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消えぬ記憶(後)

 シェルリアを追いかけてたどり着いたのは、使われていない用具置き場だった。

 狭い室内でシェルリアは呆然と立っていた。そこに、つい先程まであった明るさはない。


 セドリックはゆっくりとシェルリアに近づいていく。それに合わせて、シェルリアは一歩ずつ距離をあけようとした。



「シェルリア」



 セドリックは意識して落ちついた声で呼び掛ける。びくりとシェルリアの肩が跳ねた。



「……私のせい? 私の看病をしたせいでお母様は病気になったの?」



 か細く震えた声だった。セドリックは大きく首を横にふる。



「違う! 違うよ。シェルリアのお母様は、たくさんの患者の見舞いをしてた」

「でも、私といた時間が一番長かった……」

「違う。違う」



 セドリックはなんと声をかければいいかわからなかった。根拠のない否定の言葉しか言えない自分が情けない。



 力なくその場にシェルリアが崩れる。美しい赤い瞳から大粒の涙が止めどなく流れ、白いワンピースに染みをつくっていった。

 セドリックは駆け寄ると、シェルリアを抱き締める。そばにいることが伝わるように強く、強く抱き止めた。セドリックの肩が涙で濡れる。



「どうして私はなにもできないの? どうして助ける力がないの?」



 シェルリアから吐き出された言葉にセドリックは喉が締め付けられた。言葉がでない。



「助けて……お母様をたすけて……」



 それは決してセドリックに対して言った言葉ではないだろう。

 セドリックの父か医者か、はたまた神に願ったか。きっと誰でもいい。母親を助けてくれるのならば、誰でも良かったに違いない。


 けれど、セドリックはその言葉に頭を思いきり殴られるような感覚を味わっていた。

 助けたくて、助ける力はあるのに、今の自分では無理だという現実。こんなにも大切な人が懇願しているのに、抱き締めることしかできない。それは当たり前のことなのかもしれない。それでも、シェルリアのために何かできないか。してやりたい。そんな感情がセドリックの心を追い詰めていく。




 パタパタと遠くから足音が聞こえてくる。それは、次第に大きくなり、近くで止まった。

 二人はゆっくりと入り口へ顔を向ける。そこには、感染を防ぐためのマスクをしたシェルリアの母がいた。深く被った帽子との隙間から見える目は、隈がひどい。



「お母様っ!」

「そこでお聞きなさい」



 駆け寄ろうとしたシェルリアを手で制した母親は、言葉に反応し動きを止めたシェルリアに優しい眼差しを向けた。



「ごめんなさい、シェルリア。聞かせるつもりはなかったのだけど、忙しいお父様と一緒にお話しを聞ける時間がなかなか取れなくてね」

「お母様……私……」



 シェルリアの言いたいことがわかったのだろう。シェルリアの母はそっと首をふった。



「私は領主の妻として、たくさんの患者さんにお会いしました。その結果、このようなことになってしまったけれど、後悔はしていないのよ」

「でも! 一番一緒にいたのは私だわ! それに、咳だってしていた……私がもっと早く気づけていたら!」

「それは違うわ。シェルリアのせいじゃない」

「でも……でも……」



 シェルリアはその後もずっと泣き続けていた。見ていられないほど痛々しい。

 セドリックはただひたすらシェルリアの背を撫でていた。



「セドリックさん、ちょっとよろしいかしら」



 シェルリアの母がセドリックの名を呼んだ。セドリックはシェルリアへと視線を一度向け、ゆっくりと立ちあがりシェルリアの母に近づく。

 けれど、あまりそばにまでは寄らせてくれなかった。



「貴方にお願いがあります」

「……お願い?」



 セドリックは首を捻る。今の自分にはできることがない。そんな自分にお願いとはなんだろうか。



「俺にできることなら」

「貴方にしかできないことです。あの子の……シェルリアの先ほどの記憶を消してはいただけませんか」



 こっそりと伝えられた言葉にセドリックは息をのんだ。何故そのことを……そう思ったが、きっと父が伝えたに違いない。いや、そんなことはどうでもいい。

 シェルリアの母親から彼女の記憶を消してほしいと頼まれたことの方が衝撃だ。



 セドリックは確かに人の記憶が消せる。けれどこれは、様々な文献を読み、症状と比較した結果の結論であり、実際に試したことはまだなかった。

 そんな危険なことをしろと言うのか。



「無理です。経験がありませんし、上手くいく保証もない」

「あの子にこのことを引きずってほしくないのです。勝手なのは重々承知しています。けれど、お医者様の話では、私は長くは生きられないそうです」



 今度こそセドリックは絶句した。

 すでにそこまでの診断が出ているということは、例え特別王宮薬師の薬が完成しても助からないところまできているということだ。



「ごめんなさい。貴方に重いものを背負わせることになるのはわかっているの。でも、どうかお願いします。私がいなくなっても、あの子が笑っていられるように……せめて乗り越えられるくらい大きくなるまでは……」

「……わかりました」



 悲痛な叫びにセドリックは聞こえた。

 何故この時、承諾したのかわからない。ただ、シェルリアと彼女の母親を救いたかった。それが記憶を消すことならば、してあげようと思った。



 セドリックはシェルリアの元に戻る。

 シェルリアの前に片膝をつくと、わんわんと声をあげて泣くシェルリアの頭をそっと撫でた。


 どうやればいいかなんてわからなかった。だから、心の中で強く願ったのだ。

 シェルリアの今日の記憶が消えますように、と。


 途端に、セドリックの頭にシェルリアの記憶らしき残像が流れ込んでくる。その中には、嬉しそうに笑っている自分の姿もあって、『あぁ、消えてしまうのか』と漠然と思った。



 それは数分の出来事。

 セドリックは疲れも合わさり眠ってしまったシェルリアを受け止めた。きっと、彼女の頭の中には今日の記憶が残っていないだろう。


 振り返った先では、彼女の母親が黙ったまま頬を濡らしていた。

 セドリックはシェルリアを抱えあげ、よたよたと歩き出す。寝台に寝かせてあげようと思ったのだ。その後を、一定の距離をあけ母親がついてくる。


 たどり着いた診察室には、シェルリアとセドリックの父親達がいた。すぐさまシェルリアが父親の手に渡り、寝台に寝かされる。

 何度も感謝と謝罪の言葉を述べてくるシェルリアの父親をセドリックは静かに見つめていた。


 なんだかぽっかりと穴が空いたような気分だった。自分で決めたことなのに、いざやってみると事の重大さに気づいてしまった、そんな感じだ。



 きっと、もうシェルリアには会えない。

 なにもなかったように平然としていられる自信がなかった。


 セドリックは眠るシェルリアに近づくと、ポケットから一枚の紙を取り出し、彼女の顔の横に置いた。

 薄黄色の台紙に紫苑の花が二輪咲いた栞。別れ際に彼女にあげようと思っていた。



「ちょっと意味が変わっちゃったけど」



 紫苑は薬草だけれど、とても綺麗な花だ。

 これからセドリックは目標にした薬師になるため王都に戻り、再び勉強し始める。なかなかシェルリアに会うことができなくなるだろうと選んだ花だった。


 けれど、再会を願って送るはずだったプレゼントは、別れの言葉になってしまった。



「さよなら、シェルリア」






 セドリックは絶対に忘れない。シェルリアとの思い出が全て消えたとしても、彼女の記憶を消した日の出来事は、決して忘れられない。



 紫苑の花言葉は『君を忘れない』。


 それは、彼を未来に導く記憶であり、逃れられない過去の記憶であり……後悔の記憶でもあった。


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