞いてきたそうです。『セドリック様はお元気そうか』と」
「……え?」
セドリックは唖然とした表情のまま固まった。
それもそのはずで、セドリックが特別王宮薬師としてモンスティ領の薬草を買う際、取引相手を勤めていたのはコンラッドなのだ。それ以前は、父とランベル伯爵家としての取引しかしていなかった。つまり、直接セドリックが父と関わったことがあるとすれば、九年前の流行り病の時しかないはずである。
「最初、お兄様は若手の薬師に興味があるのかと思っていたそうですが、その気にかけ方が、実の子であるお兄様以上だったようで、気になったそうです」
不貞腐れ顔のコンラッドを思い出し、苦笑いを溢したシェルリアとは対照的に、セドリックは悲痛な表情を浮かべる。
その顔を見て、シェルリアの中の予想が確信に変わった。
「私は退院した日、小さな薬師様、いえ、セドリック様に会った記憶がありません。でも、本当は会いに来てくれたのではありませんか?」
「……どうして、そう思う?」
「セドリック様が優しいからです」
セドリックは理由になっていないと不服そうな顔をする。けれど、シェルリアにとっては、それだけで十分な理由になった。
「父は当時、流行り病の対応で領地を駆け回っていました。あまり病院へも足を運べておらず、その代わりとして母が患者を気にかけていました。セドリック様と接触する回数は少なかったと思います。それなのに、接点の少ないセドリック様を九年経った今も気にかけている。何かあったのでは考えるのが普通です。だから思ったのですーー」
シェルリアは一瞬、言葉にするのを躊躇った。
コンラッドは父の様子を不思議に思っても、答えにたどり着くことはできないだろう。これは、セドリックの秘密を知っているシェルリアだから、たどり着けたのだ。
けれど、わかったからといって気軽に口にしてよい内容か……セドリックがその秘密で苦しんでいることもシェルリアは知っているのだ。言葉にすることで、セドリックは傷つくかもしれない。それが真実であっても、なくてもだ。
だが、もうシェルリアはセドリックから逃げたくないし、逃げられたくもない。
身勝手だと言われたらそれまでだけれど、このまま問題を有耶無耶にするのはシェルリアだけではなく、セドリックのためにもならないと思った。
シェルリアは小さく息を吐く。そして、しっかりとセドリックと向き合った。
「私の記憶を消しましたか?」
セドリックの顔が泣いているように見えた。両手が強く握られ震えている。もうそれが答えだった。
息がしにくいくらいに、シェルリアの胸がきゅーっと締め付けられる。
「私の両親が頼んだんですよね?」
セドリックは答えない。
本当に優しい。いや、優しすぎる人だとシェルリアは思った。
セドリックは『忘れ屋』の時、依頼人以外の記憶は消さないと話していた。それはつまり、勝手に他人の記憶をいじらないということ。
セドリックはずっと後悔していたのかもしれない。
セドリックは決して自分のために人の記憶を消さない。もしかしたら自分の記憶が失われていくことを止められる方法かもしれないのに、頼まれた人の記憶にしか手を出さない。それどころか、必要ないと判断すれば、説得し、止めさえするのだ。
そんなセドリックが自らシェルリアの記憶を消すはずがない。そして、シェルリアのことを考え、親に頼まれたと教えるはずもない。
シェルリアはコンラッドから話を聞き、そこまで想像して、居てもたってもいられず、セドリックの住むランベル伯爵家の屋敷までやって来たのである。
出迎えてくれたロビンという執事見習いの男性は、シェルリアの姿を見るなり、温室まで案内してくれた。
初対面だと思うのだが、シェルリアが来たことを怪しむこともなく、簡単に敷地内へと案内されるので、シェルリアが驚き戸惑ったくらいだ。
でも、そのおかげでシェルリアはセドリックの側まで来ることができた。セドリックの抱えているものの一部を垣間見ることができた。
だからこそ、シェルリアはしなければない。
シェルリアは勢いよく一歩を踏み出すと、そのままセドリックを抱き締めるように飛び付いた。




