九十五
ダンスホールの隅に置かれた大きな長椅子は、まだ満足に動けないガレオラスの為に兵士たちが用意してくれたものだ。周囲に視界を遮るものは無く広い空間を一望できるようになっている。
食事も他の者と同じようにとはいかないので、消化の良い柔らかいものを料理人に頼んで別に作ってもらった。椅子の側に置かれた小さなサイドテーブルにはその幾つかの料理が綺麗に並んでいて、ガレオラスの様子を見ながらそれを運んでくるのは見覚えのある執事である。
アスハイルと戦って敗れ部屋に転がされていた白髪の執事は、あの後ガレオラスの温情により罪を免れることになった。
屋敷内の実権を握りつつあったレイランに逆らえなかっただけで、犯罪集団との直接の関わりが無いことをガレオラスが証人となり兄妹に訴えた結果である。
もし今後彼が何かを仕出かすことがあるのなら自分が全ての責任を負うと言い切った辺境伯に、流石のアスハイルも根負けしたらしい。
執事の方も二度とこのような真似はしないと誓いを立てていたので、一先ず様子を見る方向で身柄は辺境伯に預けられることとなったのだ。
そんな二人がいる場所までリオに手を引かれて歩く。
ホールの壁際にクロスのかかったテーブルが並び、置かれた料理を手に談笑する人々が一斉にこちらを見たのがわかった。
ガレオラスの一人息子の登場である。
きっちり正装を纏った姿のお披露目は初めてなんじゃないだろうか。視線を集めるのは仕方がないとして、それと一緒に歩く私の居心地の悪さたるや。
私もガレオラスの子であることを知っている人間があの執事以外にいないせいで、変な噂が流れないかが今日の一番の心配事である。婚約者だと思われたらどうしよう。相手は腹違いのだが弟だぞ。
「父様!」
私がそんなことを悶々と考えているうちに、あっという間に目的地に辿り着いてしまったらしい。
視線を集めまくって登場した私たちには既に気付いていたガレオラスが、こちらを見て目を細めている。それがなんだか気恥ずかしくて私はふいと目を逸らした。
「二人とも、よく似合っているな」
「ありがとうございます!」
「……どうも」
目を合わせないままドレスの端を摘み上げて軽く膝を折って礼をしていると、側にあった別の椅子を執事に促されたので私はさっさとそこに腰掛けた。
流石にこの状況でガレオラスの横に座るわけにはいかないからな。これならリオの友人くらいで説明が付くと言うものだ。
やっと落ち着けたと開放感からため息を吐く私とは対照的に、リオは離れてしまった手を寂しそうに見つめながらガレオラスの横に座っていた。
そうして執事が持ってくる料理を摘みながらホールの中を眺めていると、しばらくして見知った顔が揃ってこちらに歩いて来るのがわかる。
深めの濃い色を選んだルトとアスハイルに対し、シンディは青、ネルイルは緑の鮮やかな目立つドレスを着ている。
流石に人に見られる踊りを生業にしているせいか、シンディは堂々としているので歩くだけで人目を引く。それをエスコートするアスハイルが負けていないところがまたすごい。
その後ろを歩く二人は……もともとは貴族の生まれである兄妹とは違い、こんな場所に出るのも初めてだと言っていたルトがネルイルにエスコートされているような状態である。素人感が丸出しで、それが逆に視線を集めていた。
しかし、その見た目のせいかうっとりしている女がちらほらといるのが不思議でならないのだが。ああいうのが良いと思う人間もいることを私はこの時初めて知った。
「よう、待たせたな」
「わぁっ、エルがドレスを!リオとお揃い、素敵ですね!」
先に到着したアスハイルとシンディが、ガレオラスに軽く挨拶をしてから私の側にやって来る。
どうやらアスハイルは朝から料理人を手伝っていたようで、仕込みを全て終わらせてから来たので少し遅れていたらしい。
今日は兵士と使用人合わせて数百人の人間が屋敷に集まっている。料理人にはほどほどで良いとガレオラスも伝えていたはずが、会場に並ぶ料理の種類はかなり多く気合が入っているのが窺えた。後で労いの言葉をかけてやらねばなるまいな。
そんなことを考えていると、遅れてネルイルがルトの手を引いて、同じようにガレオラスに挨拶をしてから私たちの側にやって来る。もう既に疲れ切っているルトの様子には苦笑するしかない。
「うう……僕は隅っこで絵を描かせてもらえたらそれでよかったのに……」
「ダメよ。あたしをあの目立つ二人と並ばせないで」
逃がしてなるものかとガッチリ腕を掴んでいるネルイルの笑顔が怖い。
