聖女の恩寵
「はぁ、はぁ、はぁ――」
身体強化魔法を使っていても息が切れるくらい、全力で走っていた。
振動のせいか、時折ラウルが呻くように小さく声を出す。
傷に響くか、と心配する気持ちもあったが、今は何よりも本職の治癒術士に一秒でも早く診せることが大事だと考えて、走る足は止めなかった。
それに、ラウルが声を出しているということは、少なくともまだ生きているという安心感もあった。
陣地はそれほど遠くはない。増援を送ったり、負傷者を収容したり、連携を取れるように近めに構築されている。
しかし焦るユミールにとっては、そんな距離でさえどこまでも遠くにあるように感じられた。
――早く、早く。
急げば急ぐほど、足が重くなるような、どれだけ走っても目的地に近づかないような錯覚。
そんな中で、ユミールの背中から小さな声がかかる。
「……ユミ……ル」
「馬鹿、喋らなくていい」
「……ごめ……ん」
「っ……だから!」
そんなことに体力を使うな。ちゃんと分かってる。何も言わなくたって伝わっているから。
俺たちはずっと二人で競い合って生きてきた。二人一緒に強くなると約束した。
だから――こんなところで、死ぬんじゃない。
ユミールはそんなことを思いながら、ただ前だけを見て走った。
走って、走って、走って――。
いつからだろう。
気付いていたけれど、気付かない振りをして。
そうして陣地に駆け込んで、大声で叫んで、治癒術士を呼んだ。
何人もの騎士の人が駆け寄ってきたが、今ここにいる一番優秀な治癒術士は三年C組のフィリス・ファインマンだと言われ、すぐにフィリスがラウルの治療に当たる。
フィリスの治癒魔法の出力は非常に高く、現役の騎士を押しのけるだけの確かな実力が感じられた。
それでも――。
「――すみません、私にはこれ以上は……」
フィリスはそう言って目を伏せる。
治癒魔法は身体強化魔法の一種であり、身体の治癒能力を強化して修復させるものである。
それはつまり最低限、本人の治癒能力が備わっていてこそ機能するものだと言えた。
ラウルは陣地に運び込まれたとき、すでに息をしていなかった。
ユミールも、背負っているラウルから、呻くような声が聞こえなくなったことに気付いていた。気付いていて、気付かない振りをして、ただ走って。
分かっているけれど、分かりたくなくて。
頭の中がぐちゃぐちゃになって、ついさっきの出来事や、昔の思い出なんかが、ごちゃまぜにユミールの頭に浮かんでは消えていった。
「馬鹿野郎……お前一人で焦って強くなろうとしやがって……二人一緒に強くなるって約束だっただろうが……俺を置いていこうとするから……だからこんなことになるんだよ……おい、目を開けろよ……俺のことを無視するなんてらしくないだろ……なあ、ラウル、一人でどこ行くんだよ……俺を置いていくつもりかよ……なあ、返事しろよ!」
ユミールはラウルの遺体にすがりつくように、泣きながら声をかけ続けた。
騎士たちにとっては慣れた日常にすぎないが、それでもまだ若い学生の死には暗い表情で同情の色を瞳に浮かべている。
同じ学生のフィリスはユミールの姿を見て、顔を伏せながら小さく嗚咽を漏らしていた。
そんな暗い雰囲気の中、突如として大きな魔力の揺らぎが発生する。
次の瞬間、何もなかったはずの空間に人の姿が現れる。
セレーネ、アクリス、そしてキース。
セレーネの空間魔法を初めて見た者は驚きの表情を見せるが、声を上げることはしなかった。
キースは周囲を見回して冷静に状況を把握すると、治癒を担当していた様子のフィリスに声をかける。
「フィリス、ラウルの心臓が止まってどれくらいか分かるか?」
「え……はい、おそらく、10分ほどかと」
「そうか……アクリス」
「はい、大丈夫です」
キースはアクリスに確認するように声をかけると、アクリスは安心させるような声色で返事をした。
そうしてアクリスはラウルの傍まで歩いていく。
「アクリス先生……?」
「ユミール君、大丈夫だから」
優しい言葉でユミールを落ち着かせるようにして、そのままラウルの横にしゃがみこむアクリス。
そして――。
「――聖女の恩寵」
重ねた両手をラウルの傷口に向けて、魔力を解放してその術式を走らせる。
それは聖女の家系と謳われたフォルクローレ家に伝わる特別な治癒魔法。本人の治癒能力とは無関係に、身体の損傷を修復する常識外れのそれは、死後数時間程度であれば蘇生することすらも可能にする、正しく奇跡の力だった。
日々命が失われていく戦場で、その力は誰もが羨み、欲するものに違いない。
心優しいアクリスは請われれば、その力を使い続けるだろう。
だがこの力には小さくない代償がある。そんな力を身体の弱いアクリスが使い続ければどうなるかは、想像に難くない。
しかし、そうと分かっていて使わせてしまった。それも多くの人が見ている目の前で。
キースは奇跡のような光景を目の前にしながらも、そんな後悔が先に来ていた。
アクリスのよる治療が終わる。するとラウルはすぐに呻くような声を上げる。
「うっ……かはっ! ごほっ、ごほっ――」
「ラウル!」
アクリスが無理やり身体を治したことで、ラウルは身体に停滞していた血の混じった吐瀉物を吐きだし、何度も咳込んで呼吸を整えようとした。
アクリスはそんなラウルの背中を、呼吸が整うまで優しくさすっている。
「ラウル君、落ち着いて、ゆっくり息をして……」
「はぁ……はぁ……アクリス先生……? 俺、なんで……」
混乱した様子のラウルに、余計な情報を与えてさらに混乱させる必要はないと、アクリスは何も説明せず優しく微笑むだけだった。
しばらくして呼吸が落ち着いたラウルは説明してほしそうに周囲を見渡すが、その後急激に眠気に襲われて意識を失う。
ただ静かに寝息を立てていることから、もう何も心配はいらないことは誰の目にも明らかだった。
そうしてキースが静かに口を開く。
「ユミール、今日はラウルの傍についていてやれ」
「……はい」
「他の者も、ここで見たことは他言無用だ。もし何か訊かれたら、普通に治療が間に合ったとでも答えてくれ」
「わかりました」
キースの言葉に、疑問の言葉もなく従う騎士たち。
そうしてアクリスを連れて、セレーネの元に戻るキース。
「アクリスさん、生徒を助けてくれて、本当にありがとう」
「いえ、私にとっても大事な生徒ですから……それに」
「……?」
「キース先輩に貸しを作れる貴重な機会ですから」
そう言って、普段どおり明るく、いたずらっぽい笑顔を浮かべるアクリス。
それが彼女なりの必死の強がりであることに、当然キースは気付いていた。




