八十八
母の術式を使って兵士たちの時を巻き戻す?
今、シロはそう言ったのか。
どうやって?
「あれには複数の術式とやらが混ざっていた。お前の母親が残した魔術はまだ他にもあるということだ」
「他にもって……でも、制御した時にそんな感じは……」
「鍵がかかっているんだろう」
――鍵
魔術師が新たな魔術を生み出し術式に起こした時、その技術を他者が扱えないように鍵をかける者がいるという。
その形態は術者によって様々で、わかりやすく鍵状の道具を作る者もいるらしい。あとは特定に条件下でのみ発動する仕組みを術式に仕込んだり、何か一つの行動や言葉を鍵としている場合もあるんだとか。
この辺りの話は私よりもアスハイルやネルイルの方が詳しいかもしれない。
チラリと兄妹を見れば、言いたいことも伝わったのだろう。ネルイルが少し考える素振りを見せた後に口を開いた。
「あたしも術式に鍵をかけることはあるわ。特に植物系は専門だから、他人に術式の中身を知られたくないもの。魔術師にとって術式っていうのは研究資料そのものなのよ」
人が使う魔術には必ず術式が存在する。それは魔力を持つ者なら誰もが扱えるものである。けれど術式の作成者が鍵をかけずに発表したものに限るのが現状だった。
魔術師と研究者が同一に扱われるこの世界で、術式に鍵をかけることはそれほど不思議なことではない。
「鍵は作成者が亡くなっても効力は続く。だから普通は念の為に近しい者にこっそり教えておくものなのよ」
アスハイルとネルイルの兄妹もお互いの術式にかけている鍵を知っているという。信頼できる人だからこそ託せるものであるのだと。
「ねぇ、エル。貴女、母親から何か貰ったり聞いたりしていない?例えは、何か特別な日のプレゼントとか。よく聞かされた言葉だったりとか」
「………………特には」
プレゼントなんて貰ったことは一度もない。誕生日だって祝われたこともない。母と話すことと言えば、父の跡を継ぐ為の勉強についてや剣術や魔術の訓練について。あとはマナーが悪いと叱られるばかりだったと思う。
印象に残っている言葉と言えば――母が死ぬ間際に残したものがあるが、あんなものが鍵であったら流石に恨むぞ。
他に、何か、あるとすれば……
「――クラヴィア」
術式にも散りばめられていた母の名前。
しかし、もしそれが鍵だとしたら、単純すぎやしないだろうか。
他人に内容を知られない為の鍵だ。誰でもわかるような名前をあの厳しい母が鍵に使うとは流石に思えない。
これは違うなとため息を吐いていると、私の溢したそれに反応を示す者がいた。
「クラヴィアって、エルのお母様のお名前ですか?」
シンディだ。彼女はなぜか両手の指先を合わせ目をきらきらと輝かせてじっと私を見つめている。
私は戸惑いつつも頷いて返すと、わっと一人楽しそうに声を上げている様子は申し訳ないが意味がわからなかった。他の三人もシンディの行動には訳が分からず首を傾げている。
「偶然でしょうか、ピアノを指す言葉に似ていて驚きました!エルが踊りの音楽のために魔術で鍵盤を出してくれるのは、お母様の影響もあるのかもしれませんね!」
こんな状況にも関わらず、響き渡るのは場違いにも思える弾んだ声。
けれどその言葉は、自ずと私を答えに導いた。
使用人すら寄り付かないあのだだっ広いダンスホールで、一人ピアノを弾いていた姿が脳裏を過ぎる。
外はもう暗い時間帯。誰に聞かせるでもなく、覚えたばかりの新しい楽器をひたすら奏でていた時間。私はいつも気付かれないようにダンスホールに忍び込んでは隠れてそれを聞いていた。
会話があるはずもなく、忍び込んでいた私に気付いていたのかもわからない。けれど私にとっては、母と穏やかな時間を過ごしたと思える唯一の記憶である。
術式にやたらと刻まれていた母の名前。
それが本当にあの楽器を指しているのだとすれば。
――あの、曲が。
いったいどこまで視えていたのだろう。
今はもうこの世にいない人。
未来視の魔術師、クラヴィア。
私の、母。
