彼の秘密
ーーガタンッ、バタン、ドタンッ!
乱暴に開けられ、力任せに閉められたドアが大きな悲鳴を上げる。
小屋から研究室までの道のりを、人目を気にする余裕もなく全力で走ってきたセドリックは、ドアに背を預けズルズルと崩れ落ちた。汗で額にくっついた金色の髪を煩わしげに雑な手つきで払い、力なく項垂れる。
「はぁああ……なにやってんだよ」
耐えきれずため息と共にセドリックの口から弱音が漏れる。
ここはセドリックに与えられた研究室で、好き勝手に他人が出入りすることのできない、気を抜ける数少ない場所。だからこそ、避難するには最適なところーーのはずだった。
「あらあら、珍しく荒れていますのね」
まさか返事が返ってくるとは思わず、セドリックは勢いよく顔を上げると、視界に映った人物を睨み付ける。
セドリック愛用の椅子に腰掛け、好奇心を隠しもせず、観察するようにセドリックを眺めているその人物は、絹糸のように滑らかな銀髪を靡かせながらニコリと、それはもう天女のごとく眩い微笑みを浮かべ返してきた。
きっとセドリックでなければ、その笑みだけで全てを許していたに違いない。
けれど、ここは貴重な薬品を扱うエリアで、関係者以外の立ち入りを禁止している。ましてや、研究室に無断で入るなんて言語道断だ。
それに加え、現在のセドリックは心に一ミリも余裕がない。穏やかな空気など皆無だった。
「勝手に何をやってる。さっさと出ていけ」
特別王宮薬師としてのセドリックしか知らない者が聞いたら、驚きでひっくり返りそうなほど、低く冷たい声だ。精悍な顔つきも相まって、その迫力は魔王が降臨したかのようである。
だが、相手は一歩も引かない。
「セドリックの喜びそうな情報を手に入れましたので、ライラに無理を言って、ここまで来たというのに、困ったものですね」
それもそのはずで、相手はそんじょそこらの人間ではなく、セドリックなど彼女に言わせれば不機嫌な猫を相手にしているのと変わりはしない。
「悪いが、別の日にしてくれ、チェルシー」
のっそりと鈍い動きで立ち上がったセドリックがドアの前をあけ、出ていってくれ、と促す。
セドリックとチェルシーが幼い頃からの付き合いで、軽口を叩けるくらいの仲とはいえ、王族であるチェルシーを追い出すなんて真似は今まで一度もしたことがないセドリックだ。
チェルシーは、これは相当な精神的ダメージを受けていると判断した。そして、その理由も容易に想像がついた。
「シェルリアと何かありましたの?」
途端にセドリックの表情から覇気が消える。チェルシーは正解だと確信した。
「最近、あの子は楽しそうに昼間抜けていってましたけれど、セドリックと関係があるのでしょう? てっきり上手くやっているのだと思っていたので、この情報にセドリックは飛び付くと思ったのですけどね」
チェルシーの言葉にセドリックは肩を落とす。あまりにも情けなさすぎて、自分に腹が立って仕方がない。
端から見ても楽しそうにしていたというシェルリア。そんな彼女を傷つけたのは、他でもなくセドリック自身だ。
彼女が幸せならば、それでいい。
本当ならばそう思って、満足すべきだった。
なのに、笑顔が見たい、話をしたい、声を聞きたい、触れていたい……幸せにしたい。
シェルリアとの関わりが増えるにしたがって、己の欲望も増していく。それは、本当に自分勝手なもので、本来ならば彼女からすぐに離れるべきだった。
そう、これはわかっていた結末なのだ。
チェルシーは自分で幸せにするか、誰かに幸せにしてもらうか選べと言っていた。けれど、セドリックはどちらも選びきれなかった。選べるはずもなかった。それなのに、側に居続けたのだから。
「……もう彼女には会わない」
「どうして……シェルリアは貴方がずっと探し求めていた子でしょう? 何故、自分に正直にならないの?」
チェルシーは理解できないと首を捻る。セドリックがどれだけシェルリアに思い入れがあるか、近くで見てきたチェルシーは知っているつもりだ。
実際、シェルリアを新人侍女の名簿の中から見つけた時に、チェルシーの専属にしたのだって、人となりを見極めるだけでなく、セドリックと出会うチャンスを増やすことが目的だった。そこで無理矢理会わせなかったのは、シェルリアに想い人がいるとわかったからである。
チェルシーはできることなら昔からの友人の恋が実ればと思っていたのだ。だからこそ、お節介と言われようが納得できなかった。
「シェルリアとの記憶が消えていくって言っていたでしょう。それがどういうことか、貴方が一番わかっているはずですわ」
セドリックの消えていく記憶には法則がある。
それは、セドリックの気持ちを動かした大切な記憶から消えていく、というものだ。
セドリックの記憶は穴が空くようにランダムに消えていくことがチェルシーの研究でわかっている。
