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消えぬ記憶(前)

 

 ーーあの日の出来事は、九年経った今でもはっきりと覚えている。




 黄色のリボンでまとめた色とりどりの花束を手に、高鳴る胸を押さえつけながら、一心に扉を見つめて立つ。薬草の強い香りが廊下に充満しているけれど、鼻はすでに麻痺していて何も感じない。


 昨夜はなかなか寝付けなかったため、身支度の時間が足りず、若干毛先の跳ねているところがあり、とても気になる。少しでもまともにしようと毛先をいじっていても、金色の瞳は扉を見つめたままだった。


 カチャリと静かに扉の開く音が耳に届く。少年はごくりと息をのみこんだ。

 ゆっくりと開いていく扉の影から、赤みがかった茶色の髪が見え、白いワンピースの裾、小さな手や靴……そして、宝石のように輝く赤い瞳が目を引く愛らしい顔が姿を表す。


 彼女はキョロキョロと廊下を見回していた。赤い瞳と金の瞳の視線が絡む。

 その瞬間、彼女の表情がパァアアと花咲くように明るさを増した。



「やっと直接会えたっ!」



 弾んだ声と共に駆け寄ってきた彼女が飛び込んでくるのを全身で受け止める。けれど、身体が小さすぎて、二人はそのまま尻餅を着くようにその場で崩れた。

 周りで見ていた大人がぎょっとした表情を浮かべ近づいてくる。だが、二人はそんなことに構ってなどいられなかった。



「病み上がりなんだから走っちゃ駄目だよ、シェルリア」

「だって、だって、とても楽しみにしてたんだもの」



 それは少年、セドリックも同じ気持ちだった。だけど、この状況はさすがに想像できなかった。セドリックの中では、もう少しかっこよく決めたかったからだ。

 その理想と現実の違いに思わずセドリックの口から笑い声が漏れると、シェルリアも連れて笑い出す。


 セドリックは未だに自分の足の上に座ったまま笑っているシェルリアに、持っていた花束を渡した。



「退院おめでとう」

「ふふふーー、ありがとう。貴方がいてくれたおかげで頑張れたわ」



 そう言って、花に顔を近づけ香りを嗅いでいるシェルリアをセドリックは優しげな眼差しで見つめる。



「シェルリアが頑張ったから病が治ったんだ」

「でも、皆を治してくれた特別王宮薬師様や看護してくれた方、両親、頑張った領民……そして何より、貴方がいなければ、きっと精神的にも体力的にも無理だったと思うの。だから、直接お礼が言えて嬉しい! ありがとう」



 その笑顔があまりにも眩しくて、セドリックは目を細めた。

 セドリックができたことなど、ほんの些細なことだ。


 父親に詳細な手紙を送り、特別王宮薬師としてモンスティ領に来てもらったり、シェルリアの家や病室の窓の外へ出来る限り顔を出し、気が紛れるよう話し相手をしたり、薬草を集めに行ったり。

 子供へ感染するために治療の手伝いはできなかったし、薬が調合できるわけでもない。本当はシェルリアに感謝されるほどのことはできていないのだ。


 モンスティ領に来てからの約二ヶ月間、そのことを悔しく思ったこともある。己の力のなさに情けなくなったことも。

 けれど、シェルリアと話していると、そんなことを悩む暇があるのなら、自分のできることをするべきだと思わされることがしばしばあった。


 シェルリアはどんなに自分が苦しくても、他の患者や領民、家族のことを心配していた。自分ができることを探そうとしていた。

 セドリックにとっては身近にあったから手を伸ばしただけの薬学も、シェルリアにとっては人助けができる素晴らしい手段で、薬師としては落ちこぼれでしかないセドリックに羨ましいと言った。


 セドリックの中で、はっきりと薬学や薬師に対する考えが変わった瞬間だった。そのきっかけをくれたのは、他でもない、シェルリアだ。


 代々薬師を多く輩出する家柄に生まれ、なんの疑いもなく薬学を学び、研究が楽しいという理由だけで続けていたセドリックは慢心で大きな失敗した。呪いの解き方ばかりを探し、未来に絶望し、薬師になる意味を見失っていた。


 けれど、薬師とはただ薬の調合を覚えていればいいものではない。患者がいて、病の根元があって、その人それぞれの薬を作れなければ意味がない。

 なんのために薬を作るのか。楽しいからじゃない。家系なんて関係ない。


 苦しむ患者を救うため。それだけであり、それが何よりも重要なのだ。

 自分の能力を自分が満足するために使うなんて間違っていた。シェルリアを見ていると、途端に己が恥ずかしくなる。そして、シェルリアの言うような薬師になれたらどれだけ素晴らしいかとも思うのだ。


 そんな単純で、大切なことに気づかせてくれたシェルリアには感謝の言葉しかない。



「こちらこそだよ、シェルリア。本当にありがとう」

「何に対してのありがとうなの?」



 シェルリアはきょとんとした顔をして、またクスクスと笑い出す。本当に日だまりのような笑顔だ。



「うーん……シェルリアが元気になってくれたことに対して、かな」

「なにそれぇ。でも、ふふふーーどういたしまして」



 いつまでも笑い合っている二人を見かねた周りの大人に促され、二人は立ち上がる。看護してくれた人達に別れと感謝を告げると、シェルリアは大きく手を振って見送りに答えた。もちろんシェルリアの隣にはセドリックがいる。

 二人はそのまま廊下を抜けて、シェルリアの両親が待つ部屋へと向かっていった。



「そういえば、どうしてセドリックはこの建物に入れるの?」



 シェルリアの疑問は最もで、隔離するための建物にセドリックがいるのはおかしなことだろう。もちろん、患者のいる病棟にはシェルリアが出てきた扉からしか出入りできず、さすがのセドリックもそこまで入ってきたことはないであろうが、建物に出入りすること自体、普通では考えられないのだ。



