九十六
第四章開幕です!
息を吐く。
屋敷の裏の森にぽつんと立ち尽くした私は、剣を手にしたまま辺りに意識を巡らせていた。
この森に魔物はいない。今日は天気が良く風も穏やかで、害のない小動物の鳴き声だけがどこからともなく聞こえてくる。その一つ一つを耳で拾いながらじっと待ち続けていると、微かに混じる草木の揺れる音。
背後。それから正面にも。
音の大きさから相手は私よりもずっと大きな体を持っていることは間違いない。単純な力では敵わないだろう。押さえつけらえたらひとたまりもない。音から拾える情報は意外と多いのだと最近知った。
けれど私はその場から一歩たりとも動かなかった。なぜならそれが陽動であることに気付いているからだ。
「指南役、討ち取ったり!」
「おい待て馬鹿!」
頭上からの気配。それからやけに明るい弾む声と焦りを含んだ怒鳴り声。
当たり前だがバレバレのその攻撃をサッと避けた私は、降って来た男を剣の側面を使って豪快に弾き飛ばす。木の幹に背中から激突して目を回した男は、そのまま動かなくなった。
「だから言ったのに……!」
そうして次々に姿を現す男たち。上手く気配を隠していた者も気が緩んだのか居場所が丸わかりだ。数はざっと三十くらいか。
魔力感知を使わなくても人の気配をなんとなく掴めるようになったのは、この辺境伯領に留まってから数日の訓練を経たおかげである。
せっかくだから数いる兵士たちと毎日人を変えながら実戦形式の訓練を行なっているのだが、相手が私のような子供となるとどうにも遊び感覚になる者もいるらしく、こういうことがまれに起きるのだ。
しかしこうなってしまってはもう訓練にはならないのはわかりきっている。だから今日のところはさっさと終わらせる為に、私は森を駆け抜けて周囲にいる兵士たちを一人残らず叩きのめした。
まあ、対人戦の経験が圧倒的に少ないのが私の悩みだったわけで。こうして訓練に混ざれるだけでも有り難いことだと思っておこう。
執事を通じて兵士たちに指南役と私を紹介した父――ガレオラスにはそれなりに感謝はしているところである。
腰の鞘に剣を戻せば、一番最初に目を回した兵士が起きて悔しそうに声を上げたところだった。
「くっそー!今回は行けたと思ったのに!」
「途中までは良かったよ。途中まではね」
子供のかくれんぼじゃないんだから。相手を見つけて声を上げるのは戦闘訓練としては褒められたものじゃないことくらいわかるだろう。そんな私の言葉に頷いた他の兵士にも、そいつは怒られていた。
ここ数日で屋敷周辺にいる兵士たちの個々の能力や性格なんかも見えてきたところではある。
こういうお調子者もたまに見かける。雰囲気が乱れそうだと思ったのは最初だけで、そういう奴ほどいい動きをするからなかなか侮れないのが不思議だった。少々詰めが甘いのも総じて同じなのだけれども。
それでも辺境伯領の兵士たちは基本的に真面目で訓練に熱心なところがあるからか、全体の質は良いと感じることはできるのだ。それがほんの少しだけ誇らしくも思えたり。
近いうちに出ていく私にはあまり関係のないことだけど、でも、ここで暮らしていた頃には見えなかったものを見ている今をできるだけ大切にしたいとは思っている。
兵士たちとの交流もまた然り。特にお調子者の兵士は気軽に話しかけて来てくれるから有り難い。
「指南役はこの後のご予定はあるんすか?」
「リオの仕事を手伝う予定だ。ガレオラスはまだ動けないからな」
「リオ坊ちゃんも大概ですけど、指南役もまだ幼いのに俺たちよりも働かんでくださいよ。大人の立つ瀬がないっす」
「ならまずは魅了に自力で抗えるくらい強くなってもらわないとな」
「あ、あれは不可抗力……!」
あまり笑えない話題だが、この時ばかりは周囲で聞いていた兵士たちからも笑い声が聞こえてきた。
リオの母親であるレイランによる、兵士たちへの魅了について。
幸いなことに砦にいた者にその魔術は届かなかったようなのだが、屋敷の周辺にいた数百という兵士たちが被害に遭ったあの事件。
一時はその精神までもを侵食され元に戻るかもわからなかった魅了による影響は、私の母である今は亡きクラヴィアの残した魔術によって巻き戻された。
これは後から聞いた話だが、魅了を受けた兵士の中にあの時のことを覚えている者は誰一人いなかったという。
魔術具による魔術の強化があっての効果だ。今後あのようなことは二度と起こらないと信じたいが、万が一に備えておくのは決して無駄ではないはずだ。
私の言葉が冗談ではないことも、きっと彼らはわかっている。一人としてその目は笑ってなどいなかったから。
そんな話の最中、不意に腰の収納袋の口から淡い光が漏れ出したことに気付く。
最初は毎回驚いていたのだが今はもう私も慣れたもので、光の中から飛び出した紙を瞬時に掴むこともできるようになった。折り畳まれたそれを開けば見知ったリオの字が並んでいる。
これは、ルトの転送の術式を用いた手紙のやり取りだ。今後のことも考えて、私とリオの間に連絡手段として確立させたものである。
元々ルトの術式を使っていたリオは、教えればすぐに使いこなせるようになったのでたった数日で私たちは互いがどこにいてもこうして連絡ができるようになっていた。
大変便利なのでルトやシンディともできれば良いのにと思ったのだが、どうやら術式は描けても扱いが難しいらしく今のところこれが使えるのは私とリオだけなのだ。
「ああ、どうやら客が来たみたいだ。戻らないと」
紙に書かれていたのは、教会から派遣された者が到着したという知らせだった。
こちらが求める能力を持った教会の魔術師をネルイルが申請しておくと言って別れてから十日あまり。早くもその人物がやって来たというわけだ。
当主であるガレオラスがまだ本調子ではない今、本当に使える人間ならこんなに有り難いことはない。
ガレオラスに変わってリオと執事、それから顧問として私が初期の契約の場に立ち会う手筈となっている。そもそもこの件をネルイルに頼んだのは私だからな。知らせが来たのはその為だ。
そうして兵士たちが引き続き訓練に励む場から挨拶をして抜け出した私は、足早に屋敷に向けて歩き出した。
それにしても、今日は本当に気持ちのいい日和である。森の中を進みながら青い空を見上げて思う。ローブを着ていてちょうどいいくらいの気温で、太陽の日は温かく空気は適度な湿気を含んでいる。
最近昼間は下ろしたフードの中ですよすよと寝ているらしいシロにとっても心地のいい気候だろう。
夜は私がベッド代わりにさせてもらっているのだから、昼間くらいはこうして逆転している時間があったって構わない。
私と同じで睡眠が絶対に必要というわけでもないのだけれど、どちらかと言うと人間とは違ってシロは夜行性なのである。それが最近知ったシロの生態の一つだった。
私はフードの上から軽く触れ、その存在を確かに感じながら足早に屋敷を目指す。
シロの睡眠が増えたことに、この時の私は少しも疑問を抱いていなかったのである。




