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誰のおかげ

 時に、人生とはままならないものだと痛感する時がある。


 想像できうる悪い事柄を回避しようと考え抜いた末に出した結論が、結果的に状況を悪化させることもある。



「会いたかったよ、シェルリア」



 まさに今、シェルリアはその状況に陥っていた。


 チェルシーに付いてミリアと共に王宮図書館に向かったシェルリア。

 案の定と言うべきか、チェルシーは休憩を挟むこともなく、貪るように貴重な書物に目を通していた。


 個室を与えられ、人目を気にしなくても良いとはいえ、(あるじ)に休憩を取らせないわけにはいかないし、ましてや昼食を抜かせるわけにもいかない。


 ミリアがチェルシーに紅茶を淹れていたので、昼食を取りに行くのは自然とシェルリアが引き受けることになった。

 私情で厄介ごとを抱えていようと、仕事に影響があってはならない。どんなに同僚が心配げな眼差しを送ってきても、主が声をかけようとしてきたとしても、そこはシェルリアも侍女として憮然とした態度を見せるべきだ。


 平然とした表情で個室を後にし、いつもお世話になっている司書に声をかけ、王宮図書館から出たシェルリアは足を止め、悩んだ。


 普段使う道のりで調理場へ向かおうか、少し遠回りをして向かおうか。

 いつもならば悩むことなく最短距離の前者を選ぶだろう。けれど、シェルリアの脳裏に浮かぶのは、ミリアから受けた忠告だ。


 会いたくはない。決定的な浮気現場を見てから、怖くて会わぬよう避けてきたのだ。

 当初は悲しみと怒りで心も頭もぐちゃぐちゃだった。信じていた彼に裏切られてどうすればよいのかわからなくなっていた。


 けれど正直、今はどんな感情を彼に向けているのかシェルリア自身わからないでいた。

 時間がそれほど経ったわけでも、気持ちの整理ができたわけでもない。しかし、彼のことを悩み、ぐちぐちと悲しむ時間がシェルリアにはなかった。


『忘れ屋』を訪れ、セドリックに出会って、シェルリアの頭の中は良くも悪くもセドリックで一杯一杯だった。


 だから、彼と顔を合わせた時、自分がどんな反応をするのか怖かったし、どんな気持ちが湧いてくるのかもわからず、シェルリアは会わないようにと遠回りすることを選んだのだ。




 結果、シェルリアの目の前に、あんなにも見たかった優しい微笑みを浮かべる彼がいるのだから、悩んだあの時間が無駄に思えてくる。



「久しぶりね、ゲイル」



 ゲイルと呼ばれた男は、藤色の髪をふわりと靡かせ、口許を緩める。唇横にある黒子が何とも魅惑的だ。

 彼の纏う空気は騎士としては珍しいくらいに柔らかい。その穏やかな雰囲気や気遣い、豊富な話題。何より心が温まるような優しい笑みがシェルリアは本当に大好きだった。


 目の前に現れた今も、心の奥が疼いているのがわかる。だけど、依然はあった締め付けられるような心地よい痛みが全く感じられない。


 シェルリアは自分が思っている以上に冷静に、ゲイルと向き合っていた。



「最近、全然連絡がつかないし、会いに行ってもすれ違ってばかりだったようだから、心配していたんだ。忙しいのかな? 疲れてないかい?」



 心からシェルリアをあんじている様子のゲイルに、シェルリアは何とも言えない表情をする。

 もしシェルリアがゲイルの裏切りを知らなければ、素直に喜んでいただろう優しい言葉。けれど、今のシェルリアには響いてこない。それどころか、今もまだ平然と変わらぬ関係でいようとしていることに一種の絶望すら感じる。



「大丈夫よ」



 いつもならばニコニコと満面の笑みを返してくるシェルリアが固い表情のままであることに違和感を感じたのだろう。ゲイルはシェルリアの顔を覗き込むように距離を縮めてくる。だが、シェルリアはすぐさま一歩下がり距離をとった。



「シェルリア?」

「……もう私達が会う必要はないと思うの」



 ゲイルは唖然とした表情のまま動きを止める。



「急にどうしたんだ? なんでそんなことーー」

「私、知ってしまったの。貴方とネリーの関係を」



 シェルリアの真っ直ぐな瞳がゲイルを捕らえると、彼の青い瞳が一瞬泳いだ。

 その瞬間、シェルリアは全ての終わりを悟る。



「ちょっと待ってくれよ。何かの間違いだ。俺を信じて、シェルリア?」



 ゲイルはまだ言い逃れると思っている。でも、キスをしている決定的な瞬間を見ているシェルリアには無理だった。


 愛があれば許しあえるだなんて幻想だ。それはどちらかが苦いものを飲みこみ、我慢した上でしか成り立たない。


 シェルリアは飲み込んでも飲み込めないほど絶望した。ゲイルに関する記憶を消し去りたいくらいに深く。

 それでも、ゲイルが素直に非を認め、誠実な態度でシェルリアと向き合おうとしてくれていたら、少しは心のもちようが違ったのかもしれない。



 いや、ゲイルはどう足掻いても、もう無理だった。シェルリアは気づかぬうちに比べてしまっている。

 シェルリアの嘘に真っ正面から向き合ってくれたセドリックと。



「もう貴方は信じられないの。ごめんなさい、ゲイル。今までありがとう」



 不思議とシェルリアの心は穏やかだった。

 僅かばかりの悲しみや痛みはあったけれど、怒りは湧いてこない。


 シェルリアはふっと『忘れ屋』でのセドリックの言葉を思い出す。



『もう二度とこんなめに合うものか、とか。もっといい男を捕まえてやる、とか。そう思えるようになったらこっちのもん、らしいです』



 まだそこまでの気持ちにはならないけど、自分の愛した相手はこんな男だったのか、と諦めにも似た気持ちにはなってくる。

 自分の記憶にある彼は好きだった部分にすぎず、きっと出会った頃から彼の本質は変わらないのだ。恋は盲目とはよく言ったものである。


 これも、いい勉強になったと言うべきか。

 しかし、そこまで吹っ切れたのは、やはりセドリックの存在が大きいように思えてならなかった。


 セドリックのことを考えていたシェルリアの表情が自然と緩む。



「じゃあ、私は仕事の途中だから、これで失礼するわね」



 そのまま颯爽とゲイルの横を通りすぎたシェルリアは一度も振り替えることなく調理場へと向かっていた。


 だから気づかなかったのだ。シェルリアの背に向けられた鋭い眼差しに。


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