確かにこの場でアスハイルとシンディの横に一人で立つのは相当勇気がいるだろう。気持ちはわからないでもないので、私はルトにまあ頑張れと他人事のように言葉を送ることしかできなかった。
執事が持って来た果実水が皆の手に行き渡り、それぞれが軽くグラスを掲げてから口を付ける。
シロがよく出してくれる林檎、クランデアの桃、スイストンのオレンジ。旅の中で果物もいろいろと食してきたが、私にとってはこの辺境伯領で獲れる木苺が一番身近な果物だ。
今回用意された果実水も木苺を煮出したものから作られているようで、数年ぶりに味わうその甘酸っぱさが酷く懐かしく感じられた。
美味いな、と声を上げるアスハイルに続いて一気に飲み干したシンディも気に入ったのかお代わりを申し出ている。それがなんだかとても嬉しい。
そうして喉を潤した後はこの会の本番が始まっていく。
早く早くとシンディに急かされて仕方ないなと私は苦笑しながらグラスを置いて椅子から降りた。
魔力を広げる。この広いダンスホールの空間を埋め尽くすように。もちろん人体には影響が出ないくらいの薄い濃度である。兵士や使用人が多くいるこの空間で、目には見えないそれに気付いた者は今のところ誰もいない。
その中で私は幻影魔術の術式を展開させていく。天井と床に現れた術式に会場にいた者たちがようやく異変に気付き始めた頃、空間に出現した光に縁取られた鍵盤は数日前の戦いで屋敷の上空に現れたものと同じだった。一度目にしていた者たちからワッと期待を含んだ歓声が湧き上がる。
ならばやはり、まずはこれか。
思い浮かべたあの曲がゆったりと流れ始めると、ざわざわとしていた空間もその音に聴き入るように静まり返っていった。柔らかな音と、舞い始める光の粒。差し出した手に落ちた光が風も無いのにまた昇っていく。
側にいるガレオラスの様子を伺えば、浮かぶ鍵盤に思いを馳せているようだった。
そんな中でよし、と気合を入れたのはアスハイルだ。
彼はどこか得意げに笑いながらシンディに手を差し出していた。
「お前の踊りは見応えがあって良いが、たまには人の手を取ってみるってのはどうだ?」
「ふふ、良いですね。負けませんよ」
おい待て相手は本職だぞと止める間も無く行ってしまった二人を目で追っていると、サッと人が端に寄りホールの中央に空間ができる。
「お、おい、ネルイル。いいのかあれ……」
ちびちびとゆっくり果実水を堪能しているネルイルに思わず目を向けると、あっけらかんとした声が返ってきた。
「お兄ちゃん、あれでダンスは得意だから大丈夫じゃない?」
なんだそれ。意外性の塊かあの男。
視線を戻すと始まったダンスはそれはそれは見事なものだった。
指先まで洗練されたシンディの動きは相変わらず人の心を惹きつける。難しさを感じさせない巧みな足運びも、動きに合わせて揺れる藍色の髪も、目線や表情さえも。青いドレスを翻して少しも隙のない彼女のダンスは見惚れるくらいに美しい。
そんな踊り子を相手にしているアスハイルも、ネルイルが得意だと言うだけあって、あのシンディの自由な動きに完璧に対応して見せている。それがまたシンディの華やかさを際立たせているのだからとんでもない男だった。
数ヶ月共に旅をしていたが、アスハイルには驚かされてばかりだな。
「……クラヴィアもダンスが得意だった」
流れる曲と繰り広げられるダンスに会場中の視線が注がれる中、そんな呟きが聞こえて振り返ったのは近くにいた私たちだけだった。
ガレオラスは踊る二人の姿にかつての自分たちを重ねているのかもしれない。昔を懐かしむように目を細めながらぽつりぽつりと言葉を溢していく。
「彼女は、なんでも卒なくこなす人だったからいつも澄ました顔を崩さなくてな……それが、娘のこととなると――」
魔術を使ったわけでもないのに、時が止まったような気さえした。ガレオラスの視線がふと私に向けられたせいだ。
「独り立ちさせてしまうのが心配だとよく話していた。忘れろと言うくせに私に忘れさせなかったのも、彼女だ」
性別のせいで家督を継がせられない。いつかは手を離れてしまう。ならば、何があっても自分で乗り越えていけるように今から厳しく育てなければ。男の子のように、逞しく。良い母親にはなれなくてもいい。全てはあの子の為。たった一人の大切な娘の為。
クラヴィアが生前語っていたというそんな話を聞きながら、私は母の最期を思い出していた。
朦朧とした意識の中で語られた愛した男への言葉。
