理想と現実
謝罪の体勢からシェルリアが頭を上げた時、セドリックは普段と変わらぬ爽やかな微笑みを浮かべていた。
「それじゃあ、これ以上の長居はライラさんに怒られそうだから、これで失礼するよ」
「あ、はい! わざわざ足を運んでいただいてありがとうございました」
律儀に礼を返してくれるシェルリアにセドリックは片手を上げて応えると、白いローブの裾を翻し、颯爽と青いカーテンの隙間から抜けていく。背にシェルリアからの視線を感じ、一度振り替えってニコリと甘い笑みを返す余裕すら見せた。
けれど、カーテンとの距離がある程度あいた瞬間、セドリックは足を止め、身体の力を解すように大きく息を吐き出す。身体は心よりも正直で、セドリック本人が自覚している以上に緊張していたようだった。
「あんなにも頼み込んでこられたわりには、あっさりでしたのね」
「あれが俺の精一杯ですよ、ライラさん」
セドリックの背後から声をかけてきたのは、今回の協力者とも言えるライラ・ミケローニ伯爵夫人である。幼い頃から研究の手伝いでチェルシーと会っていたセドリックにとって、チェルシーの侍女を勤めていたライラは古くからの顔馴染みだ。
今回、セドリックは、少しの時間でいいので周りに気づかれずシェルリアと言葉を交わせる機会をつくってほしい、という無理難題なお願いをシェルリアの上司でもあるライラにしていた。
「貴族社会を悠々と潜り抜けてきたセドリック様にしては、少し拍子抜けでしたね。チェルシー様が言うように白黒つけろ、とまでは申しませんけれど」
「……筒抜けですね。まぁ、頼みを聞き入れてもらった時点で予想はしていましたが」
セドリックは肩をすくめ、苦笑いを返すだけだ。そこに、セドリックとシェルリアの事情をチェルシーがライラに勝手に話していたことへの怒りは見られない。
それもそのはずで、チェルシーがライラへ寄せている信頼の大きさをセドリックはよく知っている。それに、ライラはセドリックの事情も十分把握している数少ない人物なのだ。シェルリアの上司ということもあるし、チェルシーが教えていてもなんら不思議ではない。
ただし、正直小言は遠慮したいところだった。
「わたくし、セドリック様がシェルリアとの面会を頼んできた時点で覚悟をお決めになられたのだと思っておりましたが、違うのでしょうか? 噂のことなどを考慮して人目を避けるのは理解しますが、セドリック様の出方次第では、わたくしも考えさせていただきますよ?」
すーっと眼鏡越しにライラの眼差しが鋭さを増す。チェルシーにも言えたことだが、ライラも部下に対して過保護である。まぁ、好意を寄せる女性を取り巻く環境としては安心でもあるが。
セドリックは困ったように眉尻を下げ、ライラの瞳と向かい合った。
「わかっています。でも、もう少し時間をください」
セドリックの顔に一瞬影が差す。それを敏感に感じ取ったライラは心配するような表情をセドリックに向けた。
「……シェルリアと過ごした日の記憶は?」
「そうですね……だいぶ消えていると思います。消えてしまうと確認ができないので、はっきりとはわかりませんが」
「そう、ですか……もしや、そのことで?」
ライラの瞳が悲しげに揺れる。そこにいるのはシェルリアの上司ではなく、幼い頃からのセドリックを知る一人の友人であった。
心配げな友人の姿を見て、セドリックは言葉を詰まらせる。
ライラの言いたいことはすぐに理解できた。つまり、記憶が消えることを気にしてシェルリアを口説けないのかと聞きたいのだ。
普段ならば迷わず『違いますよ。ちょっと怖じ気づいただけです』と笑って返すだろう。それが一番ライラに心配をかけないはずだ。だけど、一瞬心が揺れた。一人で悩み続けるよりも、さらけ出してしまったほうが楽に思えてしまった。
だからーー
「もしそれだけだったら、言えるのだろうか」
ポロリとこぼれた小さな弱音。
囁くような小さな自分の声を拾った瞬間、セドリックはハッと我に返り、にこりと笑った。
「なんてね。それじゃあ、ライラさん。仕事中にお邪魔しました。ありがとうございました」
そう言ってセドリックは早足で部屋を後にする。ドアを閉める際、ライラの呼び止める声が聞こえてきたけれど、セドリックは敢えて聞こえないふりをした。
赤い絨毯の敷かれた廊下を歩くセドリックの足取りは軽い。けれど、心は少し重かった。
セドリックは窓の外へと視線を向ける。木の枝を彩っていた赤や黄色の葉は、地面を染め始めていた。その情景を見ると、もうこの時期がきたのか、とセドリックは心がきゅっと軋む。
「……好き、か」
なにも考えず、心のままにさらけ出せればどんなにいいだろうか、とセドリックは時々思う。簡単に白黒つけられれば悶々と悩むことも、苦しむこともなく、自分の求めるものを手に入れられるかもしれない、と。
けれど、その選択をしたときに果たして彼女を幸せにできるか。その問いの答えをセドリックはまだ出せていない。
「だって、俺はシェルリアさんが退院した日のことだけ覚えてる」
花のように可憐な彼女の笑顔も。
嬉しさを全身で表すように飛び付いてきた彼女のぬくもりも。
速まる自分の鼓動も。
心が砕け散った彼女の表情も。
身体の芯にまで突き刺さってくる泣き叫ぶ悲痛な声も。
はらりと静かに涙する彼女の母親の立ち姿も。
あの日のすべてを鮮明にーー
「覚えてるから」
彼女の笑顔を見たい、側にいたい、自分の手で幸せにしたい。
それは紛れもなくセドリックの本心だ。そのためにはチェルシーが言ったように、はっきりと己の胸に宿る感情を伝えるべきであろうこともセドリックはわかっている。
しかし、それは夢であり理想でしかないのだ。
現実とはもっと複雑で、厄介で、簡単に変えられるものでもない。白黒なんてほとんどつけられなくて、いつだって灰色の中を誤魔化しながら生きている。
人の感情なんて特にそうだろう。
なにも考えず相手に感情をぶつけられるのは、何も知らない純粋な心を持つ子供くらいだ。相手がどんな反応をするかなんて二の次に、まっすぐ突き進む姿は見ていて清々しく、微笑ましく、羨ましくさえある。
けれど、セドリックはもう無垢な子供ではない。
自分の抱いた感情が彼女を苦しめることになるだろうことを知ってて尚ぶつけることもできず、だからといって彼女から離れるという選択すらできない、愚かな男でしかないのだから。




