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放浪のエル  作者: ゆう
第三章
91/108

八十九



 二人が兵士たちの中を進む様子は魔力感知でよく見えていた。


 なにぶん周辺には同じ魔力を宿す者たちしかいないので、シィンディの持つベールやアスハイル自身の魔力は色も形も違って見やすいのだ。

 敵の使う魔術具もこの魔力感知で見えてくれたら良いのだが、反応が未弱すぎて近くにいないとわからないのが面倒なところである。


 そんな魔力が時折広がりを見せるのは、持ち主がその場で魔術を使った証。


 兵士たちは操られている状態なので戦闘中でも宿す魔力に変動がない。


 だから、もし、その中に、変動する魔力があるとすれば。



「――見つけた」



 アスハイルの近く。敵の反応の中に明らかに魔術を使っている反応がある。応戦しているのが手に取るようにわかる。

 

 この大群の中に紛れ込んでいたのはやはり、一定の範囲内の人間にしか魅了の効果が無いからか。通常のものとは明らかに異なる効果の魔術を使っていても、その条件だけは変わらなかったのかもしれない。


 

 横槍を入れるのは悪いとは思いつつ、見つけてしまったものは仕方ない。

 


 正直、あの金髪の女を思い出すだけで腹が立って仕方がなかったんだ。できることならこの手で葬ってやりたいと思わなくもない。


 しかしミリアの代わりに情報を引き出すと決めているからな。面倒だが生け取りだ、と私はその魔力が見える方へと真っ直ぐに指を向けた。

 


 魔力感知を頼りに座標を決め、その場所目掛けて生成した幾つもの杭を打っていく。一つの魔力を囲むように。檻のように。逃げ場など少しも与えないように。


 ああ、万が一魔力を掻き消す魔術具を持っていたら厄介だな。と、檻の中をシロの魔力で満たしておくことも忘れない。人間がこの中にいるのは少し苦しいかもしれないが、これで持っている道具は壊れるだろう。



「……あれ、兵士たちの進行が止まったね」


「魔術を強化していた道具が壊されたのだ。命令が行き届かなくなっている」


「なるほど。ついでに魅了も解けてくれたら良かったんだけど、そう上手くはいかないか」



 屋敷への進行は止まっても相変わらずアンデッド系の魔物のようにふらふらと徘徊する兵士たちの姿が見える。宿す魔力もそのままだ。これが街にでも出たら騒ぎどころの話ではない。



 私はすぐさま幻影魔術の術式を展開させた。

 準備はしていたのでかなり早く、そして大きなものが幾つも空に現れる。それが母の術式を囲むように広がったところでシロの魔力を流し、そして満たしていく。


 

 思い浮かべるのは、鍵盤。

 

 私は触れたことすらない楽器だけど、どんな音を出すのかだけは知っている。本来は白と黒で一列に敷き詰められたものだというが、近くで見たわけでもない私がイメージする形は少しだけ違っていた。


 現れたのは光に縁取られた美しい鍵盤。二種類の長さの薄い箱がまばらに波に揺られるように浮かんでいる。今回大きさは術式に合わせて巨大だが、リガンタやスイストンの街で作ったものと同じだった。

 

 それぞれが独立した単独の音。けれど合わさると曲になる。そんな私のイメージから作られる鍵盤は自由を体現するようにふわふわと浮遊していた。


 

 母の術式を囲むその鍵盤を私は一度ぐるりと見渡して、そして。また、記憶の蓋を開ける。



 


 夜。暗い廊下を歩いていた時に、扉の向こうから微かに聞こえてきた美しい音色。


 あの厳しい母が生み出しているとは到底思えない程に柔らかく、温かくて、そして優しい音の波。


 

 私は、それを聞いている時間が……


 何より、名も知らぬあの綺麗な曲が……




 

 伏し目がちにぼんやりとしていると、意識だけが記憶の海にどっぷりと沈んでいく気がした。

 体を動かすのも億劫なくらいの抵抗感。上も下もわからない浮遊感。外界の音がぼやけてどこか遠くに聞こえてくるような気さえする。

 

 そんな中で、ふと、頭の中に響く音があった。

 不思議となんの曇りなく、混ざりけのない澄んだ音。


 

 綺麗だ。


 綺麗だけど、それが酷く、寂しくもある。

 


 こんな素敵なものが誰もいない空間に閉じ込められているだなんて。観客が私だけだなんて。そんなのは勿体無い、と思う。



 だから私はその音を記憶の海から押し出すのだ。



 どうか誰かの耳に、届きますように。そう願って。

 



 

