近寄る影
コツコツと軽やかに響く足音。視線の先で柔らかく揺れる銀の艶やかな髪。
決して崩れることのない姿勢は幼い頃から身体に染み付き、滅多なことではぶれやしない。
誰もが見惚れる美しさと纏う威厳は、チェルシーが王族であることを大いに示しており、彼女とすれ違う者達は頭を下げながら、きっと国のことを考えているに違いない、と想い馳せるのだ。
けれど、チェルシーに支える専属侍女達は知っている。
現在、廊下をひたすら歩いているチェルシーは、皆に微笑みかけながら一つのことしか頭にないことを。
昨晩、いつもお世話になっている王宮図書館司書から急な連絡が入った。
『建国初期の時代に書かれたであろう魔術に関する本が見つかり、明日、王宮図書館に届く』と。
この後、研究機関に引き渡されるが、王宮図書館が一日預かるそうで、その間だけ閲覧してもよいらしい。もちろん口外も持ち出しも禁止で、図書館の奥にある秘密の部屋でのみの閲覧という条件付きだ。
けれど、その機会をチェルシーが逃すはずもなく、朝早くから公務の仕事をこなし、自由な時間を勝ち取っていた。その熱量を見たライラが、引きこもって食事などを疎かにするだろうから、とシェルリアとミリアに同行を指示したのである。
「なんだか王宮図書館がいつもより遠く感じますわね」
言葉とは裏腹にチェルシーの声は弾んでいる。
相当楽しみなんだな、と思うと、自然とシェルリア達の表情も緩んだ。
「チェルシー様、楽しみなのは十分理解いたしますが、ちゃんとお昼は召し上がってもらいますよ」
「時間が惜しいのに……でも、ライラに知られたら厄介ですものね。仕方ないですわ」
ミリアからの釘指しに渋々答えるチェルシーは、いくら冷静沈着な王女と言えど年相応に感じる。微笑ましいと目を細めたシェルリアだったが、釘指しは飛び火した。
「シェルリアも今日の昼は付き合ってもらいますからね。最近休憩になると、一人でどこかに行ってしまうんですもの」
「う、うん」
意味深な笑みを向けてくるミリアにシェルリアは苦笑いを返す他ない。ここ数日、シェルリアは長い休憩に入るや王宮を飛び出し、セドリックが合鍵をくれた小さな小屋へと通っていた。
「また」と約束をした後、シェルリアは考えた末に一日おいて小屋を訪れた。連日行くのは積極的過ぎるし、日数をあけては行けなくなるからで、とても悩んだ結果だ。
結論から言えば、二回目以降セドリックとは会えていない。一人では食べきれないほどのお菓子が置かれていたりするので、セドリックが小屋を訪れたことはわかったが、休憩時間中に訪れることはなく、シェルリアは本棚から見たことのない薬草図鑑を取り出し読み耽る日々を過ごしている。
セドリックは元々忙しい人だ。薬師として診察に立ち会い、薬の調合、研究と休憩時間を取ることもままならないだろう。
先日会えたのが奇跡だったのだ。今後もシェルリアが一人で過ごすことの方が多いに違いない。ただ、この限られた休憩時間はとても充実したものだった。
図鑑にはセドリックの一言メモのようなものが至るところに挟まれており、一人で図鑑を見ているはずなのに、セドリックと話している錯覚に陥る。
どう見ても真新しく、シェルリアのために書かれただろう一言メモを、どこにそんな時間があるのかと心配しつつ読みながら、シェルリアはなぜここまでしてくれるのかと考えた。
初日の薬草談義は正直に言って楽しかった。それはもう時間が過ぎるのを忘れるほどに。
あんなにも警戒し、緊張までしていたというのに、セドリックがあまりにも普通に接してくるから、立場の違いなどを気にしなくなっていたな、と後に反省したぐらいである。
『この薬草は知ってる? これはーー……』
『わかるよ。この花の部分だろ? 本物を見るとーー……』
「小さい頃、知らずに触ってさ。そりゃあもう驚くほどにかぶれてーー……』
コロコロと表情を変え、とても楽しそうに話すセドリックは、特別王宮薬師として見てきた顔とは全く違っていた。屈託なく笑う表情は少し幼くて、崩れた口調は年の近さを実感させる。ページをめくる手は優しく丁寧で、話すときはシェルリアをまっすぐ見つめてきた。
伯爵位を継ぐことが決まっていて、皆が羨むほどの地位と実力を持ち、誰もが見惚れる容姿をしている、自分とは異なる次元にいる人物。それが、シェルリアの抱いていたセドリックのイメージだった。
しかし実際は、口調は男らしく、ユーモアを持ちあわせ、仕事や過去に悩み、一人前になろうと足掻いている青年でしかなく、失礼かもしれないがシェルリア自身とあまり変わらない。
セドリックはシェルリアとの距離を詰めたがっている。それは、勘違いだとバッサリ切り捨てられないところまできていた。
だって、どう考えても、嘘をついた人間を許し、去ろうとした人間を引き留め、己の隠れ家へと誘うなんて普通はしないだろう。
そして、そこまで考えたシェルリアの頭をよぎるのは、初めてセドリックと顔を会わせた『忘れ屋』での告白。あの告白の全てを鵜呑みにする気などシェルリアにはない。
当のセドリックが忘れてしまったことでもあるし、その後のセドリックの態度は至って普通で、相手を間違えた可能性も十分あるからだ。
でも、それならば何故名乗ったあの時、あの言葉が放たれたのか。そして、チェルシーの言葉などから考えるに、シェルリアはセドリックとどこかで会ったことがあるのではないか。
考えれば考えるほど謎は深まるばかりで、本当ならばこれ以上深入りしないほうがいいのかもしれない。
けれど、自然とあの小さな小屋に足が向くのは、謎の解明をしたいからか、図鑑やお菓子という恵まれた空間を手放したくないからか……セドリックが気になるからか。
恋なんて当分御免だ、とシェルリアは今も思っている。だから、この心情は恋じゃない。
ただ単純に知りたいだけだ。
「……でも明日はまた消えるかも」
「ふふふーー……」
申し訳なさそうに呟いたシェルリアの言葉に反応し、チェルシーは控えめに笑いをこぼす。侍女達の軽いやり取りだと思ったのだろう。普段からチェルシーの部屋の中などでは、チェルシーの前でも冗談を言うことだってある。
シェルリアもそんな感覚で話していた。
けれど、ミリアは表情を険しくし、シェルリアへと視線を向ける。そのいつもとは明らかに違う様子にシェルリアは首をかしげた。
「ミリア?」
「いい? もし一人でどこかに行くなら、侍女仲間の誰かに行く場所を告げて行きなさい」
思わぬ言葉にシェルリアの表情が強ばっていく。とても嫌な予感がした。
「あの男はあなたの休憩時間をある程度把握して、休憩時間になると顔を出しにくるわよ。皆、上手く誤魔化しているけれど、どんな神経をしてるのか……シェルリア、少し気を付けたほうがいいわ」
さぁっとシェルリアは血の気が引いていく気がした。
シェルリアに関係する人物で、ミリアがあの男と表現するのは一人しかいない。
「あらまぁ。本当に図々しい男ね」
普段と変わらぬ穏やかなチェルシーの声だが、全く温度を感じられないその言葉をシェルリアは他人事のように聞いていた。
あの男……それは間違いなく、シェルリアを捨てた男のことだった。




