緊張を上回る愛
私情により長らくお待たせしてしまい、誠に申し訳ありません。
また、これから少しずつ更新していきますので、よろしければお付き合いください。
寒空の下、シェルリアは手元の物体を睨み付けながら、人形のように固まっていた。侍女服の上からストールを羽織ってはいるが、寒さに耐えかね身体が僅かに震え始めている。
目の前にあるのは寒さを凌ぐにはうってつけの小さな小屋。手に持っている鍵を鍵穴にさして、回すだけで寒さとおさらばできるのである。
しかし、シェルリアはそんなことをしていいのかと悩んでいた。王宮から王宮敷地内の奥にあるこの小屋に来る間……いや、昨日、セドリックに小屋の合鍵を渡された瞬間から悩み続けている。
セドリックがシェルリアのついた嘘を許してくれたらしいことは理解した。正直、あんなに悩んでいたことがこんなにもあっさり解決してしまうと、それはそれで不安なのだが、自分に償えることがあるなら、感謝を伝える機会があるのならセドリックのためにやれることはやりたい、とシェルリアは思っている。
だが、休憩の際に小屋を使うというのは違うのではないか。誰も知らないと言うくらいだ。この小屋はセドリックにとって王宮にある休息の場所……つまり、オアシス!
そんなところへ仕事でもないのにお邪魔していいのだろうか。だからと言って、無視をする勇気もシェルリアにはない。日にちが空いたら益々行けなくなると足を運んではみたが、いざ目の前までやってくると最後の一歩が踏み出せなかった。
「あ、明日に……うん、昨日の今日は早すぎるよね。やっぱり明日にしようか」
自分に言い聞かせるように呟くと、シェルリアは踵を返し小屋に背を向ける。悩む時間が引き伸ばされただけで何ら解決していないのだが、足がすくんでしまったシェルリアにもう一度振り返る気力はなかった。
しかし、現実とは己の望まぬことが容易におこるものだ。
シェルリアの背後からガチャとノブを捻る音が聞こえ、ドアの開く気配がした。シェルリアの身体に緊張が走る。
「あっ!」
どこか嬉しそうな声がシェルリアの耳に届いてくる。その瞬間、シェルリアは全てを悟ったかのように一度目を閉じ、ゆっくりと瞼を持ち上げながら振り返った。
「こ、こんにちは、セドリック様」
表情が上手く作れず、どこかぎこちなさの残る笑みを浮かべ、シェルリアは必死に声を発する。その挨拶に返ってきた声は、シェルリアとは正反対のとても穏やかで明るいものだった。
「こんにちは。来てくれたんだな、嬉しいよ。外、寒かっただろう? さぁ、入って」
満面の笑みとはまさに今のセドリックの表情のことを言うのだろう。喜びの感情を全面に出したその笑顔は、シェルリアが今まで見たことのないもので、少しセドリックを幼く見せた。
招き入れられる形で小屋へと足を踏み入れたシェルリアは、居心地が悪そうに落ち着きなく辺りを見回す。そんなシェルリアの動揺を知ってか知らずか、セドリックは「少し待ってて」と言って部屋奥のドアの中へと消えていった。
そこでやっとシェルリアは大きく息を吐き出す。あまりにも急展開だったためか、頭と心が状況に追い付いていなかった。
部屋の中は前回来た時とあまり変わっていない。変わったところと言えば、小さな本棚が出来ていることくらいか。
テーブルの上には何やら資料や分厚い本が開かれたまま置かれている。これはもしや仕事中だったか、とシェルリアが己のタイミングの悪さに絶望しかけた時、ドアの奥から何かを手に持ったセドリックが現れた。
「ごめん、座って待っててって言うべきだったね。どうぞ座って?」
立ったままキョロキョロしていたシェルリアに、セドリックは椅子を引いて座るよう促す。そこまでの流れに無駄な動きは一つもなく、シェルリアは素直に従う他なかった。
ちょこんと座ったシェルリアの前には、様々な種類のお菓子や軽食が並べられていく。セドリックが持っていたのはこれらだったようで、まるでお茶会に来たようだった。
「お昼は食べた?」
「え、あ、いえ……」
小屋を訪れるという最重要かつ超難関な課題のことしか頭になかったシェルリアが呑気にお昼を食べて来れるはずもない。緊張のあまり空腹を感じていなかったが、目の前の食事につられてか、シェルリアのお腹の虫が小さく鳴き出した。
ハッと慌ててお腹を押さえてみたが後の祭りで、セドリックは「好きなだけ食べて」とシェルリアに満面の笑みで語りかける。
「……いただきます」
顔を真っ赤に染めつつもシェルリアはサンドイッチに手を伸ばした。その様子をセドリックは嬉しそうに眺めている。いたたまれず、シェルリアは食べることに集中した。