それから。
――おとこのこだったら、よかったのに……
「男の子だったらこんなに心配することもなかったかもしれないのに、とよく言っていた」
そう言って微かに笑う男の言葉が、静かに胸を満たしていく。
ずっと呪いのように思っていた。
でも、違ったのだな。
それがわかった瞬間体の奥底から込み上げて来るものがあって。けれどそれを必死に抑えて私はまた、ホールの中央で踊る二人に視線を戻した。
私は大丈夫。大丈夫だから。心配しないで。
そう、心の中で亡き母に告げながら。
曲が終わり、膝を折って互いに礼をする二人の姿に会場中から温かい拍手が巻き起こった。
そしてそこからは舞踏会の定番曲を私の記憶を頼りに流していく。
真っ先に踊った二人の完成度が高すぎて出て来る者はいなかったのだが、ネルイルがルトを引っ張ってダンスとも言えないステップを踏み出したことでその緊張感は一瞬で解けていったのだ。
思い思いに楽しむ人々の中、ガレオラスに背を押されたリオが椅子から降りて私の前にやってきた。
先程と同じように手を差し出したリオは、今度はどこか恥ずかしそうに微かに頬を染めている。
「その……ダンスは、まだあまりできなくて。もしそれでもよければ――私と、踊ってくださいませんか?」
「私も人と踊ったことはないんだけど、それで良ければ……」
乗せた手をふわりと雲でも掴むように握られて、むず痒い気持ちになりながら私たちも人々の輪に加わっていく。
躓きそうになるリオの体を支えながら踊っていると、いつの間にか男女のパートが入れ替わっていたりもしたけれど、この場でそんなことを気にする者は誰もいない。
今日は無礼講。身分も気にせずそれぞれが好きなように過ごす日だ。
これからまだ考えなければならないことも、やらなければならないことも沢山あるけれど。今日だけは。
私も、この時間を素直に楽しめる自分がいることが、嬉しいと思うのだ。
翌日。
罪人を乗せた馬車が屋敷の門から出ていくのを横目に、私たちは兄妹の見送りに出てきていた。
「魔術師の派遣のことは任せて。王都に戻ったら真っ先に申請出しておくから」
「ああ、よろしく頼むよ」
「エル。次に会ったらまた勝負頼む」
「はいはい。私の圧勝だったもんな」
アスハイルと私の決闘は、細やかな舞踏会の後にサクッと行われていたのである。屋敷の庭を広々と使った見せ物と化した決闘だったが、結果はもちろん私の勝ちだ。
シロの魔力を使う私に一撃も入れられなかったことがアスハイルは悔しかったらしい。向上心があるのはいいことだと思う。
ローブを纏って馬に跨る姿を見上げると、これで最後なのだなとしんみりとしてしまうくらいには二人のいる旅は濃いものだった。
リガンタの街で出会い、闘技場に入れず共に食事をした日。ミリアに殺されかけたアスハイルを救った時。道中に立ち寄った村や街での出来事。戦い。無事に全てを乗り越えて、こうしてそれぞれの目的の為にやってきた別れの日。なかなかに長い道のりだったと思う。
私が起こった出来事を思い返している間に他のみんなとも挨拶を終えたらしい。歩き出した馬の背から手を振る二人を、私たちも同じように手を振って見送った。
「それじゃあな。王都に来ることがあったら教会に寄れよー!」
「何かあったらいつでも頼ってきていいんだからねー!」
今生の別れというわけでもない。兄妹の居場所はわかっているのだし、またいつか顔を見に立ち寄ることもあるかもしれないから。
だから私たちの今日の別れは、あっさりしたもので構わない。そんなことを思いながらも、私は二人の姿が見えなくなるまで坂道をじっと見つめていた。
「さて。兵士の鍛え直しと新しい使用人の選定。やることは他にもまだまだある。私がここにいてやれる時間も限られているんだ。頑張ってもらうぞ」
「は、はい!」
元気よく返事をしたリオを伴って屋敷に戻る。
その姿に顔を見合わせて笑ったルトとシンディも続き、こうして私たちの新しい日々は、別れと共に始まっていくのである。
私を狙う得体の知れない気配が本格的に動き始めるのは、この日から一月後のことであった。
第三章、完
ここまで読んでくださりありがとうございました!
これにて第三章は完結です。
四章ではエルを狙う者たちとの戦いが始まっていくはずです!
エルたちの物語はまだまだ続きますので、四章もどうぞよろしくお願いいたします。
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