幼き頃の記憶 (後)
あの日から、彼は毎日シェルリアの部屋の下に来るようになった。流行り病が子供に感染するものだったため、屋敷の二階と外というかなり離れた距離でしか会えはしないけれど、彼と会うことはシェルリアの楽しみの一つだった。
「シェルリア、体調は?」
「今日も良い方だと思う。咳と熱はあるけどね」
「咳と熱かぁ……」
難しい顔をして「うーん」と唸っている彼を眺めながら、シェルリアはクスクスと忍び笑う。固かった表情も徐々に解れ、少しずつ感情を見せてくれるようになった。それが嬉しいと言ったら彼はどんな顔をするだろうか。
彼はシェルリアが領主の娘だと知っても全く態度が変わらない。
どんなに親しい領民の子供でも、どんなに一緒に野山を駆け回っても、その関係は領主の娘と領民で、言葉遣いや態度は少しよそよそしいのが普通だったため、彼の隔たりのない態度がとても新鮮で、シェルリアはこの時間が大切に思えた。
「じゃあ無理はさせられないね。早くベッドに横になったほうがいい」
「でもせっかく会いにきてくれたのに」
「早く治せばたくさん会える。そうだろう?」
シェルリアはむすっと頬を膨らます。
ずっと部屋にこもりきりで、世話をしてくれる使用人やそばにいてくれる母にしか会えないシェルリアにとって、彼との面会は短くても凄く特別なものなのに、彼はわかってくれない。そんな不満や寂しさがシェルリアの心を萎ませる。
「……もし治らなかったら」
「そんな弱気じゃ治るものも治らないよ。どんな手を使っても、必ず治してあげる。約束する」
だからベッドに戻るんだ、と彼に言われてしまうとシェルリアは何も言えなくなった。
「わかった。じゃあ、治ったらたくさんお話ししようね」
「ああ」
シェルリアは大人しくベッドに横になる。窓の外へ視線を移せば、金色の美しい髪を風になびかせ、森の方へと歩いていく彼が映った。
彼がモンスティ領に来た目的は何か。
薬草はなんのために探しているのか。
彼の名前はなんなのか。
シェルリアは彼のことを何一つ知らない。彼が教えてくれないということは、知られたくないことなのだろうと思い、なかなか口に出すことができなかった。
そして、彼と会って数日後、モンスティ領に王宮特別薬師がやってくることになった。
申請したが来てくれるだろうか、と不安がっていた両親がとても喜んでいたことをシェルリアははっきり覚えている。
「お母様、これで皆が救われるといいね」
シェルリアは毎日のように空いた時間のほとんどを一緒に過ごしてくれていた母に笑いかけた。
「ええ、そうね。シェルリアも早く元気になってちょうだーーゴホッゴホッ」
「お母様、大丈夫? 少し顔色が……」
「大丈夫よ。少しむせてしまっただけ」
安心させるようにシェルリアの頭をそっと優しく撫でた母の手はとても温かく、シェルリアは誘われるように瞼を閉じた。
その後、流行り病にかかった子供たち全員がモンスティ子爵の用意した建物に集められることとなった。もちろん、例外はなくシェルリアもである。
モンスティ領にある病院は大きなところがないため、患者は複数の病院に振り分けられていたが、器具などを移動させ、王宮特別薬師が一ヶ所で患者を診られるようにしたそうだ。
王宮特別薬師が来てくれると単純に喜んではいられないということである。屋敷から移動する際に久しぶりに見た父は、病人のシェルリアよりもゲッソリしていたように思う。
それから暫くは隔離のような状態が続いた。医者に王宮特別薬師、数人の看護を担当する者、と限られた人間としか会えず、領主の娘であるが故かシェルリアは個室だったため話し相手もいない。
退屈で心細い上に、苦い薬や副作用との戦いなど、幼いシェルリアにはとてもキツイ時間だった。
そんな苦痛な日々に光が指したのは、王宮特別薬師の調合した薬が効果を発揮し始め、体調が回復してきた頃。隔離されて二週間ほどが経っていた。
コンコンコンッと軽快なノック音がして、シェルリアは音のした窓へと近づいていく。少し高い土台に建てられた建物のせいだろう。離れていた時は気がつかなかったが、近づくにつれて窓の外にキラキラと輝きを放ち、風に靡いている金色が目に飛び込んできた。
シェルリアは考えるよりも先に窓へと駆け寄る。勢い余ってベチンッと窓にぶつかったシェルリアは、誤魔化すように急いで姿勢を正し、窓の外へと視線を向けた。
「元気そうでよかった」
そう言って彼は小さく笑いを溢す。その優しくて暖かい日だまりのような笑顔にシェルリアは自然と表情を崩した。
「会いにきてくれたんだね」
白シャツに紺のズボンというラフな格好にも関わらず、彼が輝いて見える。
例え窓越しでしか会話ができないとしても、あんな短期間しか会っていなかったシェルリアを訪ねてくれたことが素直に嬉しいと思った。
「もう会っても大丈夫だとお許しが貰えたから」
「お許し? 一体誰から?」
不思議そうに首を捻るシェルリアに彼が答えることはなく、にこりと笑みを深めるだけだった。その笑みを見て、これ以上聞いてはいけないのかもしれないとシェルリアは口をつぐむ。
「お見舞いだから花とか、何か持ってこようと思ったんだけど……」
「気にしないで。まだここから出られなくて受け取れないしね」
すまなそうに表情を曇らせた彼を見ていられず、シェルリアはおどけてみせる。そんなシェルリアにつられてか、彼はふっと笑いの息をもらした。
「退院したらお祝いに何かプレゼントするよ」
「ふふふーー楽しみにしてる」
シェルリアがそっと窓に手を触れれば、シェルリアよりも大きな手が窓越しに重ねられる。ドキドキと速まっていく鼓動で、生きている実感を噛み締めた。
「必ず治るよ。だから、あと少しだけ頑張って」
真っ直ぐ向けられる眼差しにシェルリアは小さく頷く。
彼の言葉は信じられると思えるから不思議でたまらない。
「元気になって、たくさんお話ししようって約束、忘れないでね」
「うん……忘れない」
その言葉と共に見せた彼の泣きだしそうな笑顔をどう受け止めればいいのか、今でもシェルリアはわからない。
ただ、彼との約束が守られることはなかった。
あの日から、彼には会えていない。
退院したシェルリアに残ったのは、見覚えのない紫苑の栞と喪失感や絶望感といった想いだけ。
『小さな薬師様』
それは、流行り病の熱が見せた夢で、苦痛から逃げるための妄想にすぎなかったのかもしれない。九年経った今、シェルリアはそう思うようになった。