ちなみに、紅茶を淹れてくれるというセドリックの申し出は、そこまでさせられないとシェルリアが引き受けた。一度台所を使ったことがあるので、なんとか問題なく紅茶を淹れることができ、その紅茶をセドリックが嬉しそうに飲んでくれたので、シェルリアの緊張も少しずつ解れていく。
それでも会話を弾ませるところまではいかず、シェルリアはこれで本当にいいのかと内心焦っていた。
セドリックを楽しませるわけでも、休ませるわけでもなく、ただシェルリアが飲み食いしに来ているだけ。これのどこがセドリックのためになっているのだろうか、と。
せめて少しぐらい話題を提供し、休憩時間を苦痛なものにしないようにせねば! そんな結論に至ったシェルリアの目に留まったのは、テーブルの端に寄せられた分厚い本や資料だった。
「もしかしてお仕事中でしたか?」
シェルリアの視線の先を確認したセドリックは小さく首を横にふる。
「新しい薬草の図鑑が出たんで読んでいたんだ」
「それはお仕事なのでは?」
「んー、新たな薬草が発見されたら特別王宮薬師には真っ先に伝えられるから、知らない薬草はないんだけど、図鑑を見るのが好きでね。まぁ、趣味みたいなものかな」
そう言ってセドリックは少し恥ずかしそうに笑みをこぼす。薬師の中でも特別王宮薬師は地位にも執着していない、根っからの仕事好き。いや、薬学好きというのは誰もが知る事柄だ。
セドリックも例に漏れずそうで、それが恥ずべきことだと思ったことはないのだが、いざ好意を抱く女性の前になると、胸を張って言っていいのか自信がなくなる。
心配そうにセドリックがシェルリアの反応を伺っていると、シェルリアはキラキラと目を輝かせセドリックを見つめていた。予想外の反応にセドリックは動きを止める。
「わかる……」
「え?」
シェルリアの呟くような小さな声が聞き取れず、セドリックは聞き返す。次の瞬間、シェルリアはテーブルの上にあったセドリックの手を勢いよく掴んだ。
「わかります! 私も幼い頃から薬草の本を読んでいたせいか、薬草の図鑑が大好きなんです! あの、絵画のように美しく、細部にまでこだわって繊細に書かれた絵! よく目にしていた薬草の知らなかった特徴を発見したときの喜び! セドリック様もお好きなんですね!」
「……あ、うん。そうだね、図鑑は何度見ても新しい発見ができて、あ、飽きないよ」
正直、セドリックの意識の大半は柔らかな温もりに包まれた己の手に向かっていた。しかし、貴族社会で数々の苦難を乗り越えてきたセドリックは、何とか話を続けることに成功する。
「そうですね、飽きません。お兄様なんか図鑑は薬草の勉強をするものとしてしか認識していなくて、なかなか理解してくださる方がおりませんでしたけど、セドリック様が共感してくださって嬉しいです」
言葉と一緒に向けられたシェルリアの微笑みにセドリックは言葉を失い、心の中で悶絶した。一方、そんなこととは露知らず、シェルリアは抱いていた緊張など遥か彼方に投げ捨てて、薬草談義を始め出す。
幼い頃から薬師に憧れ、薬草や薬学を勉強していたシェルリアにとって、こんなにも共感してくれる人はいなかった。兄であるコンラッドもシェルリアの話は聞いてくれるが、重度のシスコンであるコンラッドが黙って話を聞いてくれるはずもない。
その点、セドリックは専門家であり、薬師になれるわけでもないシェルリアの話を馬鹿にするような人物でもない。それどころか、冷静さを取り戻してきたセドリックはシェルリアの知らなかった新たな知識まで教えてくれた。
二人の談義は最初の気まずさが嘘のように盛り上がり、休憩時間はあっという間に終わりを告げる。
「申し訳ありません、セドリック様。大切な休憩時間でしたのに、熱くなりすぎてしまいました」
やっと落ち着きを取り戻してきたシェルリアが己の失態に気がつき慌てて謝ると、セドリックは楽しそうな笑い声を漏らした。
「それはお互い様だと思うよ。それに、すごく楽しかった。まだまだ話したいことはたくさんある」
「ふふふ……そうですね。まだ話したりない気がします」
「それじゃあ、また待ってるよ」
「はい、また」
そうして軽い挨拶を交わし小屋を後にしたシェルリアはふっと我にかえる。
「あれ、私……流されるままに次の約束しちゃってない?」
気がついたところで訂正などできるはずもなく、再び頭を抱えることになるのだが、約束を果たすためにシェルリアが再び小屋を訪れた際、小さな本棚の中身が薬草の図鑑だらけになり、お出迎えの軽食がより豪華になっていたのは余談である。
緊張を上回ったのは[薬草への]愛