 浮かんでいる鍵盤が独りでに動き出す。緩やかに始まった演奏が、屋敷を超えて領地の隅々にまで響いていく。

 


 私は自然と祈るように両手の指を組んでいた。

 

 沈んでいた意識も戻ってくる。まだぼんやりとしたまま耳を傾ければ、記憶の中にしか無いはずの曲が辺りに響き渡っているのがわかる。


 

 多くの目が、音の発信源であるこの屋敷に集まるのが感じられた。


 魔力を帯びて光る巨大な術式とそれを囲む鍵盤という光景は、それはそれは奇妙で不可思議なものだろう。けれど集まる視線に恐怖は感じない。


 

 そうして曲が進んだあるところで、カチリと鍵の開くような音が聞こえてきた気がした。



 その瞬間、術式が更に光を増す。

 最初の眩しさはない。目にも優しい温かな光だった。

 

 私は内にある術式を通じてその光を取り込み、そして理解する。

 

 母が残した魔術の使い方。発動できるのが一度きりだということ。母が魔力を使い切った理由がこの術式にあったこと。



 ――あの日。


 突然病状が悪化したと思われた母は、この術式に全ての魔力を込めたことによる必然的なものだったのだと。


 病で徐々に衰弱していくよりも、魔力と術式を人の為に残し、すっぱりと死ぬことを選んだか。なんて潔い人だろう。



 組んでいた指をそっと解くと母の術式がバラバラと崩れていくのがわかった。その手のひらを空へ向け体の前にそっと持っていくと、崩れた術式が光の粒となり辺りに広がっていく。



 カチリ、カチリ。


 ピアノの音で奏でられる曲の中で微かに聞こえてくる時を刻む音。


 これがあの人の魔術。


 

 未来視という特殊な魔術を使えたあの人の研究は、時を操作するものであったのだと鍵を開けた今ならばわかる。流れ込んでくる魔力の中に見える術式は、そんな母の研究の全てであることも。


 けれど同時に、この魔術は人の力では実現不可能な代物だであることも理解した。時を操作するだなんてことが人にできるわけがない。

 きっと作成者であるはずの母ですら結局使えなかったのだと思う。だから私も母が魔術を使う姿を一度も見たことがなかったのだ。

 

 それをこういう形で残したのは、いつか魔物の力を得る者が現れることを知っていたからか。その者ならば、人が成し得ないような事象ですら起こし得ると信じたからか。


 だとすればこれは、一人の魔術師が生み出し、未来に託した未完成の魔術でもあるのだろう。





 術式から溢れる魔力の圧で風も無いのに髪が舞う。

 広がるローブのはためく音も聞こえてくる。

 


 私は今聞こえてくる全ての音に耳を傾けるように目を閉じた。すると広がった無数の光の粒が雫のように落ちていくのが魔力感知で見えてくる。

 

 そうしてその一粒一粒が地上にいる兵士たちに降り注ぎ、触れた者に時の魔術をかけていく。



 落ちていく光。その軌跡。人に吸い込まれ一度だけ瞬き、そして消える。それはとても、とても綺麗で、儚くて。


 目を閉じて魔力感知で辺り一帯を見ていたこの時の私は、まるで流星群の中にいる気分だった。








 




 結果的に、その魔術はこの戦いを終結させた。


 時の魔術にかかった兵士たちは魅了が解け、そのまま意識を失い倒れていったからだ。寝息を立てて寝ているだけのようなので、おそらく放置しておけばそのうち目も覚めるだろう。

 

 そんな中残ったのは私たちと、檻の中に閉じめていた魅了の術者。

 

 あとは屋敷の中にいたリオと――それから。


 母の曲に導かれるように目を覚ました痩せこけた男。



 男は流れる曲を聞きながら静かに涙を流していたと、その側にいたリオが後に私に教えてくれた。


 目が覚めたとはいえ一月も眠っていた男は、まだはっきりとはしない意識の中で譫言のように語ったという。


 

 あの曲はクラヴィアという一人の天才魔術師が若かりし頃に作った、とある人物への贈り物なのだと。


 未来視により長くは生きられないことを知っていた魔術師は、自分のいない未来を生きる誰かへ向け、伝えられない想いと、それから、こうあってほしいという願いを込めてあの曲を作ったのだそう。

 

 故にその曲には、男も知らない誰かの名が冠されていた。

 

 かつての妻が愛おしそうに読んでいた名前だったから当時は良く思っていなかったけれど。その響き自体は男も嫌いではなかったのを覚えている。


 これは、今から二十年近く前――娘が生まれる少し前の話。


 

「――エル」



 それが、あの優しい曲の名だ、と。



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