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本物の笑顔

 出窓以外の壁は本棚と薬品棚で埋め尽くされ、部屋の中央奥にある大きな机には積み上がった本や資料が隙間なく広がっている。

 部屋に漂う鼻に残る独特な匂いは、彼が一日中頑張っていたことを示し、机に突っ伏す彼の目の下の隈を見れば、色々と限界が近いことも容易に見てとれた。



「セドリック様、おはようございます」

「……んあ、あぁ、朝だもんな。おはよう、ロビン」



 セドリックは眩しそうに目を細め、窓の外を確認する。ボーッとしていて頭が働いていそうにない主人に対し、ロビンと呼ばれた青年は、もうすぐ昼になる、とは言い出せなかった。



「いい加減、屋敷に帰られ、休息をとられたほうがよろしいかと思いますが」

「いやぁ、仕事が次から次へと舞い込んできてね。新人はこき使われて堪らないな」



 確かに、とロビンは心の中でセドリックの意見に同意する。しかし、正直に言えば、ロビンを一番こき使っているのはセドリックに他ならなかった。


 ロビンは歴史あるランベル伯爵家に代々支えている家系だ。ロビンの父はランベル伯爵家の執事をしている。

 ロビンは現在、見習いのようなもので、様々なことを勉強する過程でセドリックのお世話もしているのだが、セドリックは基本的に王宮敷地内にある王宮医師や薬師のいる医療管理塔の研究室に寝泊まりすることが多いため、屋敷との往復がロビンの日常になりつつある。


 いや、特別王宮薬師を多く輩出しているランベル伯爵家に支える身としては、このような状態になるのも想定内と言えるだろう。ロビンの父や祖父、その前の代の者達も王宮と屋敷の往復を何度もしてきたに違いない。

 特別王宮薬師になる者の多くが薬学馬鹿として有名になる程なのだから。


 ではなぜ、こき使われることが仕事とも言える執事見習いのロビンが感傷にひたっているかというと……



「そうだロビン、今日の準備も抜かりはないか?」

「はい……ちゃんとご依頼のお店に買いに行ってきました。この後、小屋へと向かいます」

「そうか、悪いな。俺が買いに行けたら、というか、小屋に行けたらいいのだが」



 そう言って頭を抱えるセドリックの表情があまりにも悔しそうだったので、ロビンは人知れずため息を溢す。


 ロビンにとって、幼い頃のセドリックは兄のような存在でもあった。ロビンの両親がランベル家に使えていたこともあり、伯爵家の屋敷内で生活を送っていたロビンを、四歳年上のセドリックは、よく遊びに誘ってくれた。


 最初に字を教えてくれたのも、大人にバレないイタズラの方法を教えてくれたのもセドリックで、叱られるときは一緒に叱られてくれた。

 自分の立場を理解し始める年頃になったロビンが、主人と使用人の関係を強く意識するようになり距離ができはじめても、セドリックは何も変わらず接してくれた。


 だから、セドリックが急に笑わなくなり、雰囲気が変わってしまった時は、どうしていいのかわからなかったし、近くで見ていたからこそ自分が何もできないと悟り、もどかしく思ったことを今でも鮮明に覚えている。

 セドリックの身に起きた事件をロビンが父親に聞かされたのは、名実ともにランベル家の使用人として働くことが決まった時。ロビンはその時に、セドリックにできることなら何でもしてやれるくらいの能力を身に付けようと思ったのだ。