「あー、うん、実は、俺の父親が特別王宮薬師として派遣されてるんだ」



 それは思いもよらぬ答えだったのだろう。シェルリアはその場で足を止め、唖然とした表情をセドリックに向けた。



「じゃ、じゃあ、私を助けてくれたのは貴方のお父様?」

「……そういうことになるのかな」



 セドリックの言葉にシェルリアは返事を返さない。やはり黙っておくべきではなかったか、とセドリックは表情を歪めた。


 セドリックが名を名乗らなかったのは、今回のモンスティ領訪問が極秘で行われていたからだ。

 セドリックが起こした事件は、魔力に関係するため大っぴらにすることができず、限られた者しか知らない。なので、薬師としてはまだまだ半人前であるランベル伯爵家の長男がモンスティ領にいるという不自然な状況を説明する手立てがなく、内密に行動するしかなかった。


 現在も、セドリックがランベル伯爵家の者であることはほとんど知らされていない。知っているのは、シェルリアの両親くらいだ。

 本来ならば、子供のシェルリアにもバラすべきではないのだろう。しかし、ここで伝えなければ、今後もシェルリアと関わることができなくなってしまう。だから、セドリックは伝えることを決心したのだ。



「俺の名前は、セドリック・ランベル。今まで黙っていてごめんな」

「……セドリック・ランベル」



 シェルリアがゆっくりと繰り返す。彼女の口から自分の名前が紡がれるだけで、セドリックはなんとも言えない高揚感を感じた。



「俺の名前は秘密にしてほしい。ここにいることを知られちゃいけないんだ」

「そっか……わかった。じゃあ、二人だけの秘密ね」



 そう言ってシェルリアは安心させるようにセドリックの手をとった。

 シェルリアと繋がった手の方から、じわじわと全身に熱が広がっていく。心拍数も上がっていって、胸が苦しい。セドリックは思わずシェルリアから顔を反らした。



 少し先にシェルリアの両親が待つ部屋の扉が見えてくる。

 早く着かなきゃ身体がもたないと思うと同時に、着かなければいいのにともセドリックは思った。


 セドリックは落ち着かない様子で視線を泳がしているのに、シェルリアはセドリックと近くで話をできることがよほど嬉しいのか、楽しそうに他愛のない話を続けている。

 いつまででもその姿を見ていたいけれど、セドリックは部屋に着く前に伝えたいことがあった。



「あのね、シェルリア」

「なぁに?」



 セドリックは一度大きく息を吸う。



「俺、ここに来るまでは漠然と薬師になるんだと思ってたんだ。それどころか、未来に絶望すらしてた」



 まだセドリックは十一歳だ。貴族とはいえ、将来を決めるには早すぎるかもしれない。

 けれど、魔力持ちだと発覚した以上、セドリックに選択肢はなかった。例え、薬学を嫌いになっても、自信が持てなくても、セドリックは特別王宮薬師として勉強する未来しかない。


 それは、貴重な存在かつ、アルリオ王国が薬学で発展してきたからこそで、セドリックも歴史的背景を十分理解していた。

 だからこそ絶望したのだ。この先の自分の未来に。



「だけど、今は違う。俺はシェルリアの言ってた、患者のための、どんな病でも治せる薬を作れる薬師になろうと思う」



 それはシェルリアが導いてくれた新たな目標だった。




 シェルリアは大きく頷くと、握る手に力を込める。



「なれる。セドリックならなれるよ!」

「うん! ありがとう」



 二人は若い。若いからこそ、目標を決める時間も学ぶ時間も、そして悩む時間もたくさんある。

 キラキラと目を輝かせる二人は、この時、自分達の未来に希望を見いだしていた。心が満たされ、本当に幸せだった。




 目的地である部屋の前に着くまでは……



「ーー感染しています」

「子供にしか感染しないはずではなかったですか? 薬は? 子供達には効いていたじゃないか!」

「あなたっ!」

「子供しかかからない病でも、時折、大人が感染することもあります。症状は前からあったはずです」



 それは扉の隙間から漏れ出たシェルリアの両親とセドリックの父の声だった。

 突然聞こえてきた耳を疑うような会話に、二人は扉の前で動きを止める。


 セドリックの頭の中で、この場から去るべきだと警鐘がなった。シェルリアに聞かせるべきではない、と身体が自然にシェルリアの手を引く。けれど、シェルリアは扉を見つめたまま動こうとはしなかった。



「よくここまで我慢なされた。相当キツかったはずです」

「妻は……妻は治るんですよね?」

「医師と相談しなければはっきりとは申し上げられない。ただ、奥様は長い時間、感染患者と同じ空間にいましたし、子供よりも進行が早いはずです。正直に申し上げれば、子供達に投与した薬では効果は薄いと思われます」



 セドリックはすぐに父の言いたいことがわかった。

 特別王宮薬師とて、新たな薬の精製にはそれなりの時間を要する。薬を調合し、効果を見て、調整をする必要があるからだ。


 つまり、シェルリアの母の病状が悪化する時間と薬が出来上がる時間の差が大きな鍵で、医師とはその部分を相談しなければいけないということだろう。


 セドリックが父の言葉を整理していたのはほんの一瞬。けれど、本当はそんなことを考えている余裕などありはしなかった。


 温かかった左手から急に温もりが去っていく。ハッとしたセドリックの視界に、走り去るシェルリアの小さな背中が映った。



「シェルリアっ!」



 セドリックは叫びながら彼女の背を追う。

 満たされていたはずの心が急激に冷たくなっていくのを、セドリックは恐ろしいくらいはっきりと感じていた。


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