どうして、私にこんな大切なものを託したのですか。
教えてください、母上――
私はどうにも落ち着かない気持ちを抑えてシンディを見上げた。
ありがとう、と。おかげで鍵が何かわかった、と。告げた私にみんながわっと声を上げる。
しかしこれで術式が使えたとしても、私に母の魔術が扱えるのだろうか。母が魔術を使っている姿なんか一度だって見たこともないのに。
シロの言葉通りなら時を巻き戻せる魔術なのだろうが……そんな世界の理に反するような真似が本当に私にできるのか。これは私の技量に対する単純な疑問である。
そんな私にシロは「できる」と真っ直ぐに言葉を投げかけてくるのだ。
「俺の魔力があるのにできないわけがない。というより、それを見越して作られている、が正しいな」
「……それってまさか、あの人、シロと私が出会うことすらわかっていたって?」
「そういうことだ」
なんなんだ。
なんなんだ、本当に。
もう六年近く前に死んだ人間が、どうしてこんなに出しゃばってくるんだ。
どうしてこんなに私を視ている。
見守るみたいに。先回りするみたいに。困った時に手を差し伸べてくれるみたいに。
これではまるで心配性の、ただの母親のようじゃないか。
私は頭を横に振って湧き上がってくる感情を振り払う。今考えていたって仕方のないことだ。本人に確かめることだってできやしない。
今はただこの状況を打開する方法があるのなら、有り難く使わせてもらう。それで、いいじゃないか。
「とにかく、私にできるっていうならやってみるよ」
私が兵士たちの魅了を解く。
しかし、術式を使ったら何が起きるのか、そもそも発動にどれだけ時間がかかるかもわからない。異変を察知され首謀者疑惑のある者に逃げられるのだけは避けたいところだった。
だから、まずは今兵士たちを止めている結界を解く。その後、みんなには代わりに兵士たちを足止めしてもらい、同時に術者を探し出してもらう。魅了を解くのはそれからだ。
「頼めるか」
そう問えば、四人分の力強い変事が返ってきた。相変わらず頼もしい仲間たちで有り難い限りてある。
私が軽く手を振れば魔力の結界が消え、そこに張り付いていた兵士たちが一気に雪崩れ込んでくるのが見えた。
瞬時に走り出した四人の背中を見送り、私はシロの魔力で翼を作って屋敷の上空を目指して飛び上がる。
ルトが強化の術式を描き、それを使ったネルイルが植物を生やして先頭の兵士たちを絡め取っているようだ。足止めとしては申し分ない威力に二人の魔術の相性は相当良いことが窺える。
既に兵士たちで埋め尽くされた坂道を下って街の方へ降りて行ったのは、体術を得意とするシンディとアスハイルだ。
時折上がる大きな波や竜巻、それから地響きと共に生えてくる大岩。巻き込まれ吹き飛ぶ人影がここからでもよく見えて、その容赦のなさに少しだけ笑ってしまった。
翼を消し、生成した結界の壁を足場に降り立った私は早速作業に取り掛かる。
まずは自分の内にある母の術式を思い浮かべてその魔力を調整する。魔力の制御はシロのもので散々やってきたことなので今更手間取ることもない。
すると、私の周囲に再び現れた巨大な術式。近くで見ればその精密さがよくわかる。
確かに私が覚えたものとは少し違うようだった。複数の術式が混ざっていると言ったシロの言葉通り、所々に違う文字列が無理なく組み込まれている。
対象に魔力を送り込むもの。これが父へ残した魔術だとすれば、鍵のかかったこちらが私に残されたものなのかもしれない。……なんてことを考えてみたり。
「使わせてもらうよ、クラヴィア」
母上、と。そう呼べなかったのは、心に灯ったほんの少しの反抗心のせいだった。
だって、何もかもあの人の思い通りに行くのは流石に悔しいじゃないか。私だって子供なんだから、反抗期があったっておかしくはないだろう?
そんな子供じみたことを考えてながら、私は幻影魔術の術式を思い浮かべる。
シンディかアスハイルが首謀者を発見した瞬間に、すぐにその鍵を開けられるように――




