幼き頃の記憶 (前)
ーーねぇ! 何を探してるの?
声をかけたのは気まぐれに過ぎなかったと思う。たまたまその日は熱が落ち着いていて、体調がよかったから。
前日も朝から森へと続く細道を駆けていき、夕方頃に服をボロボロにしながら帰ってきていたのを、ベッド横の窓から眺めていた。
そして、次の日もその子は覚束ない足取りで森から帰ってきた。
モンスティ領は領地の半分を山と森が占める自然豊かな地である。そのためかモンスティ子爵家も領主とは言え、お金持ちの貴族ではない。領民の住む家よりは遥かに立派だろうが、お金持ちの平民の家と比べれば屋敷の大きさは負けるかもしれない。
唯一誇れるのは綺麗な庭と歴史を感じさせる外観だけ。これも好みの問題だが。
それでもシェルリアは自分の部屋から眺める景色が好きで、屋敷も気に入っていた。
畑でも薬草は育てているが、希少価値のある薬草は森で自生しているものを採ってくるしかない。そんな薬草を求めて森へと挑んでいく人達は、必ず森の門番とも言えるモンスティ伯爵の屋敷の横にある道を通っていった。
それがちょうどシェルリアの部屋から見えるのだ。
時にはシェルリアの遊び場として、貴重な薬草の採取場所として、美しい景色として、人の命を奪う場として……いろんな顔を見せてくれる森がシェルリアは大好きで、そんな森にそれぞれ違った心持ちで挑んでいく人々をいつも応援していた。
だから、窓の外を眺めるのはシェルリアの癖と言ってよかった。その子を見つけたのも、偶然ではないだろう。
窓を少し開けひょこりと顔だけ出し、二階の部屋から声をかける。道があると言っても屋敷のすぐ横ではないため叫ぶと表現した方が正しい。
案の定、流行病にかかっていた十歳のシェルリアは、咳が止まらなくなった。
声をかけられた子供はギョッとしたように目を見開くと、少し辺りを気にしつつも、低い塀を乗り越えて屋敷のそばまで近づいてくる。
「だ、大丈夫?」
心配と少しの警戒が入り混じった声が空気を震わす。それが『小さな薬師様』と初めて交わした言葉だった。
太陽の光を浴びてキラキラと輝きを放つ金色の髪がとても綺麗だったことを覚えている。歳はシェルリアと同じか少し上の印象で、お人形のように整った顔立ちは性別を瞬時に見分けられないほどだった。
顔や服に泥がついていてお世辞にも綺麗とは言えない格好にも関わらず、その汚れすらも自然に愛された証拠であるように見える。あどけなさの中に何かと戦っているような芯の強さを感じさせる真っ直ぐな瞳。シェルリアはその危うい姿に見惚れてしまった。
咳が落ち着いたシェルリアは取り繕うように笑みを浮かべて「大丈夫」と答えてみせた。そして、もう一度何を探しているのか聞くと、少年は幾つか薬草の名前を挙げた。
「どうしても必要なんだ。ここで採取できると聞いて……」
「聞いたことはあるけど、最近、採れたって話を耳にしたことないわ」
「そう、か」
その時の少年の顔があまりにも悲観にくれていてシェルリアは焦った。薬草を探している者に、ないと宣告するのは、病が治らないと同じくらい重く辛い言葉である。
それは、今現在、治療法のわからない流行病にかかっているシェルリアには痛いほど理解できることだった。
「で、でも! ないと決まったわけではないと思うの。そ、それに他の方法だって! 薬師様はその薬草しか効かないとおっしゃっていた?」
十歳なりのフォローの言葉が並ぶ。大人のように最善の言葉を選べない自分の語彙力のなさに、シェルリアは打ちひしがれた。
けれど、少年はシェルリアが勇気付けようとしていることを汲み取ったのか、ぎこちない笑顔を返してくれる。
「うーん、そう言われるとどうかな。他の薬草でもいけるかもしれない」
「薬草に詳しいの?」
「まぁ、これでも薬師の卵だから……いや、だった、かな」
シェルリアは少年の言葉に大きく目を見開いた。自分と変わらない歳の子供が、もう薬師の卵だという事実に驚いていたのだ。
だから、少年の後半の呟きなど耳には届いていなかった。
「凄い! 薬師様になるのね!」
「まぁ……どうだろう」
「羨ましい。私も薬師だったら、病で苦しんでいる領民を自分の手で助けられるのに」
シェルリアのその言葉に、今度は少年が驚いていた。
「君は薬師になりたいの?」
「なれないのはわかってるの。でも、人の命を助けられる力って、とても素晴らしいものでしょう? 救えるチャンスを待っているって、特別なことだと思うわ」
少し知識を得ただけでは誰も救うことはできない。
どんなに大切な友人達が病に苦しんでいようとも、領民が助けを求めてこようとも、モンスティ子爵の娘でしかないシェルリアにできることなどたかが知れているのだ。
領地を守り、領民を救うことは領主の役目である。シェルリアはそのために幼い頃から色々なことを学んできた。
けれど、どんなに学ぼうとシェルリアに直接救う力はない。数日前まで一緒に遊んでいた友人が次々に倒れていこうと、両親のようには動けず、それどころか自分も倒れてしまった。
その歯がゆさと居たたまれなさに、幼いシェルリアの心は押しつぶされそうだった。
「もし私にも貴方のような力があれば……みんなを助けられるのに」
赤い瞳が大きく揺れ、シェルリアの頬を涙の粒が流れ落ちる。悔しくて悲しくて、涙は一向に止まってくれず、シェルリアは両手で顔を隠した。
「……俺は君が思っているような立派なやつじゃない」
絞り出された小さな声にシェルリアはビクリと肩を揺らした。彼がまとっていた穏やかな雰囲気とは明らかに違う声。
シェルリアは恐る恐る顔を覆っていた手を外す。見上げてくる少年は眉尻を下げ、情けなさそうに表情を歪めていた。
「俺は一人で薬を調合できないような情けないやつだし、今だって自分のことでいっぱいいっぱいだ。薬師だって、薬学が楽しかったから続けられていたようなもので、昔から決められていた道だと思ってた。でも……」
その瞬間、ふわっと二人の間を強い風が吹き抜けた。シェルリアはハッと息を飲む。
「君が思っているような薬師になれたら素敵だって、今、ちょっと思った」
そう言ってほんのり頬を赤らめ、はにかんだ少年の笑顔は、シェルリアの心拍を早めるのに十分な威力があった。