このことを解明するのは非常に大変だった。
魔術や呪いなど、古い文献をあさりまくり、『記憶を消す力を手に入れた者は己の記憶を失う』ということまではわかったが、いざどんな記憶がどう消えていくのかを調べようとすると、消えてしまっては証明する手立てがない。
そのため、セドリックは毎日細かく日記をつけ、毎日読み返しては、覚えているかいないかをチェックしたのである。
幼少期の記憶が曖昧なのはよくあることだが、最近の出来事が丸一日、記憶からすっぽ抜けるというのはどう考えても不自然で、そんな記憶をかき集めた結果、日にちなどの順番は関係なく、ある種、適当な間隔で消えていくことが判明した。
特に重要なのが、消えた記憶と消えない記憶の違いだ。これらはデータを集めれば集めるほど顕著に現れた。日記の文章量や出来事に対する熱量、関心の高さ、感情の幅など、消えない記憶との差が歴然だった。
記憶は、毎日、太陽が上る頃、すーっと頭から抜け去るように消えていく。そして、セドリックが嬉しかったり楽しかったり悲しかったり、感情が大きく揺れ動いた日の記憶が消えていくのだ。
これらは全て、何年という歳月を経て、やっと導き出された答え。
記憶が消えていく証明とはいえ、毎日のように日記を読み返し、消えてしまった記憶とにらめっこをする。そんなことを続けていれば、消えてしまったシェルリアという少女との思い出がより大切なものに思えても仕方がないだろう。
そして、王宮で再び出会ってからのシェルリアの記憶がないとはつまりーー
「その記憶は、貴方の心を大きく揺さぶる大切なもの……だから消えるのですよ?」
セドリックは黙ったまま、グッと手を力一杯握り締める。
チェルシーはセドリックのことを心配して言ってくれているのだとわかっている。けれど、そうしなければ感情が爆発してしまいそうだった。
「今日はわたくし、先日遺跡で発見された古代の魔術書を読んできましたの。新発見に繋がりそうな興味深いことがたくさん書かれておりましたわ。そしてそこに、貴方の能力を消す方法が書いてあるのを発見しました」
「え? ……それは、本当か?」
セドリックは思いもよらない報告に呆気にとられた表情を浮かべ、チェルシーを見た。先程まで身体に入っていた力が一瞬抜ける。
そんなセドリックにチェルシーは大きく頷いて見せた。
「正確には、能力を消せるかもしれない方法ですが、あるかわからない薬草を集めるとか、複雑な魔法の呪文を唱えるとかではありません。セドリック、貴方が初めて記憶を消した人物の大切な記憶を一つだけ消すのです」
「なっ!?」
言葉を失ったセドリックに、チェルシーは少し複雑そうな表情を返す。
セドリックの反応は正しい。セドリック自身、大切な記憶が消えて苦しんでいるというのに、人の大切な記憶を消せ、と言われたのだ。絶句するのも仕方がないだろう。
だが、そうでもしなければ、セドリックの大切な思い出は消え続ける。
記憶とは、ただの過去ではない。それは、感情を生み出す根源とも言え、心を支える柱でもあり、人を成長させ、未来に進むための糧となる。
例えしまいこんだ辛い記憶でも、忘れたと思っている記憶でも、それは思い出せないだけで人間のどこかを形成している。
しかし、セドリックがこのまま記憶をなくし続けたらどうか。新たな記憶が産み出されるとはいえ、成長の糧になるであろう重要な記憶が消え続けるということは、過去のセドリックが今のセドリックではなくなるということ。それはとても恐ろしいことだとチェルシーは思っている。
「セドリックの言いたいことはわかりますわ。でもーー」
「……そんな……無理だ。そんなことできない」
「ええ、そう思って当然です。けれど、やらなくては貴方のーー」
「無理だ!」
それはあまりにも悲痛な叫び声だった。チェルシーは驚きのあまり口を開けたまま動きを止める。
セドリックはふらふらと力なくその場に座り込んだ。そこでやっとチェルシーは我にかえる。
塞ぎこんだセドリックの顔は髪に隠れて見えない。けれど、握りしめられた両手は、爪が皮膚に食い込むほどで、僅かに震えていた。
チェルシーはセドリックの反応に、素朴な疑問を浮かべる。
「貴方をそんなに震えさせるほどの人……セドリックが初めて記憶を消した方とはどんな人なのです? 覚えているのでしょう?」
それはある意味一番残酷なことだ。何故なら、セドリックは『他者の記憶を消した日の思い出』だけは決して消えないのである。
セドリックの頬を一粒の滴が濡らす。ポタリと落ちてできた床のシミを見つめる金の瞳に生気はなかった。
ボソリとセドリックは呟く。それは本当に小さなものだったが、チェルシーの耳にはハッキリと聞こえた。
『俺が初めて消したのは……シェルリアだ』
その瞬間、チェルシーはついに言葉を失った。




