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眠れぬ夜

 暗い廊下をランプの明かりを頼りに進んでいく。廊下の両側に等間隔に並ぶのはそれぞれの部屋へと続くドア。

 夕食時ぐらいまでは女性特有の高い声が建物のあちこちから聞こえてくるが、さすがに皆寝る支度を済ませ部屋で休んでいるだろう。


 こんな時間に女子寮の廊下を歩くのは、仕事で遅くなった者やこっそり遊んで帰ってきた者くらい。

 とはいえ、この寮にいるのは爵位を持つ家の娘たちなので、例え寮の廊下であってもフラフラと歩き回っている者は少ない。


 だが、シェルリアはランプ片手に目的地である共同の台所へと向かっていた。

 寮の中央に位置し、普段は食堂として利用されている場所の横。調理場とはまた別に設置されているそこには、寮に住む者が使える台所がある。


 料理ができるほど広くはない。そもそも、貴族令嬢は料理をしない。

 けれど、この寮に自分付の侍女はおらず、飲み物を飲みたければ自分でいれるしかないのだ。まぁ、仕事柄、飲み物を淹れるのは得意分野なのだが。


 シェルリアもまた例に漏れず、紅茶を淹れにきていた。

 台所に着いてすぐにお湯を沸かし始める。カップの準備をしながら、シェルリアは持ってきていた小さな袋から茶葉の包みを出した。モンスティ子爵領で採れた薬草でつくるオリジナルの茶葉だ。これは、気持ちを落ち着かせる効果がある。


 シェルリアはお湯が沸くのを待つため、近くにあった椅子に腰を下ろした。意図せず大きなため息が一つ漏れる。


 こんな夜遅くに寮内を徘徊し、紅茶を求める。普段は絶対にやらない行為だが、今のシェルリアには必要なことだった。

 というのも、全く眠れないのだ。



 セドリックから逃げるように離れ、王宮図書館の片隅で心と身体を落ち着かせ(特に顔を……)、チェルシーが頼んでいた本を借り、チェルシーの部屋へと戻った時にはもうすでに休憩の時間が過ぎていた。

 出迎えてくれた同僚のミリアとレイヤには少し心配されていたが、シェルリアが手に持っていた本を見て王宮図書館に寄っていたのだと納得してくれた。


 その後の仕事も普段通りできたはずである。いや、普段以上に働けたと言ってもいい。仕事をしていると頭は勝手に作業のことを考えてくれるし、心を無にできた。


 シェルリアの心が再び不安定にぐらついたのは、チェルシーに僅かばかりの時間をつくってもらった時だ。

 チェルシーは借りてきた本を転写してほしいという理由をつけてシェルリアと二人だけの空間を作ってくれた。


 二人になってすぐ、チェルシーは口を開く。



『何かあったのかしら?』



 その声色は優しげで、浮かべる微笑みは神々しい。いつも見慣れているチェルシーそのものだった。シェルリアは意を決し、勢いよく頭を下げる。



『ご無礼を承知でお願いがございます。忘れ屋のお手伝いを辞めさせていただけませんでしょうか?』



 シェルリアの言葉を聞いたチェルシーは、探るようにシェルリアを見つめた。口元は笑みを浮かべたままだが目は真剣だ。



『頭をお上げになって? シェルリアがそう望むなら、辞めて結構ですよ。わたくしが勝手に決めたことですしね。だけど、理由を聞いてもよろしいかしら?』



 顔を上げたシェルリアは口を開くも音にならず、スカートを握りしめた。シェルリアの頭の中を駆け巡るのは、不安や恐怖、そして一種の迷い。

 この言葉を口にすれば全てが終わる。それは自分が望んだことなのに、手放すことを恐れるように口がカタカタと震えた。



『シェルリア?』



 シェルリアはチェルシーの呼び掛けにハッとする。これ以上チェルシーの時間を無駄にしてはならないと、頭の隅の冷静な部分がシェルリアに訴えかけてくる。



『嘘を……セドリック様に、もう嘘をつき続ける自信がありません』



 言い終わる前にシェルリアは俯いた。じわじわと目尻に集まる熱を、目を見開くことで何とか誤魔化す。



『……わかりましたわ。それでは、そうしましょう。わたくしからセドリックには伝えておきます』

『…………申し訳ございません。よろしく、お願い致します』



 シェルリアはそのまま頭を下げた。そんなシェルリアにチェルシーの言葉が続く。



『名前を偽ったこともわたくしが』

『……はい。ありがとうございます』



 優しく穏やかな声だった。きっとチェルシーはシェルリアを想って申し出てくれたに違いない。

 セドリックとシェルリアでは身分も立場も違いすぎる。シェルリアがセドリックを騙していたとなれば、処罰は免れまい。


 実際にセドリックがシェルリアを罰するかは別として、チェルシーがシェルリアを庇えば悪いようにはならないだろう。


 けれど、シェルリアはチェルシーの申し出を複雑な気持ちで受け止めた。

 これは完全に逃げだ。忘れ屋の手伝いをやめる以上、王女付の侍女であるシェルリアが王宮特別薬師のセドリックと会う機会はなくなるはず。つまり、嘘を直接謝ることができないということである。


 面倒ごとに関わることなく、この状況を終わらせられる、と素直に喜ぶこともできず、だからといって嘘を告白してセドリックの不快に歪む顔を見る勇気もない。


 シェルリアは部屋を去る際にかけられたチェルシーの言葉が夜になった今もなお耳から離れてくれなかった。



『大丈夫よ、シェルリア。セドリックが貴女に怒ることはないでしょうから』



 チェルシーはセドリックがどう思うのかを理解している。それが長い付き合いからくる信頼によるものなのか、セドリックの人となりを知っているからなのか、シェルリアにはわからない。

 それでも、シェルリアは嘘を告白する機会を与えてもらいながら、その機会を自ら蹴った。チェルシーのようにセドリックの優しさを信頼できず、自分の心に傷をおうことから逃げたのだ。


 自分の心の弱さや醜さ、卑怯さ。そんなものが、時間が経つにつれてシェルリアの心に重くのし掛かってくる。

 それと同時にじわじわと寂しさが沸いてくるのだから、どうしようもないなとシェルリアは己に呆れてしまった。



 シェルリアは重々しい動きで紅茶を淹れ始める。辺りに漂う香りを肺一杯に吸い込んでも心の靄は晴れてくれない。


 窓の外には雲一つない夜空が広がっているというのに、月や星の光がやけに鈍く見える。シェルリアはそれでも静かに外へと目を向けながら、紅茶を口へと運んだ。




 時を同じくして、王宮でもまた美しい夜空を眺めている者がいた。


 他に誰もいないその部屋は、侍女も護衛の騎士も足を踏み入れたことがない。特別な人しか入れない彼女の研究用に与えられた部屋だ。


 コンコンと控えめなノック音が部屋に響く。続いて開いたのは、廊下に続くドアではなく、本棚を模した隠し扉だった。

 寒さを凌ぐように羽織られたガウンの裾を翻し、窓の外から室内へと視線を移した紫の瞳がふわりと笑みを浮かべる。



「待っていましたわ」



 そう言ってチェルシーが出迎えた相手は、いつもの白いローブを脱ぎ捨て、黒い衣服を纏ったセドリックだった。

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