 そう、はっきりと決意した。それは、今も変わらない。変わらないのだが……


 ロビンは自分が先ほどまでいた店のことを思い出す。そこは、毎朝行列ができるほど女性に人気の菓子店で、美味しく、可愛らしいデコレーションが施された菓子を売る人気店。

 当然、今朝も女性客が行列をなし、可愛らしい店内も女性だらけだった。そんな中に体格のよい男が一人。浮くとかの問題ではない。視線が痛かった。


 セドリックのように整った美形の男ならばまだしも、ロビンは十六才にしては騎士団にいてもおかしくないような体格の良さと男らしい顔立ちをしている。

 もちろん主人からの頼みとあらば何でも遂行するのが使用人として当然のことなのだが、十六才といえば多感な時期。恥ずかしいものは恥ずかしいのである。



「えー、セドリック様。明日は……」

「ああ。明日の頼みたいものもリストアップしてある。もし、仕事が一段落したら俺がーー」

「いえ、私が行きます。セドリック様はお休みください」

「そうか? いつも悪いな」



 太陽の光を背に浴びて、金色の髪がキラキラと輝く。どんなに疲労でボロボロでも、申し訳なさそうに眉を下げていても、セドリックは絵になる。

 けれど、それはセドリックの表情が明るいからだ。こんなにもセドリックの表情を豊かにしてくれるのは、ロビンがせっせと買いに行ったお菓子を食べるであろう女性。



「それと、小屋の本棚にこれも入れといてくれ。俺が昔使っていた薬草の図鑑なんだが、説明が細かくて気に入ってるんだ。きっとシェルリアも楽しんでくれるはず」



 そう言って、分厚い図鑑を二冊も渡してきたセドリック。彼女のことを考えているのか自然と口元が緩んでいる。



「でも、どうせなら楽しんでる姿を直に眺めたいんだけどな……昨日は?」

「いらっしゃったようです。お菓子も減っていましたし、紅茶も飲まれていました」

「そうか。そうか……あぁあああっ!」



 椅子の背もたれに項垂れながら「仕事がなければ、いや、仕事がなければ一人前の薬師にはなれない。でも、会いたい……」と呪文のようにぶつぶつと唱えているセドリックの姿を誰が想像できようか。


 きっとイメージと違うと幻滅する者もいよう。けれど、ロビンはこんな主人の姿を見てホッとするのだ。幼い頃、感情のままに笑い、泣き、怒っていたセドリックを思い出させるから。



「何かお菓子と一緒にメッセージを添えられては?」

「メッセージなら図鑑にーー」

「いえ、薬草への一言ではなく、彼女へのメッセージです。もしかしたらお返事がいただけるかもしれませんよ?」

「っ!? わかった、ちょっと待っていてくれ。今すぐ書くかーー」



 ーーコンコンッ


 セドリックが机の引き出しを開け、便箋を探そうとしていたちょうどその時、セドリックの研究室のドアを誰かがノックした。その瞬間、セドリックの動きが止まる。



「お忙しいところ失礼いたします。応診に同行してほしいとの連絡が入っております」



 それは、医療管理塔に配属されている事務員の声だった。

 彼らは王宮医師や薬師、もちろん特別王宮薬師に対する診察などの依頼を一手に管理し、必要に応じて連絡をしてくる。



「ちなみにどちらへ?」



 セドリックの問いにドア越しから聞こえてきた回答は、一瞬にしてセドリックの表情を奪っていった。



「……もうクリスティーナ様に俺は必要ないだろうに」



 感情の籠らぬその声にロビンは何と声をかけるのが正解か未だにわからない。

 のそりと椅子から立ち上がったセドリックは、白いローブを手に取る。ロビンは羽織るのを手伝うためセドリックに近づいた。

 黙ってロビンの手の動きを見つめていたセドリックは、完了の意を込めて一歩下がったロビンと視線を合わせる。



「メッセージは次頼んでいい?」

「もちろんです」

「ん。じゃあ、行ってくるよ」



 そう言って笑いかけてくれたはずなのに、先ほどまで本物の笑顔を見ていたロビンにはそのセドリックの笑顔が酷く冷たいものに感じた。



「行ってらっしゃいませ」



 ロビンは頭を下げ、セドリックを見送りながら思う。

 きっと、今、セドリックを救えるのは、シェルリア・モンスティ。彼女しかいないのだろう、と。

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